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『剣聖・塚原卜伝 ――鹿島立ちの剣、戦国を渡る』  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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第五十四話 偽りの縁、結ばれる前夜

 儀礼というものは、表向きには静かな顔をして始まる。


 祭のように太鼓が鳴るわけでもない。祝いの席のように酒が先に匂うわけでもない。むしろ逆だ。人は声を抑え、足音を忍ばせ、何か大事なことが決まる場であるかのように顔を整える。だが、静かな場ほど、そこで動く思惑は濃い。


 北の浜手の夕暮れは、その濃さを風に混ぜて運んでいた。


 浜から上がる潮気。松を鳴らす乾いた音。館の板塀に当たって返る風。そして古社の方角から漂う、ひどく薄い焚香の匂い。日が落ちきる前の薄明かりの中で、館と社は近くにありながら、なお別々の顔をしていた。


 館は、新しい。


 古社は、古い。


 その二つを一つの物語にしてしまいたい者が、この土地にはいる。


 卜伝は、館の外れから社へ向かう細道を見ながら、そう思っていた。


 小夜が戻ってきたのは、その頃だった。


 息は乱れていない。だが、歩幅が少しだけ速い。何かを掴んだ時の帰り方だと、卜伝にはもう分かるようになっていた。


「決まりね」

 小夜は、四人が身を寄せる浜寄りの空き小屋へ入るなり言った。

「何が」

 新九郎が問う。

「儀礼よ」

 小夜は答えた。

「今夜じゃない。明日の朝」

「朝か」

 卜伝が低く言う。

「ええ。夜のうちに準備して、朝の光の中でやるつもり」

「なぜ朝だ」

 新九郎が聞く。


 小夜は少しだけ皮肉っぽく笑った。


「“神へ向ける顔”を作りやすいから」

「……」

「夜だと隠れ仕事に見える。昼の盛りだと人目が多すぎる。朝なら、“清めて整えた場”に見せやすいの」

「嫌な理屈だな」

 新九郎が吐き捨てる。

「ええ」

 小夜は即答した。

「でも筋は通ってる」


 道賢が、その話を受けるように言った。


「波多野家のような家なら、なおさらだ」

「どういう意味だ」

 卜伝が問う。


「大きな祭礼を動かすだけの格はない」

 道賢は答えた。

「だが、内々に“それらしい場”を作ることはできる。社の前で、宮司家の名を借り、古い記録の断片を添え、“昔から縁がありました”という顔を立てる」

「小さな儀礼で十分、ってことね」

 小夜が言う。

「そうだ」

「そこに、抜き書きされた筋が使われる」

 卜伝が言う。


 小夜は頷いた。


「たぶんね」

「兵法書や箱じゃなく、今度は口上か」

 新九郎が言う。

「ええ」

「物はなくてもいいのか」

「ないほうが逆に都合がいい場合もある」

 小夜は答えた。

「どういうことだ」

「物は残るでしょう」

「……」

「でも口上や儀礼は、“そういう場があった”って人の記憶に残る」

「つまり」

 卜伝が言う。

「本物を持っていなくても、“本物に連なる家だ”という顔が立つ」

「そう」

 小夜の声は冷えていた。

「今回止めるべきなのは、まさにそこ」


 少しの沈黙が落ちた。


 前章では、祝いの席へ入る長箱を止めた。

 偽りの由緒が、人前で家の顔になる直前だった。

 だが今度は、もっと曖昧で、もっと厄介だ。


 品ではない。

 縁だ。

 社と館が、昔から結ばれていたかのように見せる、その“結び目”そのものが作られようとしている。


「どこでやる」

 卜伝が問う。


 小夜はすぐに答えた。


「社の前庭」

「社の中ではないのか」

「そこまでは入れない」

 小夜は言う。

「入れないからこそ、前庭なの」

「……」

「社の名を借りるには十分。けど、完全な祭祀ではないって逃げ道も残る」

「本当に、嫌なやり方ばかり思いつくな」

 新九郎が言った。

「思いつくんじゃない。実際にやるのよ」

 小夜が返す。


 道賢が、そこでひとつ頷いた。


「向こうも分かっておるのだ」

「何を」

 卜伝が問う。


「正面から奪えば、土地の心が離れる」

 道賢は言った。

「だから最初は“縁がありました”という顔から入る」

「……」

「社の名を奪うのではなく、社の名と自分たちが自然に並ぶように見せる」

「それが一番厄介だ」

 卜伝が言った。

「ええ」

 小夜が頷く。

「奪われたと気づきにくいもの」

「だが」

 新九郎が言う。

「止めどころはあるんだろ」

「ある」

 小夜は即答した。

「たぶん、明日の朝、社の前庭へ出る前」

「前?」

「ええ。館の理から、社の顔へ変わる、その継ぎ目」

「……」

「そこを押さえれば、“神前の正しい縁”の顔は立たない」


 卜伝は、その言葉を頭の中で静かに並べた。


 館の理。

 社の顔。

 その継ぎ目。


 いつの間にか、自分もそういう見方をするようになっていることに気づく。


 勝つための剣。

 守るための剣。

 流れを断つ剣。

 名を守る剣。


 ここまで来て、さらに今は、**“結ばれてはならぬ縁を結ばせぬ”**ための剣が必要になっている。


「卜伝」

 小夜が言った。

「何です」

「いま、また考えてる顔」

「そうでしょうか」

「そう」

「何考えてる」

 新九郎が聞く。


 卜伝は少しだけ考えてから答えた。


「今回、止めるべきは物ではない」

「うん」

「人と人のあいだに作られる“もっともらしい筋”だ」

「ええ」

 小夜は頷く。

「そこまで見えてるなら大丈夫」

「何が」

「明日、焦らずに済む」

「……」

「そこ、ちょっと怪しい顔した」

「怪しくはしていません」

「した」

「半分はな」

 と新九郎が横から言った。

「お前まで使うな、その言い方」

「便利だろ」

「便利だけど腹立つ」


 その時、外の風が少し止んだ。


 止んだと思った次の瞬間、また別の気配が入る。人の足音だ。軽くはない。だが、土を踏む音を消すことには慣れている足。


 四人の気配が一斉に変わる。


 道賢が、声を低くした。


「来たな」

「誰だ」

 新九郎が言う。


 答えるより先に、空き小屋の入口の影に、人が立った。


 兵法者。


 町人ではない。館の使いでもない。

 立っているだけで、場を横から測る気配がある。


 桐生だった。


「……やはり」

 卜伝が低く言う。


 桐生は小屋の中までは入らなかった。入口のところで止まり、外の薄い光を背にして言った。


「次は、朝か」

「聞いていたか」

 卜伝が問う。

「半分はな」

 桐生は答えた。


 新九郎が思わず鼻を鳴らす。


「お前ら本当に嫌な奴ばっかりだな」

「それはお互いさまだろう」

 桐生は平然としていた。


 小夜がじっと桐生を見た。


「今回は何を見に来たの」

「同じだ」

 桐生が答える。

「お前たちが、物ではなく“縁”を止める顔になるかどうか」

「……」

「そして?」

 卜伝が問う。

「なると思うか」

「もうなっている」

 桐生は言った。


 その言葉には、嘲りとも感心ともつかぬ響きがあった。


「ただし」

 桐生は続ける。

「物の受け渡しより難しいぞ」

「分かっている」

 卜伝が答える。

「社の前へ出れば、それはもう“神前の顔”になる」

「……」

「その前に止める」

「そうだ」

 桐生は頷いた。

「だが今回は、剣で断てぬ流れもある」

「人の口か」

 小夜が言う。

「そう」

 桐生は小夜を見た。

「口上。証人。うなずく者。そういうものが流れを運ぶ」

「なら」

 卜伝が言った。

「人が運ぶ以上、継ぎ目はある」

 桐生の目が、そこで少しだけ細くなった。


「前よりいい」

「褒めるな」

「褒めてはいない」

「では何だ」

「確認だ」

 桐生は答えた。

「真壁様の前へ出るには、それくらいは見えていなければ話にならぬ」


 真壁。


 その名が出ると、空気の底が少しだけ冷える気がする。

 今回もまた、あの男は同じ場の近くにいるのかもしれない。

 見えるところには出ず、それでも流れの中央にはいる。


「明日は」

 桐生が言った。

「梶原は外を固める」

「……」

「私は、場を見る」

「お前らしいな」

 卜伝が返す。

「そうだろう」

「なら、こちらもそうする」

「何を」

「梶原ではなく、場を止める」

 桐生は少しだけ口元を動かした。


「本当に変わったな」

「そうかもしれない」

「変わらぬと、ここまでは来られぬ」


 そう言い残して、桐生はそれ以上は何も言わず、影の向こうへ消えた。


 新九郎が大きく息を吐く。


「相変わらず気味悪いな」

「ええ」

 小夜が言う。

「でも、あいつが来るってことは」

「明日の儀礼は本命だ」

 卜伝が言った。


 四人のあいだに、改めて緊張が落ちる。


 明日の朝。

 社の前庭。

 館の理が、社の顔へ変わるその直前。

 そこで、結ばせてはならぬ縁が結ばれようとしている。


 卜伝は、静かに刀へ手を置いた。


 止めるべきものは、もう見えている。

 あとは、どこで立つかだ。

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