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『剣聖・塚原卜伝 ――鹿島立ちの剣、戦国を渡る』  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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第五十八話 社前、偽りの縁を断つ

 石段の下に立った時、卜伝は、風の向きがひとつ変わったように感じた。


 朝の海風は冷たい。だがただ冷たいのではない。浜から上がってくる塩気と、古社の木々が抱え込んでいた夜の湿りとが混じり合って、肌へ薄く張りつくような冷たさだった。その風が、いま石段の下で止まりかけている。


 人がそこへ集まり、場が作られようとしているからだ。


 館の使いが前に立つ。

 文書役が包みを抱える。

 宮司家の若い者が、まだ落ち着かぬ顔でその脇につく。

 その背後には、館と社のあいだに昔から縁があったかのような顔をしたい者たちの思惑が、目には見えぬまま立ち上がっている。


 石段の上には、古社の前庭がある。

 そこまで上がれば、もう“社の顔”になる。

 だからこそ止めるなら、ここだ。


 石段の下。


 館の理が、社の顔へ変わる直前。


 卜伝はそこへ出た。


 館の使いが一瞬だけ足を止める。文書役の男も、包みを抱えた腕にわずかに力を入れた。宮司家の若い者は、思った以上に露骨に動揺した顔をした。やはり、この役は本心から担っているわけではないのだろう。


「そこまでだ」

 卜伝が言った。


 声は大きくない。だが、この場ではそれで十分だった。石段の下という場所は不思議なもので、大声より、低く断ち切るような声のほうがよく響く。上へ上がろうとする流れを、一度止めるのには足りる。


 館の使いが、顔だけは穏やかに答える。


「朝の社前です。無礼は」

「無礼なのは、どちらだ」

 卜伝は返した。

「……」

「古い名を、勝手に自分の家へ縫いつけようとしている」

「何を仰るか」

「ここで“昔からの縁”を立てようとしているのだろう」

 館の使いの目が、そこでほんのわずかに動いた。


 図星だ。


 だが、それで崩れるほど、この手の役は浅くない。男はすぐに顔を整え直した。


「お言葉ですが」

「……」

「本日ここで行われるのは、ただのご挨拶にすぎません」

「挨拶」

 卜伝が繰り返す。

「ええ。土地の社へ、館の者としてご挨拶申し上げるだけ」

「なら、その包みは何だ」

 館の使いは答えない。


 代わりに、文書役の男が半歩だけ下がった。

 その下がり方を見て、卜伝はこの場の主が誰なのかを理解した。

 館の使いは前に出る顔。

 文書役は場を整える裏の手。

 そして今回、止めるべきは後者だ。


「小夜」

 卜伝は呼んだ。


 返事より先に、小夜が石段脇の陰から出た。


 今朝の小夜は、風の中でもまっすぐ立っていた。女が一人前へ出るだけで、この種の場は一瞬だけ“何だ”という顔になる。その一瞬を、小夜はもう完全に自分の武器にしている。


「その包み」

 小夜が言う。

「古記録の筋と、口上文が入ってるんでしょう」

 文書役の男の顔色が変わる。

「何のことか」

「“この土地と波多野家には古くから縁があった”って読ませるための筋書き」

「……」

「違うなら、ここで開いて見せなさい」

 文書役の男は答えない。


 その沈黙そのものが答えだった。


 館の使いが一歩前へ出る。


「娘、言葉が過ぎる」

「言葉が過ぎてるのはそっちよ」

 小夜は一歩も引かなかった。

「古社の古い名を、都合のいい断片だけで繋いで、自分たちの縁みたいに語るつもりなんでしょう」

「証はあるのか」

「あるわ」

 小夜はすぐ答えた。

「宮司家の蔵に残った抜き書きの痕。前の町の御用商人筋に近い筆。文書役が持ち歩く口上の包み。ここまで揃ってまだ“ただの挨拶”で済むと思ってる?」

 館の使いの顔が、初めて少しだけ硬くなった。


 その時、石段の外側で、重い足音がひとつ前へ出た。


 梶原兵庫。


「うるさい」

 と、低く唸るように言う。

「そこをどけ」


 やはり来る。


 押し潰す兵法の男は、場を理で押し返せなくなると、すぐに前へ出る。卜伝は、梶原が動いた瞬間に、新九郎もまた動くのを視界の端で捉えた。


「お前はこっちだ」


 新九郎が、石段下の外側へ半身を差し込む。


 梶原の前へ出る位置。だが押し込みすぎぬ位置。前話までで決めた通り、石段そのものを戦場にはしない。外で食う。登らせない。そこだけは、新九郎も完全に腹へ入れていた。


 梶原が正面から来る。重い。速い。まるで最初から、相手をひとまとめに押し潰すことしか考えていない剣だ。だが新九郎はそれを真正面から受けるのではなく、半歩だけ外へずらし、そのまま肩から押し込んだ。


「社の前で暴れんなよ!」


 自分で言いながら、ちゃんと外へ押している。

 前へ出る。

 だが上へは行かせない。

 新九郎の役目は、まさにそこだった。


 梶原が舌打ちする。


「邪魔だ!」

「それが役目だ!」


 二人の押し合いが石段の外へずれたことで、場の中心はまだ石段下に保たれた。卜伝はそこを見ていた。梶原へ目を引かれてはならぬ。今回、自分が止めるべきはあくまで“場を成立させる側”だ。


 桐生はその少し後ろにいた。


 木立の影。

 風と同じくらい静かだ。

 だが目だけは場の全部を見ている。


 卜伝は、そちらを見ないようにした。


 桐生の問いに今答える必要はない。

 答えはもう、立つ場所で示している。


 小夜がもう一歩、文書役へ寄る。


「開きなさい」

「できません」

「できないのね」

「……」

「じゃあ、私が言ってあげる」

 小夜の声は冷たかった。

「その文には、“波多野家は昔よりこの社の祭祀を支えてきた”って筋が入ってる」

 文書役の肩が跳ねる。

「それに、“古い支配筋とゆるやかに繋がる”って断片も混ぜてる」

「黙れ」

「黙らない」

 小夜は言う。

「でも、その筋は前後を読めば無理がある。社の古記録の一部だけを抜いて繋いだから」

「……」

「ここでその文を読ませたら、“昔からそうだった”みたいな顔だけが残る」

 文書役は、もう否定しきれぬ顔をしていた。


 館の使いが、そこで空気を変えようとした。


「宮司家の若い者が立ち会っている」

 と、横にいる若者を示す。

「これで十分に筋は立つ」

 だがその若者は、その言葉を受けた瞬間、かえって顔を青くした。


 そこだ、と卜伝は思った。


 この若者は“証人の顔”としてここへ立たされている。

 だが腹の底から乗ってはいない。

 ならば、崩すべき継ぎ目はここにもある。


「お前は」

 卜伝が、その若い者へ向かって言った。


 若者がびくりとする。


「本当に、それを昔からの縁だと言えるのか」

「わ、私は」

「社の前で」

 卜伝は続けた。

「言えるのか」

「……」

「黙るな」

 卜伝の声は強くなかった。だが、その分だけ逃げ道を減らす響きがあった。

「言えるなら言え」

「……」

「言えぬなら、そこへ立つな」


 若者の喉が動く。目が揺れる。視線が館の使いへ向き、すぐに戻る。そこで沈黙がどちらを守るかを、必死に測っている顔だ。


 やがて、若者は小さく、だがはっきりと一歩下がった。


 それで十分だった。


 証人が下がる。

 それだけで、“もっともらしい顔”は一段崩れる。

 場というものは、中心の言葉だけで立つのではない。脇に立つ者たちのうなずきで立つのだ。


 館の使いが、初めて本気で顔を変えた。


「何をしている」

「……」

「戻れ」

 若者は動かない。

「戻れ!」

「できません」

 若者の声は震えていた。

「それは……そういう話では、ない」

「……!」

「昔からの縁だなんて、私は言えない」


 その瞬間、小夜が文書役の手元へ伸びた。


 包みを奪うのではない。押さえる。

 文を、人前へ出す直前で止める。

 それだけでいい。


「返せ!」

 文書役が初めて大きな声を出した。

「それを読ませれば終わるのよ」

 小夜が返す。

「だから返さない」


 館の使いが卜伝を睨む。


「よそ者が」

「そうだ」

 卜伝は答えた。

「よそ者だから、ここで止める」

「何を」

「偽りの縁だ」


 その言葉で、石段の上の空気まで少し揺れた気がした。


 宮司家の年寄りが、いつの間にか社の前に出てきている。

 女房も、石段の半ばで見ている。

 館の側は、もう“内々の小さな儀礼”の顔で押し切れない。


 道賢がその裏で、もう一つの逃げ道を潰していた。文書役の控えを持って裏へ回ろうとした小者を、杖で石垣側へ押しつけている。


「裏へ運ぶな」

 それだけ言う。

「ここで終われ」


 場は、そこで完全に止まった。


 梶原兵庫はなお新九郎と外で押し合っている。だが、もうその剣だけでは流れは戻らない。社前で必要だったのは、剣の勝ち負けではなく、“場が立つかどうか”なのだ。そして今、場は崩れている。


 桐生が、木立の陰から一歩だけ出た。


「なるほど」

 静かに言う。

「今回は、そこを断ったか」


 卜伝はその声を聞いたが、やはりそちらを見なかった。


 見るべきは、いま崩れていく“偽りの縁”だ。


 館の使いは言葉を失い、文書役は包みを押さえたまま動けず、若い証人はもう下がっている。宮司家の年寄りは、沈黙しながらも社前へ出た。そのこと自体が、波多野家の“好きな筋”だけでは済まぬという証になる。


 卜伝は、そこでようやく、静かに刀を抜いた。


 誰かを斬るためではない。


 石段の前、これより先は社の顔だという線を、刃のきらめきで一度だけはっきり見せるために。


「ここから先は」

 低く言う。

「古い名を、好きに貼り替えてよい場ではない」


 館の使いは何も返せなかった。


 返せるなら、とっくに返している。


 波多野家の見栄。

 古社の古さ。

 抜き書きされた記録。

 口上を売る者。

 証人に立たされた若者。


 それら全部で作ろうとした“もっともらしい縁”は、いま石段の下で崩れたのだ。


 海からまた風が上がった。


 社の屋根が鳴る。松が鳴る。館の板塀も鳴る。だが、その鳴り方はさっきまでと少し違って聞こえた。


 卜伝は、その風の向こうに、真壁又十郎の気配を探した。


 姿はない。

 だが、見ていた者はいたはずだ。

 これほどの場を、あの男が知らぬはずがない。


 それでも今は、届かなくてよかったのかもしれぬと思った。


 今朝止めるべきは、真壁本人ではなかった。

 結ばれてはならぬ縁そのものだった。

 そしてそれは、いま確かに断たれたのだから。

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