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『剣聖・塚原卜伝 ――鹿島立ちの剣、戦国を渡る』  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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第五十九話 崩れた口上、残った本音

人は、嘘が崩れた瞬間よりも、そのあとのほうがよく喋る。


 社前の石段下で、結ばれてはならぬ縁が断たれたあと、場はしばらく奇妙な静けさに包まれていた。


 誰かが叫ぶわけでもない。

 斬り合いが続くわけでもない。

 ただ、そこにいた者たちが、自分の立っている場所を測り直している。そんな沈黙だった。


 波多野家の使いは言葉を失い、文書役は包みを抱えたまま動けず、宮司家の若い者は一歩引いた位置で青い顔をしている。石段の上では年嵩の宮司が出てきており、もはや“内々の小さな儀礼”という体裁で押し切ることはできなくなっていた。


 新九郎は梶原兵庫を石段の外で押さえたまま、低く吐いた。


「終わり、だな」

「いや」

 道賢が言う。

「これからだ」

「何が」

「本音が出る」


 その言葉どおりだった。


 最初に口を開いたのは、館の使いではなかった。文書役でもない。波多野家の側で、少し後ろに控えていた中年の家士だった。場が崩れたと見て、いちばん先に“誰のせいにするか”を考えた顔をしていた男だ。


「……最初から、筋が弱いと思っていた」

 小さく言う。


 館の使いが振り向く。


「何だと」

「無理があったのです」

 家士は少しだけ声を強めた。

「古社の筋を、あまりに急ぎすぎた」

「貴様」

「違いますか」

 家士は言った。

「本来なら何年もかけて寄進し、祭礼を支え、浜の者にも顔を通し、そのうえで少しずつ縁を立てるべきだった」

「今さら何を」

「今さらではありません」

 家士の目は冷えていた。

「最初から、急ぎすぎだと申し上げた」


 そのやり取りに、別の男が口を挟む。御用商人筋の者だろう。服の質はよいが、足元の砂を気にするような歩き方をしている。


「こちらへ責を寄せられては困ります」

 商人が言う。

「話を急がせたのは、そちらでしょう」

「何だと」

「由緒を早く立てたいのは波多野家の都合だ。こちらは筋を整えただけ」

「整えただと?」

「事実です」

「偽りの筋をか」

 小夜が冷たく言うと、商人は初めて彼女を正面から見た。


「娘」

「何」

「言葉が過ぎる」

「まだ足りないくらいよ」

 小夜は一歩も引かなかった。

「古社の記録から都合のいいところだけ抜いて、人前で“昔からの縁”みたいに語ろうとした。そのどこが“整えただけ”なの」

「……」

「しかも、それを神前の顔にしようとした」

 商人は目を逸らした。


 逸らすということは、少なくとも完全には否定できぬのだ。


 卜伝は、そうしたやり取りを黙って見ていた。


 ここで大事なのは、ただ誰が悪いかを決めることではない。

 どういう欲が、どういう理屈をまとって、ここまで来たのか。

 その“残った本音”を見ることだ。


 波多野家の使いが、ようやく口を開く。


「……我らは」

 低く言う。

「この土地で立たねばならぬ」

 その声には怒りもあったが、それだけではなかった。焦りと、疲れと、少しの悔しさが混じっている。


「立つ?」

 卜伝が問う。

「そうだ」

 使いは答えた。

「海の流れを押さえ、浜を守り、館を整え、それでもなお、近隣の家は我らを“新しい家”としか見ぬ」

「……」

「金はある。人も動かせる。だが、それだけでは足りぬ」

「だから古社の名が欲しかった」

 小夜が言う。


 使いはそれを否定しなかった。


「この土地で、本当に根を張るには」

 と、続ける。

「力だけでは足りぬ。古さが要る。昔からここにあった顔が要る」

「だからといって」

 卜伝が静かに言った。

「他人の名を買ってよいことにはならぬ」

 使いの目が、卜伝へ向く。


 そこには、敵意だけではなく、少しの苛立ちがあった。


「お前に何が分かる」

「分からぬこともある」

 卜伝は答えた。

「だが、線は分かる」

「線?」

「事情があることと」

 卜伝は言った。

「他人の積み上げた名を、自分の家の顔にすることは別だ」

「……」

「立ちたいなら、自分の足で立て」

 使いの顔が歪む。


「綺麗事だ」

「そうかもしれぬ」

 卜伝は頷いた。

「だが、綺麗事でなければ守れぬものもある」

 その言葉に、宮司家の年嵩の男が初めてはっきりとこちらを見た。


 老いて痩せてはいる。だが、その目にはまだ火があった。


「その通りです」

 と、低く言う。


 場が静まる。


「我らの家は、たしかに痩せました」

 宮司が続けた。

「社も、昔ほど賑わわぬ。祭礼を支えるのも年々苦しい」

「……」

「だからといって、古い名を貸し渡してよいわけではない」

「……」

「この土地に残っているものは、もう多くありません」

「……」

「だからこそ、残っているものまで都合よく繋ぎ変えられてはたまらぬ」


 その声は大きくない。だが、神前へ上がる声だった。


 波多野家の使いは、その声に対して何も返せなかった。


 返せぬだろう、と卜伝は思う。

 この老人の言葉は、勢いではなく、長く守り続けた側の重さから出ている。

 波多野家には力がある。

 だが、この重さはまだ持っていない。


 その時、さきほどの文書役が、ようやく口を開いた。


「……私だけではありません」

 小さな声だったが、この場ではよく響いた。

「何だ」

 館の使いが睨む。


 文書役は、包みを抱えたまま、唇を湿らせる。


「この筋を欲しがったのは、波多野家だけではない」

 風が少し強く吹いた。


 卜伝の目が細くなる。


 そこだ、と感じた。


 崩れた口上のあとに残る本音。その中でも、いちばん重いものがいま出ようとしている。


「どこの家だ」

 小夜が鋭く問う。

「名を」

 文書役は言った。

「この土地の古さと、社の由緒を欲しがる家は、ほかにもある」

「……」

「北のさらに先の浜手」

「……」

「それに、内陸へ折れた先の家も」

「やはり」

 道賢がぼそりと言う。


 新九郎が吐き捨てる。


「欲しがるやつだらけだな」

「そうよ」

 小夜が答えた。

「だから真壁の流れは太いの」

「……」

「ひとつの家の悪だと思うと見誤る」

 卜伝が言った。

「そう」

 小夜は頷く。

「これは“乱世の欲の寄り合い”」

「その通りだ」

 道賢が言う。

「武家の焦り、商人の利、兵法者の口利き、それぞれは別の顔をしておる。だが真壁という要があることで、一つの流れになる」

「真壁か」

 波多野家の使いが、苦い顔をした。

「そうだ」

 卜伝が言う。

「お前たちは、あの男の流れに乗った」

「……」

「事情は分かる」

「……」

「だが、それでお前たちのしたことが軽くなるわけではない」


 波多野家の使いは、それでも反論しようとしたらしい。だが結局、何も言えなかった。言い訳はできる。事情も語れる。だが、古社の名を自家の顔へ縫いつけようとしたことそのものは、もう否定できぬからだ。


 新九郎が、肩の力を少し抜きながら言う。


「お前らの焦りは分かる」

 皆の目が向く。

「だがな」

 新九郎は続けた。

「立ちたいなら、自分で立て」

「……」

「古い名が欲しいなら、せめて何年も頭を下げて、土地に認められてからにしろ」

「……」

「楽して“昔からそうでした”に乗っかろうとするから、こうなる」

 小夜が少しだけ笑った。


「珍しく、ちゃんといいこと言う」

「珍しくは余計だ」

「でも本当」

「今日は何なんだお前」

「今日はそういう日よ」

「意味わかんねえ」


 そのやり取りに、張り詰めていた場の空気がほんの少しだけ緩んだ。


 だがそれで終わりではない。


 文書役が漏らした地名。

 北のさらに先の浜手。

 内陸へ折れた先の家。

 それは、この土地だけで流れが終わっていないということだ。


 真壁本人の姿は、ここにもなかった。

 だがこの規模で家々の焦りと商人の利を結びつけ、もっともらしい筋書きにまで整える者がいる。

 それが真壁又十郎なのだろう。


 桐生は、その少し後ろの木立の影から、やはり静かに見ていた。


 言葉はない。

 だが、その目が「ここまで見えたか」と言っているように、卜伝には感じられた。


 卜伝は、その桐生を見返さなかった。


 見るべきものは、もう別のところにある。

 残った本音だ。

 崩れた口上の下から出てきた、乱世の欲の輪郭だ。


 宮司家の年寄りが、最後にぽつりと言った。


「名は」

 その声に、また場が静まる。

「欲しい者にとっては、ただの飾りかもしれぬ」

「……」

「だが、守ってきた側にとっては、暮らしそのものです」

 その言葉に、卜伝は深く頷いた。


 名は、書にだけあるのではない。

 土地にある。

 人の積み重ねにある。

 だからこそ、欲しいままに貼り替えてよいものではない。


 波多野家の焦りも、商人の利も、文書役の仕事も、少しは分かる。

 だが、分かることと、許すことは違う。

 その線を、自分はもう見失いたくないと思った。


 海からまた風が上がり、社の屋根を鳴らした。


 儀礼は崩れた。

 偽りの縁も、人前で立ち切れなかった。

 だが真壁の流れはまだ先へ続いている。


 それがはっきりしただけでも、今朝の場を断った意味は大きかった

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