表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『剣聖・塚原卜伝 ――鹿島立ちの剣、戦国を渡る』  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

60/60

第六十話 第五の潮へ――名は誰のものか

 北の浜手を離れる朝、海は妙に静かだった。


 静かといっても、波が止んだわけではない。白波は相変わらず岩へ砕け、潮は引いたり満ちたりをやめない。ただ、人の耳にそう聞こえるだけだ。嵐のあとの浜がそうであるように、ひとつ大きな綻びが土地に入ったあとの海は、かえって何も言わぬ顔をする。


 古社の前で、偽りの縁は結ばれなかった。


 波多野家が欲しがった“古い顔”は、人前で完全には立たず、館と社のあいだにあったねじれは、かえってよく見えるようになった。宮司家の古い記録は、まだ宮司家の蔵にある。抜き書きされた筋も、どう使われようとしていたかが露わになった。書も、控えも、口上も、いくつかは押さえられた。


 勝ち切ったわけではない。


 真壁又十郎にはまた届かなかった。

 桐生は最後まで場を見ていたが、こちらへ本気で刃を向けることはなく消えた。

 梶原兵庫も、押し潰せぬと見るや不機嫌な殺気だけを残して引いた。


 それでも、部分的な勝ちとは言える。


 結ばれてはならぬ縁は、今朝、確かに断たれたのだから。


 卜伝たちは、浜を見下ろす小道の脇で荷を整えていた。


 持ち物は多くない。旅を始めた頃から比べれば、余計なものはもうほとんど持っていない。だが今は、箱ひとつ、書付一包、控え数枚、そのどれもが前より重い気がした。物の重さではない。そこに宿る名の重さだろう。


 小夜が、押さえた書付を布へ包み直していた。


「これ」

 と、彼女が言う。

「宮司家へ返すぶんと、こっちで持つぶんを分ける」

「全部返したほうがよくないか」

 新九郎が問う。

「全部返したいのは山々よ」

 小夜は答えた。

「でも、向こうがまた“そんなことはなかった”って顔を作るなら、こっちにも筋を押さえておく必要がある」

「……」

「記録そのものはあの家のもの。でも、どう抜かれ、どう使われようとしたかの痕は、こっちも持っておく」

「そういうことか」

「そういうこと」


 道賢は、少し離れた岩に腰をかけ、浜を見ていた。杖を膝へ横たえたまま、相変わらず何を考えているのか読みにくい顔だ。


「波多野家は、しばらく動けまい」

 と、ぼそりと言う。

「ええ」

 小夜が頷く。

「少なくとも、“古社と昔から深い縁がありました”は、すぐには言えない」

「御用商人筋も、今は様子見でしょうね」

 卜伝が言った。

「うむ」

 道賢が頷く。

「傷が浅いうちに騒ぐと、自分の傷も見える」


 新九郎が鼻を鳴らした。


「面倒くさい連中だな、本当に」

「前からそう言ってるわね」

 小夜が言う。

「毎回本当にそう思ってるからな」

「それは知ってる」

「知ってるなら褒めろ」

「何でよ」

「一貫してるだろ」

「そこだけならね」

「“そこだけ”が余計だ」

「余計じゃなくて事実」

「ひでえな」


 そういうやり取りを聞きながら、卜伝は少しだけ肩の力を抜いていた。


 この北の浜手へ入ってから、自分の中で何かがまた変わったのだと感じている。前から少しずつ変わってはいた。鹿島を出た時の自分と、河口で荷の流れを止めた時の自分は、もう同じではない。海前の蔵で“偽りの由緒”が人前へ出るのを止めた時も、たしかに違っていた。


 だが今回、古社の前で“結ばれてはならぬ縁”を断ったことで、その変化はさらに一段深いところへ届いた気がした。


 剣で勝つこと。

 守ること。

 流れを断つこと。

 名を守ること。


 それらが、もう別々のものではなくなり始めている。


「卜伝」

 小夜が呼んだ。


 顔を上げると、彼女は布を結ぶ手を止めたまま、こちらを見ていた。


「何です」

「さっきから、また遠く見てる」

「そうでしょうか」

「そう」

「何を考えてる」

 新九郎も聞く。


 卜伝は少し迷った。だが、言葉にしてみるほうがよい気がした。


「名は」

 と、ゆっくり言う。

「誰のものなのかと」

 小夜の目が少し細くなる。


「……続けて」

「古い家が守ってきた名」

 卜伝は言った。

「土地に染みついた名。兵法の流れの名」

「ええ」

「そういうものは、古い者だけのものなのか」

「……」

「もしそうなら、新しく立つ家は永遠に下のままだ」

「そうね」

 小夜は静かに答えた。

「でも」

「でも、欲しいままに貼り替えていいものでもない」

 卜伝は続けた。

「そう」

 小夜は頷いた。

「そこが難しいのよ」


 新九郎が、少し考える顔をしてから言った。


「俺は難しいことは分からん」

「でしょうね」

 小夜が言う。

「一言余計だ」

「でも?」

 と、小夜が促す。


「立ちたいなら、自分で立つしかねえだろ」

 新九郎は言った。

「……」

「古い家に負けたくないなら、自分で人を助けて、自分で守って、自分で土地に認められて」

「……」

「その上で“今の家だ”って言えばいい」

「……」

「他人の名を買って、“昔からそうでした”は気に食わねえ」

 小夜は、その言葉に少しだけ笑った。


「珍しく、今日もいいこと言う」

「お前、それ毎回“珍しく”って付けるのやめろ」

「だって本当に珍しい時があるんだもの」

「ひでえ」

「でも本気で言ってる」

「……まあ、それは分かる」


 道賢が、そこで小さく息をついた。


「名は、誰のものでもあり、誰のものでもない」

「また難しいことを」

 新九郎が言う。

「本当だ」

 道賢は平然と答える。

「家が守る。土地が育てる。人が語る。そうして名は残る」

「……」

「だから古い者だけのものでもない。だが、欲しいからといって勝手に継げるものでもない」

「それを言葉にすると、そうなるか」

 卜伝が言う。


 道賢は頷いた。


「お前さんが今やっておる旅は、結局そこだ」

「……」

「古い名を、古いから守るのではない」

「……」

「新しい者が立つことを否定するのでもない」

「……」

「ただ、欲しがるままに貼り替えられるのを止める」

 その言葉が、卜伝には深く入った。


 そうなのかもしれない。


 自分が守ろうとしているのは、“昔のまま固定された名”ではない。

 新しい家が立つこと自体を憎んでいるわけでもない。

 ただ、血も汗も時間もかけずに、他人が積み上げた名だけを剥ぎ取って自分の顔へ貼る、そのやり方が許せないのだ。


 だから止める。

 だから追う。

 そしてその中心に、真壁又十郎がいる。


「やっぱり」

 卜伝は低く言った。

「真壁を追う意味は、ますます大きい」

「ええ」

 小夜が答えた。

「今回ではっきりした」

「真壁がいなければ、この流れはまとまりにくくなる」

「そう」

「欲しがる家はいる。売りたい商人もいる。場を整える兵法者や文書役もいる」

「……」

「だが、それを“流れ”にしている要は、やはり真壁だ」

「同感だ」

 道賢が言う。

「一人斬れば終わる話ではない。だが一人斬れば大きく崩れる話ではある」

「……」

「そこが、真壁又十郎の厄介さであり、お前さんが追う意味でもある」


 浜のほうで、舟を押し出す声がした。


 朝の仕事が始まる。土地の者たちはもう、昨日の崩れた儀礼を“なかったことにはできぬまま”、それでも今日の生活へ戻っていくのだろう。波多野家も、古社も、宮司家も、みなそれぞれに傷を抱えながら今日を始める。


 だが昨日までと同じではない。


 波多野家の“古い顔”は立ち切れなかった。

 古社の名は、とりあえず他家の顔へ縫いつけられずに済んだ。

 そして何より、真壁の流れが次に伸びている先が、またひとつ見えた。


「北のさらに先の浜手」

 小夜が書付を確かめながら言う。

「それと、内陸へ折れる先の家」

「どっちへ行く」

 新九郎が聞く。

「海沿いを先に」

 卜伝が言った。


 三人が顔を向ける。


「理由は」

 道賢が問う。


「潮の匂いが、まだ濃い」

 卜伝は答えた。

「……」

「この土地の流れは、まだ海沿いが太い」

「うむ」

 道賢が頷く。

「それに」

 卜伝は続けた。

「古社や土地の名を欲しがる家が続いているなら、海沿いの流れのほうが、いまの真壁に近い気がします」

「私もそう思う」

 小夜が言った。

「内陸へ入る前に、海沿いの“名の流れ”を見切っておくべきね」

「よし」

 新九郎が立ち上がる。

「じゃあ、次も潮風か」

「嫌そうね」

 小夜が言う。

「嫌だ」

「でも行く」

「それは別だ」

「本当にぶれないわね」

「お前もな」


 四人は荷を背負い直した。


 浜から上がる風は相変わらず塩辛い。だが、その風の向こうに、次の土地の気配がもうある。真壁の流れはまだ先へ続いている。家々の焦りも、商人の利も、兵法の名も、土地の古さも、それら全部がどこかでまた結び直されようとしている。


 卜伝は最後に、古社と館の並ぶ高みを振り返った。


 新しい力。

 古い名。

 そのあいだにあったねじれは、今回は断てた。

 だが乱世そのもののねじれは、まだ続いている。


 それでも、自分が進む理由は前よりはっきりしていた。


 名は、古い者だけのものではない。

 だが、欲しいままに貼り替えてよいものでもない。

 ならばその線を、旅の中で一本ずつ引いていくしかない。

 鹿島立ちの剣は、そのためにも振るわれるべきなのだろう。


 卜伝は前を向いた。


 海の向こうではなく、海沿いのさらに先へ。

 次の潮が待っているほうへ。

 真壁又十郎の流れがまだ濃く匂う、その先へ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ