第二十五話 海の匂いがする町へ
河口を離れる朝の風は、川辺のそれとはもう少し違っていた。
湿っているのは同じだ。草を撫で、水を渡り、肌へまとわりつくように吹く。だがその奥に、もっと広いものの匂いが混じっている。塩気。乾ききらぬ魚。遠くで砕ける白波まではまだ見えぬくせに、その気配だけが先に届いてくる。
卜伝は朝の薄い光の中を歩きながら、何度目かになる川風を吸い込んで、やはり河口の風とは違うと思った。
河口は、川がほどける場所だった。
だが今、自分たちが向かっているのは、そのほどけた流れがさらに別の顔を持つ場所だ。川の名を失った荷が、今度は海の名も持たぬものとして、どこかへ散っていく口。
真壁又十郎が狙っているのは、そこだろう。
川湊で荷札を変え、河口で舟印を変え、最後に海へ抜ける。そのやり口を思い返すたびに、真壁という男の兵法はやはり剣だけではないと感じる。あれは、人と道と荷の名をひとつの理として使っている男だ。
「また考え込んでる」
小夜が横から言った。
卜伝は視線だけ向ける。
「歩いています」
「歩きながら考えてる顔」
「同じでは」
「違うわよ。歩いてるだけの顔と、頭の中で何か並べ替えてる顔は」
「そんなに分かるものですか」
「分かる」
小夜は即答した。
「だいぶ長く見てるもの」
そう言ってから、自分で少しだけ言いすぎたと思ったのか、小夜はすぐに前へ向き直った。だが頬のあたりがわずかに強張っている。卜伝はそれ以上何も言わなかった。こういう時に余計なことを言うと、たいていこちらが損をする。
新九郎は少し前を歩いていたが、二人のやり取りを聞いて鼻を鳴らした。
「お前ら、朝から細けえな」
「あなたが大雑把すぎるのよ」
小夜が返す。
「海も近いしな」
「それ関係ある?」
「ある」
新九郎はしかめ面のまま言う。
「海も船も嫌いだ」
「川も嫌いって言ってたでしょう」
「川も嫌いだ。船も嫌いだ。海も嫌いだ」
「全部まとめて嫌いなのね」
「そうだよ。足がついてねえ場所は、まとめて信用ならねえ」
「港町に向かう旅でそれを連呼するの、逆にすごいわね」
「嫌なもんは嫌だ」
その言い方があまりにきっぱりしていて、小夜はとうとう笑った。卜伝も口元が少しだけ緩みそうになる。
新九郎は不満そうに振り返った。
「おい、笑ってるだろ」
「少しだけです」
卜伝が答える。
「ほらな!」
「でも安心したわ」
小夜が言う。
「何がだ」
「いつも通りで」
「どういう意味だ」
「いつも通りうるさいってこと」
「ひでえな」
そう言いながらも、新九郎の声にはいつもの調子が戻っている。河口の戦いのあと、皆どこか張りつめたものを抱えていた。だが、一晩置いて、こうして次の町へ向かう道を歩いていると、ようやく息の仕方が戻ってくる。
道は河口から離れるにつれ、川沿いの湿地をなぞるように続いた。
左手には低い草地が広がり、その向こうに細い流れが何本も走っている。ところどころ泥が黒く口を開け、踏めば深く沈みそうな場所もある。川岸の葦は背が高くなり、鳥の声も変わった。水辺の鳥が甲高く鳴き、見えぬところで羽音だけがばさりと立つ。
昼へ近づくにつれ、風の匂いもまた濃くなっていく。
塩気が強い。
魚の匂いが混じる。
干した海藻のようなものまで、どこからともなく風に乗ってくる。
小夜は歩きながら、その景色の変化を指して言った。
「ここから先、荷の流れも変わるわ」
「どう変わる」
卜伝が問う。
「河口までは川の都合で動くでしょう」
小夜は言う。
「流れの速さ、舟の深さ、どの支流へ入れるか。そういう“川の理”が先に立つ。でも海に近い町へ入ると、今度は“誰の蔵へ上がるか”“どの浜へ着けるか”“どの船へ積み替えるか”が前に出る」
「つまり、人の理が強くなる」
道賢が前から言った。
小夜は頷く。
「ええ。川の荷は、最後はどこかの岸へ上がる。上がった瞬間、今度は海の商いの筋に乗るの」
「海の商いの筋」
新九郎が嫌そうに繰り返す。
「嫌な言い方だな」
「嫌な流れでしょうね」
小夜はあっさり言った。
「河口で見たでしょう。真壁は荷を“どこの何でもないもの”に変えようとしてた。海へ出れば、そのままもっと遠くへ散らせる」
「海へ出た荷は、川よりさらに名を失いやすい」
道賢が静かに言う。
三人の視線がそちらへ向いた。
道賢は杖をつきながら、変わらぬ胡散臭さで続ける。
「川の荷は、まだ流れを遡れば元の道がある。どこから来たか、誰が渡したか、支流や河口を辿れば、痕は残る。だが海は違う」
「違う?」
卜伝が問う。
「出てしまえば、どの浜へも着ける」
道賢は言った。
「どの船にも積める。どの国の品とも言い張れる。海へ出た荷は、川よりさらに名を失いやすい」
「……」
「真壁がそこまで見ておるなら、厄介どころの話ではないな」
新九郎が吐き捨てる。
卜伝は黙っていた。
真壁はただ奪うだけではない。
由緒ある品を、流れの中でどんどん別のものへ変えていく。鹿島で盗まれた箱も、どこかの蔵へ入ればただの木箱になり、河口で荷札を変えればただの商い荷になり、海へ出ればもはやどこの何かさえ曖昧になるのかもしれない。
それを止めるには、剣だけでは足りぬ。
だが足りぬからといって、剣が要らぬわけでもない。村で人を守った時も、宿で火を止めた時も、河口で流れを断った時も、最後に立つのはやはり刃だった。
ならば次に見るべきは何か。
卜伝は、河口までとは違う視点で物を考え始めている自分に気づいていた。
これまでは、真壁の背を追う目が強かった。
だが今は違う。
真壁がどこへ流すか。
その先で誰が受け取るか。
誰が、何を欲しがって、この流れを歓迎しているのか。
次に見るべきは、“受け取る者の顔”だ。
真壁本人を斬ることだけでは、この流れは止まらない。その先で口を開けて待つ者がいる限り、また別の真壁が現れるだろう。
そう思うと、敵はかえって大きくなる。だが、見るべきものがはっきりする分、卜伝の胸の内は以前より静かだった。
「難しい顔してるけど、前よりはましね」
小夜がまた言った。
「前より?」
「ええ。前は“追いつけるか”って顔だった」
「今は?」
「“何を見ればいいか”を考えてる顔」
「……」
「図星でしょ」
「否定はしません」
「素直」
「最近ずっとそう言われています」
「だって事実だもの」
新九郎がそこで笑った。
「お前、最初の頃よりだいぶ面倒くさくなったもんな」
「褒めていますか」
卜伝が問うと、
「半分は」
と新九郎が返した。
「またそれですか」
「便利なんだよ、その言い方」
「便利に使わないで」
小夜が呆れたように言う。
午後になると、道はゆるやかに高みへ出た。
そこで初めて、一行は新しい町の遠景を見た。
港町だった。
河口の先に広がる海辺へ寄り添うように、屋根が密に集まっている。川沿いの町とも、内陸の宿場とも違う。屋根の向きも、道の筋も、みな海を意識して並んでいるように見えた。遠くには帆柱の影がいくつも立ち、浜には舟が引き上げられている。蔵らしき大きな建物がいくつか固まり、さらにその奥には、少し高い地に武家屋敷か城下の一角らしき塀と屋根が見えた。
「……あれか」
新九郎が言う。
「ええ」
小夜が頷く。
「河口からの荷が最初に大きく上がる町」
「城下と港がくっついてるな」
「だから厄介なのよ」
小夜は言った。
「商いの顔と、武家の顔が近すぎる」
道賢はその遠景を眺めながら、ぼそりと呟いた。
「海風の中に、よくもあれだけ欲を積んだものだ」
その言葉に、卜伝は何も返さなかった。
ただ町を見ていた。
川よりも広い“海の出口”が、そこにあった。
川の上でなら、まだ流れを追える気がした。
河口でも、札と舟印の継ぎ目は見えた。
だが海へ出た先は、もっと広い。
荷はどの蔵へも上がれる。
人はどの船へも乗れる。
そして名を失った品は、どこの誰の手にも渡りうる。
敵の逃げ道は、ここでさらに広がるのだ。
その広さを前にして、卜伝はほんの少しだけ息を詰めた。怖いのではない。だが、遠さは感じる。鹿島の社裏から始まった追跡が、いまは海の匂いがする町へまで伸びている。その距離の長さと、相手の逃げ道の広さを、改めて目で知ったのだ。
だが、それでも前へ行くしかない。
剣を抜く前に、見るべきものがある。
追う前に、受け取る顔を見ねばならぬ。
卜伝は港町の遠景を見つめたまま、小さく息を吐いた。
海の出口は広い。
だが広いからこそ、そこには新しい継ぎ目があるはずだった。




