第11話 ごめんな、クロエ
カイとカオルが戻ってきたのは、マ・カレシュに緑が根づき始めた頃だった。
2人は並んで工房の入り口に立っていた。
カイの隣にいる黒髪の女——カオル。
屋台の親父が「大した嬢ちゃん」と言っていた、あの噂の人物。
疲弊した目。
だが同時に、何かを成し遂げた人間だけが持つ静かな光を宿していた。
「マークさん。中央に行く。一緒に来てほしい」
カイの目には、あの夜工房に現れた時と同じ光があった。
ただし今度は、隣に同じ光を持つ人間がいる。
「ジャンナの本部に乗り込んで、配信を止める。GECOを終わらせるんです」
俺は腕を組んだまま、2人の顔を交互に見た。
中央。ジャンナ。イザベルの膝元。
俺をゴミのように捨てた連中の本拠地。
「正気か」
「正気です」
カオルが口を開いた。初めて聞く声だった。低くて、硬い。
「あの女のシステムに穴を開けるのは私がやる。でもジャンナまでの足がない」
「足が要るから来たのか。タクシーじゃねえんだぞ」
「違う」
カイが言った。
「マークさんがいなきゃ、俺たちはここまで来られなかった。最後まで、一緒に行きたいんです」
静寂が落ちた。
工房の奥で、バシールが鉄を打つ音が止まっている。
聞き耳を立てているのだろう。
俺はため息をついた。
テウマの山を睨み、天井を仰ぎ、最後にカイの目を見た。
あの夜、こいつにフロの裏コードを使った時と同じだ。
頭では馬鹿げていると思っている。
だが、腹の底が動いている。
「……やれやれ」
短く息を吐いて、頭を掻いた。
「チッ。仕方ねえな。どいつもこいつも、ど阿呆ばっかりだ」
壁にかけてあったトラックの鍵を取った。
「行くぞ。あのポンコツ、たくさん乗ると坂でエンストするからな。荷物は最小限にしろ」
ジャンナまでの道中のことは、あまり覚えていない。
ジャンナは、マ・カレシュとは別世界だった。
緑に覆われた巨大な都市。整備された水路。
だが俺の目には、違うものが見えた。
この緑は、住民が育てたものじゃない。GECOが上から与えた緑だ。
本部での出来事は、カイとカオルの戦いだった。
俺は後ろに立っていただけだ。
カオルがシステムに穴を開ける指先の速さ。
カイがイザベルの前に立ち、一歩も引かない背中。
2人の息が、見事に噛み合っていた。
イザベルの顔を、俺は初めてまともに見た。
画面越しに打ち切りを告げてきた、あの冷徹な声の持ち主。
目の前で見る彼女は、思っていたより若かった。
人形のように整った顔に、何の感情も浮かんでいない。
憎いか、と自分に聞いた。
わからなかった。
ただ、あの顔に2年分の怒りをぶつけたところで、砂に埋もれた俺の灌水システムが蘇るわ
けではなかった。
配信は停止された。
GECOの番組は終わった。
そして——転移者全員に、選択が与えられた。
地球へ帰るか。この星に残るか。
左腕のデバイスの画面に、2つの選択肢が静かに明滅している。
『帰還プログラムを実行しますか?』
木彫りのコップを手の中で回した。
表面はすっかり磨り減っている。
ジュースの味はとうに消え、蜂蜜酒と砂漠の砂の匂いが染みついていた。
帰れる。
ハドソン渓谷に帰れる。
実家のリンゴ園。秋の冷たい空気。落ち葉の匂い。
クロエが待っている。
本物の、生身のクロエが。
「早く帰ってきなよ」
あの声が、耳の奥で鳴った。
俺は目を閉じた。
帰りたい。その気持ちは嘘じゃない。
2年半、毎朝苗木に水をやるたびに思い出していた。
あの農道を。あの笑顔を。
だが、目を開けると、窓の外にはジャンナの整った緑が広がっていた。
俺の目が見ているのは、その景色じゃなかった。
マ・カレシュの、あの赤い土。
バシールの工房の壁に並ぶ鉄工道具。
俺が最初に描いた発酵器の図面。
東区画に張り直した灌水パイプ。
化石水が流れ始めた水路の脇に、少しずつ芽吹き始めた緑。
ルカはまだ蒸留の温度管理を覚えきれていない。
塩分モニタリングも、まだ俺にしかできない。
バシールは鉄は打てるが、発酵の理屈はわかっていない。
あれは全部、俺がゴミ溜めの底から、1つずつ積み上げたものだ。
ハドソン渓谷には、俺がいなくても回るリンゴ園がある。
マ・カレシュには、俺がいないと止まるものがある。
その差だった。
俺はデバイスの画面に指を伸ばした。
『残留を確認しました』
画面が消えた。
「ごめんな、クロエ」
声に出した。本物のクロエに向けて。
「お前はハドソンで幸せになってくれ」
冗談のつもりだった。
だが、声が震えた。
自分で選んだ痛みだった。
折れた時の痛みとは違う。




