第6話 クロエの酵母
バシールの鍛冶屋たちは、3日で俺の図面を形にした。
ドラム缶ほどの大きさの鉄製タンク。
その頭部から細い銅管が1本伸び、隣に置かれた小さな水瓶へ繋がっている。
「おい、マーク。本当にこんな鉄の樽と、細い管1本で酒ができるのか?」
作業台の泥を払い、図面を覗き込むバシールの顔は、鉄の粉で黒く汚れている。
「親方、この銅管の先を、水を張った小さな器に沈められるようにしてくれ」
「はあ? それだけか?」
「それだけだ。外の空気は入らない。中のガスだけが泡になって抜ける。それで酒になる」
「……嘘だろ」
「蜂蜜酒は、人類最古の酒だ。仕組みは驚くほどシンプルでいい」
バシールはしばらく図面を睨みつけ、鼻から激しく息を抜いた。
「……ガスを逃がす水封か。おい、ルカ! フタの密閉だけは完璧にしろ! 隙間から空気が入ったら、酒が死ぬぞ!」
その夜。
仕込みに入った。
俺は旧市街の商人から買い集めた蜂蜜を、革袋からタンクへ流し込んだ。
黄金色の液体が、鉄の肌を滑り落ちていく。
マ・カレシュの荒野に生えるサボテンに似た多肉植物の蜜だ。
強烈な臭さと、刺すような甘み。
「これに、ただの水を混ぜるのか?」
若い職人のルカが、不安そうに声を漏らす。
「比率は1対3だ。俺の家ではそうやって作ってきた」
煮沸して殺菌した水を注ぎ込み、太い木の棒で攪拌する。
蜂蜜が水に溶け、重苦しい甘さが工房に広がった。
だが、ここまでは誰にでもできる。
この醸造の成否を握る核心は、俺の懐にある素焼きの小瓶にあった。
クロエの酵母種。
あの夜、クロエの樹皮から削り取った野生酵母を、少量の糖水に浸して培養していた。
市販のパン酵母なんかでは、この街の劣悪な高温環境じゃ一瞬でダメになる。
雑菌に負けて、腐敗臭を放つ泥水に変わるだけだ。
俺が賭けたのは、テウマの過酷な気候の中で生きながらえていた、名もなき土着の野生酵母。
温室育ちの菌とは比較にならないほどタフで、獰猛な生存本能を持った規格外の菌種だ。
小瓶の中を覗いた。
液面に、微細な白い泡がわずかに盛り上がっている。
温度計も顕微鏡もない。
だが、子供の頃から実家のリンゴ酒造りを手伝ってきた経験が、この泡の盛り上がり方だけで教えてくれる。
クロエの酵母は、目覚めている。
「いくぞ、クロエ。お前の力を、この砂漠で見せてくれ」
小瓶を傾けた。
酵母液がタンクの液面へ落ちる。
透明な雫が、黄金色の蜜水に波紋を広げた。
「蓋を閉めろ」
バシールとルカが、鉄のボルトを巨大なレンチで締め付けた。
ギチギチと金属が噛み合う音が響き、タンクは完全な密閉空間になった。
「ここからは時間の勝負だ」
俺は発酵器の側面にそっと手のひらを当てた。
鉄はまだ、ただ冷たい。
「この街の夜の冷え込みと、昼の灼熱。この寒暖差をそのまま利用する。昼の熱で発酵を促し、夜の冷え込みで暴走を抑える」
「要するに、待つだけか?」
「待つだけだ。だが、温度は毎日確認する。鉄の表面を手で触って、熱すぎたら日陰に移す。冷えすぎたら布で巻く。俺の手が温度計だ」
バシールは腕を組み、不満そうに鼻を鳴らした。
「鍛冶屋が3日かけて組んだタンクを、手で触って管理するだと?」
「農業ってのは、そういうものだ」
深夜。旧市街の気温が急激に下がった頃。
静まり返った工房に「コトッ」と低い音が響いた。
銅管の先端。
水瓶に沈められた管の先から、1つの大きな泡が弾けた。
「……動いたか?」
ルカが顔を近づける。
「触るな」
俺はルカの肩を掴んで引き離した。
「ガスが出ている。酵母が蜜の糖を喰い始めた合図だ」
泡の間隔は徐々に短くなった。
ポコ……ポコ……ポコ。
やがて「ポコポコポコ」と、連続した規則正しい音に変わった。
水封の器から、これまでマ・カレシュの誰も嗅いだことのない匂いが漂い始める。
果実の腐敗臭とは違う。
鋭く、鼻腔を突き抜けるようなアルコールの匂い。
バシールが腕を組み、その音をじっと聞いていた。
「おい、マーク。本当にあの管から泡が出るだけで、酒が変わるんだな」
「ああ。クロエの菌がいま蜜を分解している。アルコールが生まれて、雑菌を殺していく。
1週間もすれば、あんたらが飲んでるションベンとは別次元の酒になる」
「1週間か」
「1週間だ」
長い1週間だった。
俺は毎夜工房に来た。
水瓶の口に耳を押し当てて、泡を数えた。
2日目。泡の間隔が安定した。菌が均等に増殖している証拠だ。
4日目。タンクの表面が微かに温かくなった。発酵熱。菌の活動が最も激しい時期。布を巻き、直射日光を避けた。
5日目。匂いが変わった。蜜の甘ったるさが消え、代わりに鋭い透明感のある香りが立ち始めた。
6日目。泡の間隔が徐々に長くなった。糖の大半を食い尽くしたのだ。
7日目の朝。
泡が、完全に止まった。
工房の中に、重い沈黙が戻っていた。
俺はバルブに手をかけた。
バシールとルカが、固唾をのんで見つめている。
「いくぞ」
バルブをゆっくりと回す。
金属の擦れる音と共に、細い管から液体が流れ出た。
バシールが差し出したコップに、その液体が溜まっていく。
色は、澄んだ琥珀色。
これまでの泥のような濁りは一切ない。
底まで見通せるほどに透明だった。
バシールがコップを奪い取るように掴み、鼻を近づけた。
太い眉が大きく跳ね上がる。
「なんだ、この匂いは……蜜の臭みが、完全に消えてやがる」
一気に口に含んだ。
喉が大きく鳴る。
バシールの身体が、硬直した。
「親方?」
ルカがおそるおそる覗き込む。
バシールは無言でコップを作業台に置き、袖で口元を拭った。
目が見開かれている。
「……マーク」
「どうだ」
「なんだ、これは。泥水じゃねえ。濁りが一滴もねえ。鼻の奥を突き抜けていく、この香りは何だ」
「クロエの野生酵母の力だ。糖を完全に分解して、雑菌ごと叩き潰した。残ったのは純粋なアルコールと香りだけだ」
バシールは俺の肩を掴んだ。
鍛冶屋の手が、骨に響くほど強く食い込む。
「おい、ルカ! 今すぐ表の戸を閉めろ! 誰にもこの匂いを嗅がせるな!」
ルカが慌てて重い木戸を閉め、鍵を落とした。
薄暗くなった工房の中で、琥珀色の液体だけが、かすかに揺れていた。
その夜、職人たちにも飲ませた。
一口飲んだ男が、黙った。
二口目を飲んだ男が、笑い出した。
三杯目を要求した男が、俺の手を握って「もう泥水には戻れねえ」と言った。
バシールは腕を組んで壁に寄りかかり、その光景をじっと見ていた。
「マーク」
「なんだ」
「明日から、タンクをもう2つ打つ」
俺は静かに笑った。
部屋に戻り、クロエの鉢の前に座った。
木彫りのコップに残ったミードを一口だけ含み、残りを根元に注いだ。
「お前のおかげだ、クロエ」
苗木は答えない。
だが、黒く焦げた葉の端に、ほんの微かに、新しい色が滲んでいるような気がした。




