第1話 最後の収穫祭
北アフリカの、標高1,600メートルを超える高原。
朝の空気が冷たい。
吸い込むと、草と土と、リンゴの香りの混ざった匂いがする。
俺はその匂いが好きだった。
ハドソン渓谷の実家と同じ匂い。
父親の背中を追いかけて、泥だらけになりながらリンゴの枝を拾っていた頃と、同じ匂いだ。
「マーク。今朝の剪定、見てくれるか」
振り返ると、ハミドが立っていた。
集落で一番の古株。
俺がここへ来た当初、「おまえに何ができる」と真顔で言った男だ。
今はその同じ手が、自分で剪定した枝を誇らしそうに差し出している。
受け取った。切り口の角度を見る。力の抜け方を確かめる。
「完璧だ」
たった一言で、ハミドの顔の皺が倍になった。
俺、マーク・スキナーは、GECOの農業プロジェクトに参加し、このアフリカの山奥で農業指導員として2年間を過ごしていた。
「リトル・スイス」と呼ばれる冷涼な高原地帯。
標高が高く、空気が澄んでいて、リンゴの栽培に適している。
実家がニューヨーク近郊のハドソン渓谷にあるリンゴ農家だった。
子供の頃から土の扱いと果樹の世話は身体に染みついている。
大学で農学を学び、武者修行のつもりでこのプロジェクトに飛び込んだ。
最初は言葉の壁に苦労した。
風土や文化の違いにも戸惑った。
だが、2年かけて、この土地にリンゴ栽培の技術を定着させた。
気難しかった農場主たちからの評判も上々だ。
あと半年。
任期が終われば、ハドソンに帰る。
実家の農場を継いで、クロエに会える。
クロエ。
名前を思い浮かべるだけで、秋のハドソン渓谷が脳裏を吹き抜ける。
落ち葉が積もった農道。
古いピックアップトラックの助手席。
「早く帰ってきなよ」と半分笑いながら言った、あの声。
もうすぐだ。
あと半年で、あの農道に帰れる。
収穫祭の夜は、野外だった。
薪がパチパチと爆ぜる。
その周りに集落の人々が集まり、シチューの匂いが漂い、どこからか楽器の音が聞こえてくる。
俺はハミドの隣に腰を下ろした。
彼の息子が作ったシチューを木の器ですすっている。
羊の肉と、ひよこ豆と、俺たちが育てたトマト。
「マーク」
ハミドが言った。
「お前が来る前、ここのリンゴは大して美味しくなかった。お前が来てくれてから本当に良くなった」
「俺も最初は無理だと思った」
「だが、お前はやった」
ハミドは薪の炎を見つめたまま、静かに笑った。
「お前の手は、土を知っている手だ」
その時、若者が一人、近づいてきた。
手に、粗削りだが形の整った木彫りのコップを持っている。
「俺が彫ったんだ」
若者は少し照れくさそうに言った。
「お前への礼だ」
コップの中には、黄金色の液体が揺れていた。
今朝、若者が自分の手で絞った、混じり気のないリンゴジュース。
見回すと、その場にいる全員が、何らかの器を手に持っていた。
ハミドが立ち上がった。
「乾杯しよう、マーク」
俺たちはコップを掲げた。
果汁が喉を潤す。
甘く、爽やかで、リンゴそのものの味がした。
子供の頃に飲んでいたものと同じ味。
——ああ、俺は帰れるんだ。
この仕事を終えて、クロエに会って、この味を——
その直後。
世界が歪んだ。
視界を塗り潰す、不気味な青い閃光。
大地が消えた。
重力の方向がわからなくなった。
ハミドの声が。薪の熱が。若者の笑顔が。
全部、一瞬で遠ざかって——
消えた。
最初に感じたのは、熱だった。
皮膚が焼ける。
肺が乾く。
それだけしかない世界。
「う、あ……っ」
目を開けると、赤茶けた城壁が四方にそびえていた。
見たこともない巨大な街の広場。
俺は石畳の上に倒れていた。
太陽が高い。
40度は超えている。
あの冷涼な高原の風は、どこにもない。
右手に、何かが触れた。
コップだ。
あの木彫りのコップを、まだ握っていた。
中を覗いた。
果汁はない。
代わりに、赤い砂が少し積もっている。
俺は石畳の上で、コップを握ったまま、動けなかった。
ハミドの声が、まだ耳の奥で鳴っている。
薪の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
だが、目の前にあるのは——
灼熱の太陽と、赤い砂と、見知らぬ城壁だけだった。




