第5話 鉄くず通りの拾い物
どれくらいの時間が経ったのか、わからない。
日が昇って、沈んで、また昇る。
その繰り返しを数えることを、やめた。
マ・カレシュの最下層。
壊れた家具と腐った食べ物の残骸が積み上がった、光の届かない吹き溜まり。
それが、今の俺の家だった。
壁に背中を預けて、安酒を煽る。
口に入れた瞬間に吐き気がこみ上がるような、酸味と雑味しかしない濁った液体。
酒と呼んでいいのかも怪しい。
だが、それを体に流し込まないと、頭の中の声が止まらなかった。
――視聴率。
酔いの底から、その言葉がいつも浮かび上がってくる。
――お疲れ様、マーク。あなたはもう、用済みよ。
冷徹な女の声。
振り払っても、砂漠の熱と一緒に耳の奥に貼りついて剥がれない。
左腕のデバイスの跡が、日焼けした肌の中で不自然に白い。 ニックが外していっ
た、あの瞬間の証拠。
あいつが一瞬だけ足を止めた、あの背中。 振り返りかけて、振り返らなかった、あの背中。
考えるたびに、また飲む。
飲むたびに、また考える。
毎朝、1つだけやることがあった。
ゴミ溜めの隅に置いた、割れた素焼きの鉢。 クロエの苗木に、自分の飲み水を少しだけ分ける。
なぜそうしているのか、自分でもわからなかった。
ただ、手が勝手に動いた。
葉は3枚に減っていた。 黒く焦げた端が、風に吹かれるとカサカサと乾いた音を立て
る。
死にかけている。
俺と同じだ。
だが、まだ死んではいない。
俺と同じだ。
ある夜。 廃墟の軒下で目を覚ますと、敷居のところに小さな包みが置かれていた。
麻布に包まれた干し肉と、清潔な水が入った革袋。 俺は身を起こし、周囲を見回した。
路地は暗く、人の姿はない。
干し肉を噛んだ。
硬い。だが味がある。ゴミ溜めで拾う食い物とは格が違う。
水を飲んだ。
革袋の水は、井戸水よりもずっと澄んでいた。
舌の上で転がすと、砂の味がしない。
こんな上質な水を、旧市街の住民が持っているとは思えなかった。
だが、それ以上考える気力がなかった。
翌朝も包みがあった。
その翌朝も。
同じ場所。
同じ包み方。
干し肉と、澄んだ水。
1度だけ、夜中に目を覚ました時、路地の向こうに影が動いた気がした。 深い藍色の布が、月光にかすかに光ったような。
だが目をこすった時には、もう何もなかった。
俺はそれを食い、飲み、クロエに水をやり、安酒を煽って眠った。
誰が置いているのか。
考えることすら、億劫だった。
何度目かの朝。
ゴミ溜めの縁に、大きな影が立った。
「おい。お前、そこで何日寝てやがる」
低く、濁った声。
見上げると、煤で黒く汚れた革のエプロンを着けた巨体の男がいた。 腕を組んで、
俺を見下ろしている。
「……誰だよ」
「バシールだ。鉄くず通りで鍛冶屋をやっている」
鉄くず通り。 旧市街の職人街だ。 名前だけは聞いたことがある。
「お前のことは知ってる。東区画で穴を掘りまくっていた、よそ者の技師だろう」
俺は答えなかった。
バシールが俺の前にしゃがみ込んだ。
無理やり手を取られた。抵抗する気力もなかった。
大きな手だった。
鉄を打ち続けてきた手。
硬いが、温かかった。
バシールは俺の掌を開き、指の付け根を親指で押した。
「この手のタコ……ただの浮浪者じゃねえな」
「……ただの、過去のことだ」
「ふん。過去だろうが何だろうが、このマメは消えやしねえ」
バシールは立ち上がり、顎で工房の方を示した。
「来い。ゴミ溜めで死なれたら寝覚めが悪い」
それだけだった。
何かをしろとも言わなかった。
ただ、場所を与えてくれた。
バシールの工房の片隅に、俺の寝床ができた。 鉄くずと煤の匂いが染みついた、薄
い毛布1枚。 それでもゴミ溜めよりはましだった。
職人たちは俺をほとんど気にしなかった。
朝から晩まで鉄を打ち、日が暮れると粗悪な濁り酒を回し飲みして騒ぐ。
俺はその隅で、クロエの鉢を抱えて座っていた。
毎朝、配給の水を少しだけクロエに分ける。 毎晩、安酒を煽って眠る。
それだけの日々が、何日か続いた。
ある夜。
工房の隅で、クロエに水をやっていた。
いつもと同じように、木彫りのコップに残った水を根元に注ぐ。 水が赤い土に染み込んでいくのを、ぼんやりと眺める。
ふと、樹皮に目がいった。
カサカサに乾いた幹の表面に、指先で触れた。
――白い粉。
ごく微量の、粉状の付着物。
俺の指が、止まった。
この白さには、見覚えがある。
果実や樹皮に棲みつく天然酵母の、目に見える唯一の痕跡。
俺はクロエの幹に顔を近づけた。
指先で粉を少量こすり取り、掌の上で転がした。
――間違いない。
この過酷な砂漠で。テウマの岩場で。 なお生き延びようとしているこの樹の皮に、
野生の酵母が潜んでいる。
温室育ちの酵母じゃない。 灼熱と乾燥を生き抜いた、途方もなくタフな菌。
こいつを使えば――
心臓が、跳ねた。
実家のリンゴ園で、天然酵母を使って酒を仕込んでいた記憶が、一気に蘇る。
蜂蜜と水。 密閉できる容器。 温度管理。
マ・カレシュの市場には蜂蜜が出回っている。 水はある。
密閉容器は――
俺は工房の奥を見た。
バシールが打った鉄鍋が、壁にずらりと並んでいる。
あの腕なら、密閉式のタンクくらい造れるはずだ。
「造れる」
声が出た。
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
「ここで、本物の酒が造れる」
翌朝。
俺はバシールの作業台の前に立った。
「親方。頼みがある」
ハンマーを振るっていたバシールが、手を止めた。
「あ? なんだ、まだ生きてたか」
「俺の描く図面通りに、内圧に耐えられる密閉式の鉄製タンクと装置を組んでくれ」
懐から、木炭で書き殴った図面を作業台に広げた。 バシールが図面を覗き込む。
「……なんだ、こりゃ」
「発酵装置だ。蜂蜜と水と、こいつの力で――」
俺はクロエの鉢を作業台に置いた。
「本物の酒を造る」
バシールは図面と、クロエと、俺の目を順番に見つめた。
「お前、酒を造れるのか」
「農学者だ。発酵の管理は専門だ」
「ほう」
バシールの目が、ギラリと光った。
「おもしれえ。対価は?」
「完成した酒の分け前だ」
俺は真っ直ぐに、老鍛冶師の目を見据えた。
バシールは鼻から激しく息を抜いた。
「おい野郎ども! 鍋の修理は全部後回しだ! こいつが描いた、とびきりイカれたやつを組み上げるぞ!!」
怒号が響く。 鍛冶屋たちが一斉に動き出した。
カンッ、カンッ!
真っ赤に熱された鉄板を叩く重厚な音が、薄暗い路地裏に鳴り響き始める。
俺はクロエの鉢を作業台から下ろし、工房の一番安全な場所に置いた。
「お前のおかげだ、クロエ」
苗木は答えない。
だが、黒く焦げた葉の端に、 ほんの微かに、新しい色が滲んでいるような気がした。




