第五十三話 波多野家の焦り、立ちたい家の匂い
浜の男たちは、館の悪口を大声では言わない。
だが、言わぬことと、何も思っていないことは違う。
北の浜手の朝は早い。まだ空の色が白み切らぬうちから、舟を見に行く者がいる。網の具合を確かめる者がいる。風を読み、波を見て、「今日は出せる」「今日はやめる」と短く決める。海のそばで暮らす者の朝は、まず天気と潮の顔を見ることから始まるのだろう。
新九郎は、そういう男たちの輪に入るのが上手かった。
別に愛想がいいわけではない。口も悪いし、最初から人好きのする顔でもない。だが、力仕事の場にいる男間の距離の詰め方を知っている。まず荷を持つ。次に無駄な口を利かぬ。相手が一度こちらの腕と足を見てから、ようやく人間扱いが始まる。そういう流れを、体で分かっている。
昼前、小さな浜の引き上げ場に近い網小屋の脇で、卜伝と小夜が待っているところへ、新九郎が戻ってきた。
肩に潮の匂いがついている。髪にも砂が混じっていた。だが顔つきは、いつもの雑さの奥に何か引っかかりを持って帰ってきた時のそれだった。
「どうだった」
卜伝が問う。
新九郎は、まず水をひと口飲み、それから言った。
「波多野家、やっぱり焦ってる」
「何かあった?」
小夜が聞く。
「“何か”というより、ずっとだな」
新九郎は網小屋の柱にもたれた。
「浜の年寄りが言ってた。今の波多野家は、二代か三代前まではここまで大きくなかったらしい」
「……」
「海沿いの流れを押さえて、塩と干魚と中継で食えるようになって、それで少しずつ館を大きくした」
「新しい力ね」
小夜が言う。
「そうだ」
新九郎は頷く。
「だが、近くの有力家と比べると“古さ”が足りねえ」
「家格か」
卜伝が低く言った。
新九郎は、少しだけ嫌そうな顔をして続けた。
「その言い方が一番しっくり来るな。金はある。人も動かせる。浜も一部押さえてる。けど、“もともとそれなりの家でした”って顔が足りねえ」
「だから古社へ手を伸ばす」
小夜が言う。
「ええ」
新九郎が答えた。
「浜の連中も、口では言わねえよ。でも、“あの家は立ちたがってる”って感じでは見てる」
「立ちたがってる」
卜伝が繰り返す。
「そうだ」
新九郎は言う。
「前より上へ。もう少し大きい家と肩を並べられるところへ。そういう匂いがある」
「……」
「しかも、自分たちでもそれを分かってる顔だ」
「どういう意味?」
小夜が問う。
「無理に強く見せるやつっているだろ」
新九郎が答えた。
「本当に余裕があるやつじゃなくて、“余裕あるように見せたい”やつ」
「いるわね」
「波多野家はそれだ」
「……」
「館の門もそうだし、使いの歩き方もそうだし、浜の男を叱る時の声までそうだ」
「なるほど」
小夜が小さく頷いた。
「“もう少し上の家”の真似をしてる」
「たぶんな」
新九郎は言った。
「だから余計に、古い顔が欲しいんだろうよ」
卜伝は、そこで黙って海のほうを見た。
白波は相変わらず荒い。
この土地は豊かではない。
だが流れを押さえれば、食える。
そして食えるようになった家は、次に“もっと上”へ行きたくなる。
その気持ちは、理としては分からぬでもなかった。
生き残りたい。
大きくなりたい。
隣より上へ行きたい。
そう思うこと自体は、責めきれぬ。
だが。
「事情があることと」
卜伝がぽつりと言った。
二人が顔を向ける。
「何?」
小夜が聞く。
「事情があることと、他人の名を買ってよいこととは別です」
小夜の目が、少しだけ和らいだ。
「ええ」
と、小さく言う。
「その通り」
「分かってる」
新九郎も頷いた。
「波多野家が苦しいのは、まあ分かる。古い家じゃねえ。周りより格が弱い。だから焦る」
「……」
「でもだからって、古社や宮司家の名を勝手に自分の顔へ縫いつけていいわけじゃねえ」
「ええ」
卜伝は答えた。
そこには、線がある。
事情を知れば、少しは理解もする。
だが理解することと、許すことは違う。
その線をはっきり引けるかどうかで、この旅の意味も変わってくる気がした。
小夜が座り直し、声を落として言った。
「館の側が焦ってるなら、たぶん動きも早い」
「どういうこと」
新九郎が聞く。
「本当に余裕のある家なら、何年もかけて少しずつ縁を作る」
小夜は答えた。
「古社に寄進する。祭礼を支える。宮司家を助ける。そうやって、“昔から繋がっていたように見える形”を時間で作る」
「……」
「でも焦ってる家は、それが待てない」
「だから、真壁の流れみたいなものに頼る」
「そう」
小夜は頷いた。
「抜き書きされた記録、都合のいい由緒、兵法の名。そういう“早く顔が作れるもの”へ飛びつく」
「胸糞悪いが、筋は通るな」
新九郎が言う。
「通るのが厄介なのよ」
小夜は答えた。
その時、道賢が戻ってきた。
どこへ行っていたのか分からぬ顔だが、潮の匂いよりも土の匂いをつけている。つまり浜ではなく、館の裏か、社の奥か、そのあたりを見ていたのだろう。
「話は済んだか」
とだけ言う。
「波多野家は焦ってるらしい」
新九郎が答えた。
「知っておる」
「何でだよ」
「顔を見れば分かる」
道賢は平然としていた。
「立ちたい家の顔は、たいてい少し急いておる」
「お前、何でも顔で済ますな」
「顔に出ることは多い」
小夜がそこで話を引き取る。
「焦ってるなら、儀礼も早いかもしれない」
「儀礼?」
卜伝が問う。
「ええ」
小夜は頷いた。
「浜の女たちのあいだで、変な噂が出てたの」
「どんな」
「“近いうちに、館とお社の縁が深いことを示す場があるらしい”って」
「……」
「祭礼ではない。もっと小さい。でも“人に見せるための何か”」
「つまり」
卜伝が言う。
「公に結びついた顔を作る」
「そう」
小夜は答えた。
「今の波多野家に一番必要なのは、それでしょうから」
「口だけの話か」
新九郎が聞く。
「口だけじゃ弱い」
道賢が言った。
「こういう時は、何か見せる」
「何か?」
「書か、口上か、あるいは証人だ」
「……」
「たとえば“古社との縁を示す由緒”」
「それに使える記録は、もう抜かれてる」
小夜が言う。
「なら」
卜伝は静かに言った。
「その儀礼の場で、偽りの縁が立とうとしている」
「ええ」
小夜は頷く。
「たぶん、そこが次の継ぎ目」
少しの沈黙が落ちた。
浜のほうから、網を打つ音が聞こえる。遠くで子どもの声もする。こんな土地でも、人は日々を続けている。その生活の上へ、館は新しい力を乗せ、古社の名まで欲しがっているのだ。
卜伝は、そこに妙なやるせなさを感じた。
波多野家の焦りは分かる。
だが、その焦りが他人の名へ手を伸ばすなら、止めねばならぬ。
それはもう、自分の旅の理に入っている。
「……卜伝」
小夜が呼ぶ。
「何です」
「いま、また難しい顔した」
「そうでしょうか」
「ええ」
「何考えてる」
新九郎が聞く。
卜伝は少しだけ考えてから答えた。
「焦りは、分かる」
「……」
「だが、そこから先で手を伸ばすものが違う」
「ええ」
小夜は頷く。
「その通り」
「なら、止める理由は十分だ」
「そうね」
「立ちたいなら、自分の足で立てばいい」
新九郎が言う。
「他人の名を杖にするなってことだな」
「ええ」
卜伝は答えた。
道賢が、そこでわずかに笑った。
「だいぶ旅の言葉になってきたな」
「どういう意味です」
「最初は、お前さんはもっと単純だった」
「……」
「だが今は、事情を見たうえで、それでも越えてはならぬ線を言える」
「そうでしょうか」
「そうだ」
道賢はあっさり言う。
「悪くない」
そのあと、小夜が浜の女たちから拾った話をさらにまとめた。
波多野家は近く、古社と自家の結びつきを公に示す“小さな儀礼”を行うらしい。大きな祭礼ではない。だが内々に見せるには十分な場だという。そこでは、社に伝わる由緒の断片や、土地の古い筋が、波多野家へ結びつくような口上で語られる可能性が高い。
「つまり」
新九郎が言う。
「また“顔を作る場”か」
「ええ」
小夜が答えた。
「でも今度は宴よりもっと厄介」
「なぜ」
「品だけじゃなく、“縁そのもの”を人前で結ぶから」
「……」
「物を止めるだけじゃ足りないかもしれない」
「口上もか」
卜伝が言う。
「そう」
小夜は頷いた。
「今回止めるべきなのは、もっと曖昧で、だからこそもっと厄介」
卜伝はそこで、次の場がはっきり見えた気がした。
前章では、偽りの由緒が祝いの席へ入るのを止めた。
だが今度は、その由緒が“土地との縁”として結ばれようとしている。
それを止めるなら、物だけでは足りない。
継ぎ目を見る目が、また一段要る。
海風が、また強く吹いた。
館と古社は遠くで並んでいる。
新しい力と古い名。
そのあいだにあるねじれが、いよいよ目に見える形を取ろうとしていた。




