第六十話 第五の潮へ――名は誰のものか
北の浜手を離れる朝、海は妙に静かだった。
静かといっても、波が止んだわけではない。白波は相変わらず岩へ砕け、潮は引いたり満ちたりをやめない。ただ、人の耳にそう聞こえるだけだ。嵐のあとの浜がそうであるように、ひとつ大きな綻びが土地に入ったあとの海は、かえって何も言わぬ顔をする。
古社の前で、偽りの縁は結ばれなかった。
波多野家が欲しがった“古い顔”は、人前で完全には立たず、館と社のあいだにあったねじれは、かえってよく見えるようになった。宮司家の古い記録は、まだ宮司家の蔵にある。抜き書きされた筋も、どう使われようとしていたかが露わになった。書も、控えも、口上も、いくつかは押さえられた。
勝ち切ったわけではない。
真壁又十郎にはまた届かなかった。
桐生は最後まで場を見ていたが、こちらへ本気で刃を向けることはなく消えた。
梶原兵庫も、押し潰せぬと見るや不機嫌な殺気だけを残して引いた。
それでも、部分的な勝ちとは言える。
結ばれてはならぬ縁は、今朝、確かに断たれたのだから。
卜伝たちは、浜を見下ろす小道の脇で荷を整えていた。
持ち物は多くない。旅を始めた頃から比べれば、余計なものはもうほとんど持っていない。だが今は、箱ひとつ、書付一包、控え数枚、そのどれもが前より重い気がした。物の重さではない。そこに宿る名の重さだろう。
小夜が、押さえた書付を布へ包み直していた。
「これ」
と、彼女が言う。
「宮司家へ返すぶんと、こっちで持つぶんを分ける」
「全部返したほうがよくないか」
新九郎が問う。
「全部返したいのは山々よ」
小夜は答えた。
「でも、向こうがまた“そんなことはなかった”って顔を作るなら、こっちにも筋を押さえておく必要がある」
「……」
「記録そのものはあの家のもの。でも、どう抜かれ、どう使われようとしたかの痕は、こっちも持っておく」
「そういうことか」
「そういうこと」
道賢は、少し離れた岩に腰をかけ、浜を見ていた。杖を膝へ横たえたまま、相変わらず何を考えているのか読みにくい顔だ。
「波多野家は、しばらく動けまい」
と、ぼそりと言う。
「ええ」
小夜が頷く。
「少なくとも、“古社と昔から深い縁がありました”は、すぐには言えない」
「御用商人筋も、今は様子見でしょうね」
卜伝が言った。
「うむ」
道賢が頷く。
「傷が浅いうちに騒ぐと、自分の傷も見える」
新九郎が鼻を鳴らした。
「面倒くさい連中だな、本当に」
「前からそう言ってるわね」
小夜が言う。
「毎回本当にそう思ってるからな」
「それは知ってる」
「知ってるなら褒めろ」
「何でよ」
「一貫してるだろ」
「そこだけならね」
「“そこだけ”が余計だ」
「余計じゃなくて事実」
「ひでえな」
そういうやり取りを聞きながら、卜伝は少しだけ肩の力を抜いていた。
この北の浜手へ入ってから、自分の中で何かがまた変わったのだと感じている。前から少しずつ変わってはいた。鹿島を出た時の自分と、河口で荷の流れを止めた時の自分は、もう同じではない。海前の蔵で“偽りの由緒”が人前へ出るのを止めた時も、たしかに違っていた。
だが今回、古社の前で“結ばれてはならぬ縁”を断ったことで、その変化はさらに一段深いところへ届いた気がした。
剣で勝つこと。
守ること。
流れを断つこと。
名を守ること。
それらが、もう別々のものではなくなり始めている。
「卜伝」
小夜が呼んだ。
顔を上げると、彼女は布を結ぶ手を止めたまま、こちらを見ていた。
「何です」
「さっきから、また遠く見てる」
「そうでしょうか」
「そう」
「何を考えてる」
新九郎も聞く。
卜伝は少し迷った。だが、言葉にしてみるほうがよい気がした。
「名は」
と、ゆっくり言う。
「誰のものなのかと」
小夜の目が少し細くなる。
「……続けて」
「古い家が守ってきた名」
卜伝は言った。
「土地に染みついた名。兵法の流れの名」
「ええ」
「そういうものは、古い者だけのものなのか」
「……」
「もしそうなら、新しく立つ家は永遠に下のままだ」
「そうね」
小夜は静かに答えた。
「でも」
「でも、欲しいままに貼り替えていいものでもない」
卜伝は続けた。
「そう」
小夜は頷いた。
「そこが難しいのよ」
新九郎が、少し考える顔をしてから言った。
「俺は難しいことは分からん」
「でしょうね」
小夜が言う。
「一言余計だ」
「でも?」
と、小夜が促す。
「立ちたいなら、自分で立つしかねえだろ」
新九郎は言った。
「……」
「古い家に負けたくないなら、自分で人を助けて、自分で守って、自分で土地に認められて」
「……」
「その上で“今の家だ”って言えばいい」
「……」
「他人の名を買って、“昔からそうでした”は気に食わねえ」
小夜は、その言葉に少しだけ笑った。
「珍しく、今日もいいこと言う」
「お前、それ毎回“珍しく”って付けるのやめろ」
「だって本当に珍しい時があるんだもの」
「ひでえ」
「でも本気で言ってる」
「……まあ、それは分かる」
道賢が、そこで小さく息をついた。
「名は、誰のものでもあり、誰のものでもない」
「また難しいことを」
新九郎が言う。
「本当だ」
道賢は平然と答える。
「家が守る。土地が育てる。人が語る。そうして名は残る」
「……」
「だから古い者だけのものでもない。だが、欲しいからといって勝手に継げるものでもない」
「それを言葉にすると、そうなるか」
卜伝が言う。
道賢は頷いた。
「お前さんが今やっておる旅は、結局そこだ」
「……」
「古い名を、古いから守るのではない」
「……」
「新しい者が立つことを否定するのでもない」
「……」
「ただ、欲しがるままに貼り替えられるのを止める」
その言葉が、卜伝には深く入った。
そうなのかもしれない。
自分が守ろうとしているのは、“昔のまま固定された名”ではない。
新しい家が立つこと自体を憎んでいるわけでもない。
ただ、血も汗も時間もかけずに、他人が積み上げた名だけを剥ぎ取って自分の顔へ貼る、そのやり方が許せないのだ。
だから止める。
だから追う。
そしてその中心に、真壁又十郎がいる。
「やっぱり」
卜伝は低く言った。
「真壁を追う意味は、ますます大きい」
「ええ」
小夜が答えた。
「今回ではっきりした」
「真壁がいなければ、この流れはまとまりにくくなる」
「そう」
「欲しがる家はいる。売りたい商人もいる。場を整える兵法者や文書役もいる」
「……」
「だが、それを“流れ”にしている要は、やはり真壁だ」
「同感だ」
道賢が言う。
「一人斬れば終わる話ではない。だが一人斬れば大きく崩れる話ではある」
「……」
「そこが、真壁又十郎の厄介さであり、お前さんが追う意味でもある」
浜のほうで、舟を押し出す声がした。
朝の仕事が始まる。土地の者たちはもう、昨日の崩れた儀礼を“なかったことにはできぬまま”、それでも今日の生活へ戻っていくのだろう。波多野家も、古社も、宮司家も、みなそれぞれに傷を抱えながら今日を始める。
だが昨日までと同じではない。
波多野家の“古い顔”は立ち切れなかった。
古社の名は、とりあえず他家の顔へ縫いつけられずに済んだ。
そして何より、真壁の流れが次に伸びている先が、またひとつ見えた。
「北のさらに先の浜手」
小夜が書付を確かめながら言う。
「それと、内陸へ折れる先の家」
「どっちへ行く」
新九郎が聞く。
「海沿いを先に」
卜伝が言った。
三人が顔を向ける。
「理由は」
道賢が問う。
「潮の匂いが、まだ濃い」
卜伝は答えた。
「……」
「この土地の流れは、まだ海沿いが太い」
「うむ」
道賢が頷く。
「それに」
卜伝は続けた。
「古社や土地の名を欲しがる家が続いているなら、海沿いの流れのほうが、いまの真壁に近い気がします」
「私もそう思う」
小夜が言った。
「内陸へ入る前に、海沿いの“名の流れ”を見切っておくべきね」
「よし」
新九郎が立ち上がる。
「じゃあ、次も潮風か」
「嫌そうね」
小夜が言う。
「嫌だ」
「でも行く」
「それは別だ」
「本当にぶれないわね」
「お前もな」
四人は荷を背負い直した。
浜から上がる風は相変わらず塩辛い。だが、その風の向こうに、次の土地の気配がもうある。真壁の流れはまだ先へ続いている。家々の焦りも、商人の利も、兵法の名も、土地の古さも、それら全部がどこかでまた結び直されようとしている。
卜伝は最後に、古社と館の並ぶ高みを振り返った。
新しい力。
古い名。
そのあいだにあったねじれは、今回は断てた。
だが乱世そのもののねじれは、まだ続いている。
それでも、自分が進む理由は前よりはっきりしていた。
名は、古い者だけのものではない。
だが、欲しいままに貼り替えてよいものでもない。
ならばその線を、旅の中で一本ずつ引いていくしかない。
鹿島立ちの剣は、そのためにも振るわれるべきなのだろう。
卜伝は前を向いた。
海の向こうではなく、海沿いのさらに先へ。
次の潮が待っているほうへ。
真壁又十郎の流れがまだ濃く匂う、その先へ。




