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箱庭のテラフォーミング【マーク編】 心折れた農学者が、もう一度土を掴むまで  作者: 大神みや


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第3話 白い土と、道化の数字

18ヶ月目の朝は、いつもと同じように始まるはずだった。


日の出と共に東区画へ向かう。


灌水システムの稼働を確認し、バルブの分配バランスを微調整する。


試験用の苗木の生育を記録する。


それが日課だった。


だが、その朝、果樹園の入り口で足が止まった。


白い。


一面が、白かった。


昨日まで赤褐色だった地表が、霜のように真っ白な結晶で覆われている。


苗木の根元も。


パイプラインの周囲も。


俺が丁寧に調整したバルブの接合部も。


全部、白い。


膝をついた。


指ですくう。


舌に乗せる。


塩だ。


理解するのに、3秒もかからなかった。


俺の灌水システムは浅い地下水を利用している。


だが、この土地の浅い地下水には塩分が含まれていた。


ポンプで吸い上げ、パイプで分配し、バルブで均一に散水する。


完璧に撒かれた水が、灼熱の太陽で蒸発するたびに、塩だけが地表に残る。


毎日。毎日。


丁寧に撒くほど、均一に、確実に。


俺が造った完璧なインフラが、この大地を殺していた。


苗木の根元に駆け寄った。


昨日まで辛うじて保っていた緑が、どす黒く萎びている。


過剰な塩分が細胞の水分を奪い取り、植物が内側から壊されていた。


俺は汚染された土を素手で掻いた。


爪の間に塩の結晶が刺さり、痛みが走る。


だが、胸の奥の感覚に比べれば、たいしたことはなかった。


「ニック!」


宿舎まで走った。


叩き起こした。


「見ろ、東区画が全部白い。塩害だ。浅い地下水じゃダメなんだ。もっと深い水脈を探らないと」


ニックは眠い目をこすりながら、タブレットを開いた。


「旦那、落ち着いてくださいよ」


画面を見て、ニックが眉をしかめる。


「……あー、確かにスコア落ちてますね。上層部が言ってるんすよ。最近のコンテンツが地味だって」


「数字の話じゃない! この土地の生態系の話だ!」


「いやー旦那、俺に言われても。上が予算を出してくれないことには」


ニックはタブレットを閉じた。


「もう少し見栄えのする成果を出しましょうよ。旦那のハドソン渓谷のスマートな農業、もっと見せてくださいって」


俺は言葉を失った。


見栄えの問題じゃない。


水源を変えなければ、何をやっても塩が浮く。


だが、ニックのタブレットの数字は赤く点滅していた。


この数字が落ちれば支援が止まる。


支援が止まれば――帰れない。


「……わかった。深層の調査をしながら、別の手を打つ」


俺は自分にそう言い聞かせた。


だが「別の手」なんてなかった。


浅い水を使い続ける限り、塩は増える。


それはもう、変えようのないことだった。


その夜から、俺は単独で城壁を越えるようになった。


デバイスのスキャン機能を使い、深層の地質データを片っ端から採取する。


月明かりの下、テウマの山脈の麓まで歩き、岩場を登り、土を掘った。


誰にも言わなかった。


ニックにも。GECOにも。


昼は白く死んでいく畑に水を撒き、夜は一人でテウマの山へ向かう。


その繰り返しが、何週間も続いた。


塩害だけではなかった。


ある朝、東区画のパイプラインが


3箇所同時に破断しているのを見つけた。


自然劣化にしては、あまりにも均一な壊れ方だった。


翌週には、苗木の植栽エリアに


砂嵐が直撃した。


この時期にこの方角からの砂嵐は、


2年間で一度もなかった。


偶然が重なった——そう思うしかなかった。


疑う根拠もなければ、疑う気力もなかった。


塩害と修繕の繰り返しで、俺の頭は限界に近かった。


後になって知ることだが、あの「偶然」は偶然ではなかった。


だがその時の俺には、知る由もなかった。



ある夜。


テウマの険しい斜面を登っていた時、足元の岩の色が変わった。


赤褐色から、より暗い色へ。


水を含んだことのある土の痕跡だ。


そして、岩の割れ目に何かが見えた。


近寄って、膝をついた。


月光に照らされた、細い葉の形。


ギザギザとした葉の縁。


楕円の輪郭。


若い幹の、見覚えのある樹皮の質感。


手が震えているのに気づいた。


この形を、俺は知っている。


ハドソン渓谷で毎朝見ていた。


アフリカの地で2年間育てた。


世界のどこにいても、見間違えない。


「リンゴだ」


声が出た。自分でも気づかずに。


「……間違いない。これは、野生のリンゴだ」


ここに育っている。


この凶悪な乾燥と酷暑の中で。


誰の助けも借りずに、根を岩の隙間に潜り込ませて、


深いところから水を引き上げて――


独力で、生きている。


俺は震える手で幼木を丁寧に掘り起こし、衣服に包んで胸に抱いた。


夜明け前にマ・カレシュへ戻った。


旧市街の隅で見つけたひび割れた素焼きの鉢に、持ち帰った土ごと植えた。


壊れないように、麻紐を何度も巻いた。


葉は3枚。


細くて頼りない。


だが確かに、青々と生きている。


しばらく、鉢の前に座ったままでいた。


配給された飲水の残りを、少しだけ根元に注いだ。


自分の分を削って。


「ハドソンは寒かったな」


声に出していた。


誰に言うでもなく。


「ここはクソみたいに暑い。だけど……お前みたいなやつが、ここにいたのか」


指先で、若葉に触れた。


「クロエ」


気づいたら、その名前を口にしていた。


古代ギリシャ語で「新緑」。


ハドソン渓谷に待たせている、俺の恋人の名前。


なぜその名前を呼んだのか、自分でもわからなかった。


ただ、この木の生き方と、彼女が待っているということが、俺の中で同じ場所にあった。


帰れないかもしれない。


初めて、その可能性を、まともに考えた。


考えて――俺は鉢を両手で強く持った。


帰れなくても、これだけは枯らさない。


デバイスで深層をスキャンしようとした。


だが、画面に表示されたのは、無機質な文字列だけだった。


『探査深度制限:地表から50m』


50メートル。


浅い地下水――塩害の原因になっている、あの水しか見えない。


もっと深く。


もっと、地の底を覗けば――


この野生のリンゴが根を伸ばしている、その先にあるはずの水脈が見えるはずだ。


だが、デバイスが見せてくれるのは、50メートルの浅い世界だけだった。


水はある。


この木が生きていることが、何よりの証拠だ。


だが、それを証明する手段がない。


どこに、どれだけの量が眠っているのか、データがなければ誰も動かせない。


300メートル超の掘削には、巨大なボーリング装置と莫大な予算が要る。


俺は扉を開け、夜の路地に出た。


テウマの山を見上げようとして――足が止まった。


路地の向こうに、人影があった。


月光を背にした、女の輪郭。


深い藍色の布を肩に巻いた、細い影。


目が合った。

一瞬だけ。本当に一瞬だけ。


その目は――「観察対象」を見る目ではなかった。


言葉はなかった。


女は視線を外し、静かに闇の中へ消えた。


俺は路地に一人残された。


あの目の色だけが、網膜に焼きついていた。


琥珀色。


暗い夜に、一瞬だけ光った、深い琥珀色。


意味はわからなかった。


だが、見られていた、ということだけは確かだった。


部屋に戻り、クロエの鉢の前に座った。


木彫りのコップに残った水を、根元に注ぐ。


水が赤い土に吸い込まれ、一瞬で消えた。

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