第五十五話 影の筆、口上を売る者
筆というものは、刀より静かに人を斬ることがある。
そのことを、卜伝はこの土地へ来てから何度か思わされていた。箱を盗むならまだ分かりやすい。兵法書を流すのも、怒りの向け先は見える。だが今、波多野家と古社のあいだで起きようとしていることは違う。書そのものを奪うのではない。古記録の中から都合のよい筋だけを抜き、そこへもっともらしい言葉をつけて、人前で“昔からそうでした”という顔を作ろうとしている。
それは、刀で斬るより前に、筆で結ばれる偽りだった。
明日の朝、社の前庭で小さな儀礼が行われる。そこでは、波多野家と古社に古くからの縁があったかのような口上が、人の前で語られる可能性が高い。そうなれば、それはただの噂ではなく、“そういう場があった”という事実の顔を持つ。
止めるべきはそこだ。
だが止めるには、まず誰がその口上を整え、どこで“もっともらしい筋”に仕立てているのかを見つけねばならぬ。
その日の午後、一行は館の外れと社のあいだを結ぶ道筋を分かれて見ていた。
新九郎は浜手から館へ荷を運ぶ男たちの輪へ入り込み、道賢はいつも通り、どこにいるのか分からぬまま道と人の継ぎ目を見ている。小夜と卜伝は、館の裏手から社へ繋がる細い坂道を見ていた。
館の力と、社の古さ。その二つがこの土地ではまだ一つの顔になりきっていない。そのねじれを、誰かが言葉で縫い合わせようとしている。そう考えると、見るべき相手は武家の使いでも門番でもなく、“文を扱う手”なのだろう。
「来るわ」
小夜が低く言った。
視線の先、館の脇の通用口から一人の男が出てきた。
町人ふうだ。だが、ただの小者とも手代とも違う。年は三十半ばほどか。着物は地味で、歩幅も大きくない。周囲へ溶け込むような歩き方をしている。だが懐のあたりを何度か気にする癖がある。何か紙を持っている者の動きだった。
「誰だ」
卜伝が問う。
「たぶん文書役」
小夜が答える。
「どうして分かる」
「顔が“見られたくないけど、見られても不自然じゃない顔”をしてる」
「……」
「こういう役目の人間はね、荷持ちでも武家の使いでもない中途半端な顔になるの」
「分かりにくい」
「でもいるのよ、そういう顔が」
男は館を出ると、まっすぐ社へ向かうわけではなかった。坂を少し下り、浜手へ降りるでもなく、途中の小さな茶屋の裏手へ回った。客のための席ではない。荷の受け渡しや口ききのために使われる裏の板間だ。
「そこで何を」
卜伝が言う。
「受け取るか、渡すか」
小夜が答える。
「どっちにしても、見たいわね」
二人は茶屋の裏手が見える位置まで、塀と物置の陰を使って回り込んだ。正面から近づけばすぐ目立つ。だが裏手なら、人の出入り自体が少ない。こういう時、小夜の道の取り方は本当に無駄がない。
板間の障子は半分ほど閉じていた。声ははっきりとは聞こえぬ。だが、中に男が二人いる気配がある。ひとりは先ほどの文書役。もうひとりは、茶屋の主か、あるいは別筋の使いか。しばらくして、障子の隙間から細長い包みが差し出された。
紙の包みだ。
文書役の男はそれを両手で受け取り、すぐには懐へ入れず、一度だけ軽く開いて中を確かめた。
「……」
小夜の目が細くなる。
「何だと思う」
卜伝が問う。
「文」
「口上文か」
「たぶん」
小夜は小さく頷いた。
「少なくとも、ただの書付じゃない。扱いが丁寧すぎる」
文書役の男はその包みを受け取ると、すぐには館へ戻らなかった。社へ向かう坂を途中まで上がり、人気のない松の陰で立ち止まる。それから懐から別の紙を取り出し、受け取った包みと見比べ始めた。
「合わせてる」
小夜が言った。
「何を」
「筋よ」
「……」
「古記録から抜いた断片と、人前で読むための文」
「……」
「繋げてるの」
その言葉で、卜伝の胸へ冷たいものが落ちた。
やはりそうだ。
真壁の流れは、もう物だけを売ってはいない。
古記録の断片。
都合のいい名前。
古社と波多野家が繋がって見える言葉の筋。
それらを、人前で違和感なく読めるように整える者がいる。
「口上を売る者」
卜伝が低く言った。
小夜は頷く。
「そう」
「兵法書も箱も、結局は“人にどう見せるか”のためだった」
「ええ」
「なら、今回はその“どう見せるか”そのものを売っている」
「その通り」
小夜の声は冷えていた。
「物より、もっと質が悪い」
そこで新九郎が合流してきた。いつの間にか浜側から回ってきていたらしい。
「見えたか」
と、低く聞く。
小夜が短く事情を伝えると、新九郎はあからさまに嫌な顔をした。
「つまり、あいつが口上を整えてるやつか」
「たぶんね」
「叩いて吐かせるか」
「まだ駄目」
小夜が即座に言う。
「何でだ」
「今ここでやったら、“不審な旅人が館の文書役を襲った”で終わる」
「それもそうか」
「それに」
小夜は文書役の男を見ながら続けた。
「まだ何をどう繋いでるか、全部は見えてない」
「……」
「本当に止めるべきは、文そのものじゃなく、“その文が社の前で本物の顔を持つ瞬間”でしょう」
「ええ」
卜伝も頷いた。
文書役の男は、そこで紙をたたみ直し、再び懐へ入れた。もう一枚、別の控えを見て、さらに何かを書き足す。筆ではなく、木炭か細い墨棒のようなもので印をつけただけだ。だが、その躊躇のなさから、こういう仕事に慣れているのだと分かった。
「慣れてるな」
新九郎が言う。
「ええ」
小夜が答える。
「一度や二度じゃない」
「波多野家だけじゃねえのか」
「たぶん」
小夜は言った。
「こういう“もっともらしい口上”を作る役は、いろんな家を渡り歩ける」
「真壁の流れだな」
卜伝が言う。
「そう」
小夜は頷いた。
「物を運ぶ道があるなら、言葉を運ぶ道もある」
文書役の男が、坂を上がり始めた。
向かう先は館ではない。古社だ。
「社へ行く」
卜伝が言う。
「ええ」
小夜は即答した。
「たぶん、場を確かめに」
「どういうことだ」
新九郎が問う。
「明日、人の前でどこに立ち、どこで読むのか」
小夜が言った。
「声がどう通るか、誰の前にどの言葉を置けば一番“本物らしく”見えるか」
「そこまでやるか」
「やる」
小夜はきっぱり言った。
「それが“語りを売る”ってことよ」
卜伝は、その言い方に、ますます真壁の流れの嫌らしさを感じた。
箱は目で見える。
書も手に取れる。
だが、口上は違う。
人の口と耳を通る。
いったんもっともらしく響いてしまえば、それだけで“そういうものだった”という顔になる。
止めるなら、その前だ。
文書役の男が社の前まで行った時、そこにはもう一人いた。
木立の陰。
立ち姿に無駄がない。
ただ見ているようで、場の綻びを測っている目。
桐生だ。
卜伝の目が細くなる。
「やはりいる」
「ええ」
小夜が低く言う。
「こういう“場が立つ瞬間”には必ず来る」
「梶原兵庫はいないな」
新九郎が言う。
「たぶん外よ」
小夜は答えた。
「館の護りか、社へ入る道筋か」
「桐生が中を見て、梶原が外を押さえる」
卜伝が言った。
「役割分担だな」
「ええ」
小夜が頷く。
桐生は文書役へ何かを言った。声までは聞こえない。だが、文書役の男が紙を差し出し、桐生が目を通し、ほんの少しだけ指先で位置を示す。つまり、あの男はただの護衛ではない。口上の筋すら見ている。
「……」
卜伝は、そこで改めて桐生という男の厄介さを思った。
梶原は押し潰す。
だが桐生は違う。
物の流れだけではなく、人の心、場の成り立ち、言葉の置き方まで見ている。
だから真壁の近くにいられるのだろう。
文書役の男はやがて社の前から離れ、館の方へ戻り始めた。桐生はしばらくその場に留まり、それから一度だけ、こちらの潜む木陰へ視線を寄越した。
見えている。
そう思った。
だが、声はかけてこない。近づいてもこない。ただ“そこにいることは分かっている”という顔を残したまま、社の裏手へ消えた。
「本当に気味悪いな」
新九郎が言う。
「ええ」
小夜が答える。
「でも、今ので十分」
「何が」
「文書役の役目が見えた」
小夜は言った。
「記録の断片を繋ぎ、もっともらしい口上へ整え、場でどう読まれるかまで確認する」
「……」
「つまり、明日止めるべきは、書や箱だけじゃない」
「人の口か」
卜伝が言う。
「そう」
小夜は頷いた。
「“人前で語られる筋”そのもの」
卜伝は、ゆっくり息を吐いた。
敵はやはり、物より先へ進んでいる。
だがこちらも、そこへ目を向け始めている。
止めるべき継ぎ目は、まだ見える。
「明日は」
卜伝が言った。
「場を成立させる者を止める」
「ええ」
小夜は答える。
「それが一番効く」
「梶原じゃなくて?」
新九郎が聞く。
「梶原は前を固める役」
卜伝は言った。
「だが前を固めるだけなら、場そのものは立つ」
「……」
「口上を持つ者、受ける者、もっともらしい顔でうなずく者」
「そこか」
「そうだ」
卜伝は答えた。
新九郎が大きく息を吐く。
「だんだん、斬る相手より止める相手を選ぶようになってきたな」
「そうかもしれません」
「面倒くせえけど、悪くはねえ」
「珍しく、いいこと言う」
小夜が言う。
「お前、最近褒める時の言い方ひどくないか」
「前からよ」
「それもひでえ」
海からまた、風が上がってきた。
社の屋根が鳴る。館の新しい板塀も鳴る。同じ風に吹かれているのに、二つの音は違う。その違いを、誰かがひとつの“縁”に見せようとしている。
ならば明日、断つべきはその偽りの結び目だ。




