第4話 塩の報い
ニックに何度訴えても、答えは同じだった。
「深層に水脈がある。この野生のリンゴが証拠だ。
デバイスの探査制限を解除して、もっと深くスキャンさせてくれ」
「旦那、それは俺の権限じゃないっす」
「なら上に掛け合え。岩盤の下に水がある。掘削の予算さえ降りれば――」
「いやー、上は今、数字のことしか見てないんすよ」
ニックはタブレットを開き、画面を俺に向けた。
折れ線グラフは赤い。
3ヶ月前に灌水システムが完成した時の緑色は、もうどこにもなかった。
「インフラ工事は絵にならないって。
もっと映える成果を出してくれって、上が言うんすよ」
「映える? 土が白くなって苗木が死んでるのに、映えもクソもあるか」
「旦那、俺だって分かってますよ。でも数字が落ちたら支援が止まる。
支援が止まったら、旦那の帰還プログラムも――」
「……わかってる」
俺はニックからタブレットを奪い取り、画面を睨んだ。
赤い折れ線。
右肩下がり。
俺の2年間の汗と設計が、この一本の線に集約されている。
この線が底を打てば、全部終わる。
「……もう少しだけ時間をくれ」
俺はそう言って、毎晩テウマの山へ通い続けた。
デバイスでは50メートルまでしか見えない。
だが地表の地質データを集め、岩の色と土の湿度から、水脈の位置を推測し続けた。
あと少し。
あと少しで、上を説得できるだけのデータが揃う。
そう思っていた。
相次ぐ事故で灌水システムは半壊していた。
パイプラインの補修に使える鉄材は底をついていた。
ニックに頼んでも「予算の話っすから上に言ってください」
の一点張りだった。
数字が赤いまま支援が増えるわけがなかった。
白く死んでいく畑に水を撒き続けることしかできない日々。
塩害と半壊の挟み撃ちで、東区画はもう手の施しようが
なかった。
それでも俺は諦めていなかった。
深層の水さえ掘り当てれば、一からやり直せると信じていた。
その日は、いつもと同じ朝だった。
白く死んだ東区画に水を撒き、枯れた苗木を記録し、部屋に戻った。
クロエの鉢に水をやり、木彫りのコップをポケットにしまった。
相次ぐ事故で灌水システムは半壊し、
塩害と合わせて、東区画はもう手の施しようがなかった。
それでも俺は諦めていなかった。
深層の水さえ掘り当てれば、
一からやり直せると信じていた。
その朝、デバイスが、突然光った。
強制起動。
俺が触れたわけじゃない。向こうから接続してきた。
画面に、声が流れた。
「マーク・スキナー」
女の声だった。
聞いたことのない、冷たく、整った声。
「あなたのプロジェクトは、本日をもって終了よ」
「――待ってくれ」
俺は反射的に叫んでいた。
「深層に水脈がある。まだ証明はできていないが、
地質データの蓄積があと少しで――」
「あなたの視聴率は、基準を大幅に下回りました」
視聴率。
俺の思考が、凍りついた。
「……視聴率?」
「ええ。泥臭いインフラ工事を、これ以上見たい視聴者はいないの」
視聴者。
「成果じゃなくて、視聴率の話だったのか?」
「最初からそうよ。あなたの努力は、世界中の視聴者に配信されていたわ。
知らなかった? ニックから説明がなかったのかしら」
血が、引いた。
2年間。
土を掘り、汗を流し、灌水システムを設計し、
地質データを集め、塩害と闘い続けた2年間。
そのすべてが――
評価されていたのではなく、消費されていたのだ。
俺の苦しみは、安全な場所にいる誰かの娯楽だった。
「お疲れ様、マーク。あなたはもう、用済みよ」
通信が切れた。
画面が暗くなった。
部屋の中に、砂漠の熱気だけが残っていた。
視聴率。
折れ線グラフ。
数字。
ニックが嬉しそうに見せていた、あの緑色のグラフ。
「いい数字っすよ旦那」と言っていた、あの声。
「旦那の実績、ちゃんと記録しとかないと」と打ち込んでいた、あの端末。
全部――視聴率だったのか。
農業プロジェクトの成果評価じゃなかった。
俺が泥にまみれて苦しむ姿を、どこかの金持ちが画面越しに眺めて楽しんでいた。
それだけの話だ。
頭の中で、ここ数週間の「偶然」が並んだ。
パイプの均一な破断。
前例のない方角からの砂嵐。
深層スキャンを拒否し続けた上層部。
数字が落ちた途端に「映えろ」と言い始めたニック。
全部、繋がっていた。
俺が化石水の存在に近づきすぎた。
それを察知した誰かが、俺の環境を意図的に壊していたのだ。
連中にとって、俺のインフラが完成することより、
俺が泥にまみれて足掻き続ける映像の方が価値があった。
吐き気がした。
俺は俺自身の失敗だと思って、毎晩テウマの山を
登り続けていた。
だが違った。
俺の手が届きかけた瞬間に、別の誰かの手が
足場を蹴り飛ばしていたのだ。
俺は壁を、殴れなかった。
殴る力が残っていなかった。
「旦那」
ニックの声がした。
振り返ると、アロハシャツの男が入り口に立っていた。
いつもの軽い笑顔。だが、目が笑っていない。
「デバイス、返してもらうっす」
「……お前、知ってたのか」
「……」
「最初から知ってたのか。配信のこと。視聴率のこと。全部」
ニックは答えなかった。
俺の左腕に手をかけた。
デバイスの留め具を外す。
慣れた手つき。
何度もやったことがあるような、手慣れた動き。
外された左腕に、白い装着痕だけが残った。
ニックが踵を返す。
その背中が、扉の向こうに消えかけた時――
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、ニックの足が止まった。
振り返りかけて――振り返らなかった。
アロハシャツの背中が、夜の路地に消えた。
俺は部屋の真ん中に立ったまま、しばらく動けなかった。
ニックの後に続いて、もう一人が来た。
もう一人、また一人。
俺がこの街で唯一信用していた、作業を手伝ってくれていた
現地の男たちが、一人ずつ部屋を訪ねてきた。
そして一言も言わずに、目を合わせずに、去っていった。
翌朝。
いつも一緒に東区画へ向かっていた男たちが、誰もいなかった。
宿舎の彼らの部屋は空になっていた。
私物も何もない。
まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように。
GECOが一斉に撤収させたのだと、俺はずっと後になって
ようやく理解した。
あの時はただ、幻だったのかと思った。
2年間、一緒に土を掘った人間たちが、
幻だったのかと思った。
左腕が軽い。
デバイスの重さに慣れていた腕が、急に頼りなくなった。
手の中には、木彫りのコップだけが残っている。
ハミドの声が、耳の奥で鳴った。
「お前の手は、土を知っている手だ」
その手が今、何も握っていない。
土も、データも、帰る手段も、全部消えた。
クロエの鉢だけが、部屋の隅で静かに立っていた。
黒く焦げた葉が、夜風にかすかに揺れている。
俺はその鉢を抱えて、部屋を出た。
どこへ行くのか、自分でもわからなかった。
ただ、足が勝手に動いた。
旧市街の路地を下り、さらに下り、光の届かない場所へ。
壊れた家具と腐った食べ物の残骸が積み上がった、街の最下層。
ゴミ溜め。
俺はそこに膝から崩れ落ちた。
クロエの鉢を胸に抱いたまま、動かなくなった。




