第2話 新しいエージェント
「おっ、やっとお目覚めっすか、旦那!」
影が差した。
振り向くと、アロハシャツを着た若い男が立っていた。
砂漠の広場で、完全に場違いな格好。
この暑さでその服を着ている理由がわからない。
男は両手を広げて笑っていた。
笑い方が、どこかおかしかった。
明るく見せようとしている、と気づいたのは後からだ。
「俺はニック。今日から旦那の担当エージェントっす」
「エージェント?」
「ここはGECOの新しいプロジェクトの城壁都市マ・カレシュっす。旦那の任務は、この砂漠のド真ん中で果樹園を作って砂漠化を止めること」
左腕に、見知らぬ黒いデバイスが嵌められていた。
重い。いつの間にこんなものを。
ニックがタブレットを接続し、画面を見せた。
「評価スコア」と書かれた数値がゼロのまま点滅している。
「GECOが成果を全部記録してるんで、いい数字を出せば出すほど、上からの支援もドカンと降ってきますよ」
「成果を出せば、帰れるか」
「ええ、まあ」
一瞬だけ、ニックの目が俺から逸れた。
気づいたが、頭がまだ働かなかった。
「帰れるんだな」
「……数字次第っす」
ニックはタブレットを閉じ、アロハシャツの襟を直した。
端末を操作する指の動きだけが、軽薄な口調に似合わないほど手慣れていた。
翌朝から、俺は動いた。
城壁の東端。
「東区画」と呼ばれる一帯に広がる荒れ地を歩き回る。
見渡す限りの赤褐色の砂と、ひび割れた地表。
だが、一つかみ掬って握り込むと、微かに粘りがある。
有機物がゼロではない。完全に死んではいない。
果樹の前に、まずインフラだ。
俺はデバイスのスキャン機能で地下構造を読み取り、設計図を描き始めた。
大学で叩き込まれた灌漑工学の理論が、頭の中で回る。
地下の温度差を利用した圧力ポンプ。
水を均等に分配するバルブ群。
浅い地下水脈を吸い上げるための、網目のように張り巡らせたパイプライン。
「ニック。この図面通りに資材を手配しろ」
「おっ、さすが旦那。いきなり本気っすね」
ニックが端末を叩く。
GECOの予算で資材が届く。粗悪だが、設計さえ正確なら機能する。
石を割り、溝を掘り、管を通す。
ハドソン渓谷で父親と一緒に水路を引いた記憶が、手のひらから蘇る。
あの頃の俺は、土を掘ることが遊びだった。
ここでは遊びじゃない。
だが、手が覚えている感覚は同じだ。
ある朝、東区画に戻ると、必要だと思っていた資材が積み上がっていた。
俺が図面に書いた規格そのままの、新品の配管パーツ。
ニックが「GECOからの補助物資っす」と事もなげに言った。
俺は深く考えなかった。ただ使った。
3ヶ月後。
東区画の地下に、灌水システムが完成した。
石造りの水路が血管のように広がり、ポンプが静かに稼働している。
バルブは精緻に調整され、等間隔で水を分配する。
地表に試験用の苗木を植えた日、俺は完成したシステムの上に立って東区画を見渡した。
まだ緑はない。
だが、この地下には俺が設計した水脈が走っている。
いける。ここから果樹園を作れる。
「旦那、数字がバンバン上がってますよ!」
ニックがタブレットを見せる。
折れ線グラフが右肩上がりの緑色に変わっていた。
「上も大喜びっす。この調子ならサポートも増えますから!」
俺は鼻で笑い、視線を土に戻した。
数字なんてどうでもいい。
この灌水システムが動き続ければ、やがてこの地表に果樹を植えられるようになる。
成果を出して、帰る。
恋人のいるハドソンに。
ニックが嬉しそうにタブレットに何かを打ち込んでいた。
「旦那の実績、ちゃんと記録しとかないと」と言っていた。
報告書。成果記録。
俺はそれを、農業プロジェクトの正当な評価だと信じていた。
その夜。
東区画の工事現場から宿舎に戻る途中、俺はふと足を止めた。
城壁の影に、気配があった。
風ではない。
呼吸がある。
誰かがそこに立っている。
振り返ったが、誰もいない。
月光が赤土を照らしているだけだ。
城壁の石の継ぎ目に、布が擦れた痕があるような気がした。
だが暗くて、はっきりしない。
気のせいか。
俺は首を振り、歩き出した。
ポケットの中で、木彫りのコップがゴツゴツと腿に当たる。
ジュースの甘さはもう消えている。
代わりに、この街の赤い砂の匂いが染みつき始めていた。
帰れる。成果を出せば帰れる。
そう信じた夜のことを、俺は後になっても覚えている。
あの折れ線グラフの「数字」が、何を意味していたのか。
まだ何も、知らなかった頃の夜だ。




