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『剣聖・塚原卜伝 ――鹿島立ちの剣、戦国を渡る』  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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第五十七話 儀礼の朝、結ばせてはならぬ縁

 朝の光は、夜の嘘をいったん薄める。


 北の浜手の空はまだ白く、海は鉛を溶かしたような色をしていた。陽が高くなるには少し早い。だが暗いわけでもない。物の輪郭だけが先に見え、色や温かみはあとから追いついてくるような時刻だった。


 こういう時刻を選んだのは、やはり理にかなっているのだろうと卜伝は思った。


 夜では隠し事の匂いが濃くなる。

 昼では人の目が多すぎる。

 朝なら、“清めた場”の顔を作りやすい。


 波多野家が今朝やろうとしていることは、まさにそういう“顔作り”なのだ。


 古社の前庭で、小さな儀礼を行う。

 館と社に古くから縁があったかのような口上を置き、宮司家の名と土地の古さを借りて、波多野家の家格へひと筋の古い光を差したように見せる。

 箱も兵法書も、今度は主役ではない。

 言葉そのものが主役だ。


 卜伝たちは、社へ続く石段の下を見渡せる松林の陰にいた。


 社は低い高みにある。石段は長くない。だが短いぶん、上と下の境がはっきりしている。石段の上は、もう社の顔だ。そこへ乱暴に踏み込めば、こちらが賊になる。だが下はまだ、館の理が残る場所だ。荷も、人も、言葉も、そこで一度整えられてから上へ上がる。


 つまり、止めるべき継ぎ目はそこにある。


 石段下。


 館の理が、社の顔へ変わるその直前。


「本当に、ぴったり嫌な場所を選ぶわね」

 小夜が低く言った。


 今日はいつも以上に目立たぬ着方だった。社や宮司家の前に出ても、不自然にならぬよう整えているのだろう。だが目だけは冴えている。昨夜までで、彼女の中でも“どこを止めれば一番効くか”が定まった顔だ。


「向こうも、分かってるってことだろ」

 新九郎が言う。

「どこなら押し切れるか」

「ええ」

 小夜は頷く。

「正門から館を襲わせる気はない。社の中へ踏み込ませる気もない。だから、その手前の“もっともらしい場所”で結ぼうとする」

「もっともらしい、か」

 卜伝が繰り返す。

「そう」

 小夜は答える。

「館の押しつけに見えず、でも社の正式な祭祀でもない。その中間」

「綺麗に見えて、一番汚いな」

 新九郎が言った。

「そういうものよ」


 道賢は石段の段差をじっと見ていた。やがて杖の先で地面を軽く示す。


「書付と口上文は、館の裏手から来る」

「ええ」

 小夜が答える。

「昨日の文書役が運ぶ筋ね」

「宮司家の者は?」

 卜伝が問う。

「完全には乗っておらぬ」

 道賢は言った。

「だが、場が立ってしまえば、黙るしかなくなる者が何人かおる」

「つまり」

 卜伝が言う。

「止めるべきは、読む者だけではない」

「そうだ」

 道賢が頷く。

「受ける者、うなずく者、立ち会うことで“そういう場だった”と証してしまう者」

「……」

「全部まとめて、石段を上がる前に止める」

「そういうこと」

 小夜が言った。


 卜伝は、その言葉を骨の近くで受け止めた。


 第一章の頃なら、敵が来る道だけを見ていただろう。

 第二章なら、荷の流れを。

 第三章なら、受け手の顔を。

 第四章なら、偽りの由緒が人前へ出る瞬間を。


 そして今、第五章では、**“結ばれてはならぬ縁が、神前の顔を持つ直前”**を見ている。


 剣の役目は、ずいぶん変わったのだと思う。

 だが、それを変わったと呼ぶべきか、ようやく本当の置きどころを見つけたと呼ぶべきか、卜伝にはまだよく分からなかった。


「役目を確認する」

 小夜が言った。


 三人が顔を向ける。


「私は石段の脇に入る」

「脇?」

 新九郎が聞く。

「ええ。口上文と古記録の控え、その両方がどう渡るかを見る。帳面や書付の“違い”を突ける位置にいないと意味がない」

「危ない」

 卜伝が言う。

「分かってる」

 小夜は即答した。

「でも私がいないと、向こうは“そういう筋です”で押し切る」

「……」

「だから、そこは私」

「分かりました」

 卜伝は頷いた。


「俺は?」

 新九郎が問う。


「石段下の外」

 道賢が先に答えた。

「梶原が出る」

「だろうな」

 新九郎が鼻を鳴らす。

「外を固める役だと、昨日桐生も言ってた」

「ええ」

 小夜が言う。

「あなたはそこで“前を食う”」

「押し込みすぎるな、だろ」

「よく覚えてる」

「何度も言われたからな」

「大事だからよ」


 新九郎は肩を回した。


「今回は、押し返すより“登らせない”だな」

「そう」

 小夜は頷く。

「社の石段に乱戦を入れたら終わり」

「分かってる。石段下で食う」

「頼む」

 卜伝が言う。

「おう」


 道賢は、社の裏手へ目をやった。


「私は逃げ道と、もう一つの継ぎ目を見る」

「もう一つ?」

 卜伝が問う。


「言葉が立たぬと見た時」

 道賢は言った。

「向こうは、別の形で“場はあった”と言い逃れようとするやもしれぬ」

「……」

「たとえば、証人だけ残す」

「あるいは、書だけを上へ運ぶ」

 小夜が続けた。

「そうだ」

 道賢は頷く。

「だから、裏へ回る」


 卜伝は最後に、自分の役目を頭の中で確かめた。


 小夜が文を止める。

 新九郎が外を食う。

 道賢が逃げ道と裏の継ぎ目を押さえる。

 なら、自分が立つべきは――


「私は」

 卜伝が言った。

「石段の正面へ出る」

「正面?」

 新九郎が問う。

「ええ」

 卜伝は頷く。

「ただし、上へは入らない」

「……」

「館の側から来る者と、社の顔へ変わる直前の者、その両方が見える位置に立つ」

「つまり」

 小夜が静かに言う。

「“これより先は社の顔になる”という線の前」

「そうです」

「いい」

 小夜は言った。

「それがいちばん、この場の意味に合ってる」


 卜伝は少しだけ息を吐いた。


 正面から押し切るのではない。

 社へ踏み込むのでもない。

 石段下に立ち、**“ここから先は違う”**という線そのものになる。

 そういう立ち方が、今回の場には必要なのだろう。


 その時、浜のほうから風が強く上がった。


 松が鳴り、社の屋根がかすかに軋む。白い波音も少しだけ大きくなる。その風の中で、石段の下の道に、人の気配がひとつ現れた。


 館の使いだ。


 さらにその後ろ、文書役らしき男。懐に細長い包みを入れている。

 そしてもう一人、宮司家の若い者か、社の手伝いに出ている男。

 数は少ない。だが、少ないからこそ“ただの小さな儀礼”の顔が出る。


「来たわ」

 小夜が囁いた。


 卜伝の指が、静かに刀の柄へかかる。


 まだ抜かない。

 抜くのは、向こうが“そのまま上へ上がれる”と思った瞬間だ。

 いまはまず、その流れを見る。


 文書役の男は石段の下で立ち止まり、懐の包みを一度だけ確かめた。宮司家の若い者は、まだ落ち着かぬ顔で辺りを見ている。館の使いは、表情だけは穏やかだ。だが歩幅が少し急いている。波多野家の焦りが、その足に出ているようだった。


「見える?」

 小夜が小さく言った。


「ええ」

 卜伝が答える。

「文書役が包みを持ち、館の使いが前へ出て、宮司家の者が“それらしく見える”位置にいる」

「そう」

「つまり、あれが向こうの“もっともらしい形”」

「ええ」


 その瞬間、卜伝ははっきりと分かった。


 止めるべきものは、物ではない。

 人と人の並び、持ち方、立ち位置、うなずき、その全部で作られる“場”だ。

 だからこそ、正面から割らねばならぬ。


 その時、別の気配が石段の外れへ現れた。


 重い。

 隠す気がない。

 前へ出る圧だけをそのまま形にしたような立ち方。


 梶原兵庫。


 やはり来た。


 そしてその少し後ろ、木立の影に、静かな人影がある。

 桐生だ。


 前話の通りだった。

 梶原が外を固め、桐生が場を見る。


 新九郎が低く笑った。


「分かりやすくて助かるな」

「笑ってる場合じゃないでしょ」

 小夜が言う。

「分かってるよ」

「ならよし」


 卜伝は、石段下をもう一度見た。


 館の使い。

 文書役。

 宮司家の若い者。

 その向こうの社。

 そして両脇に梶原と桐生。


 全部が揃った。


 儀礼の朝。

 結ばせてはならぬ縁が、いま石段を上ろうとしている。


 卜伝は、そこでようやく一歩前へ出た。


 止めるべき場所は、もう見えていた。

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