第二十四話 流れの先へ――第二の追跡路
河口の風は、戦いのあとほど冷たく感じる。
刃の熱も、怒鳴り声も、舟を押し返す力も、すべて一度に引いていくからだろう。川が海へほどけるその広がりの中で、人が起こした騒ぎなど、ほんの束の間だけ水面を乱す小石のようなものに思えてくる。だが、乱れは確かにあった。そこへ刃を入れた者の手にも、まだその感触は残っている。
河口の受け渡し場には、湿地に崩れた足跡と、泥にまみれた荷札と、倒れた人足崩れたちの呻きが残っていた。
新九郎が押し潰した連中のうち、二人はもう動けない。道賢が足止めした逃走舟は岸へ半ば打ち上げられ、綱が複雑に絡んでいる。小夜が泥へ落として読めなくした札は、風にめくれながら湿っていた。卜伝が守り切った箱は、なお桟橋の上にある。
全部ではない。
だが、確かに幾つかは止めた。
卜伝はその事実を、火照りの引いた体で静かに受け止めていた。
「こっちは三つ」
小夜が言った。
彼女は泥と水で汚れた札を慎重に拾い上げ、読めるものと読めぬものを分けていた。髪も袖も汚れているのに、その指先の動きだけは妙に丁寧だ。
「何が」
新九郎が聞く。
「止められた荷筋よ」
小夜は答える。
「この札と、この舟印、それにこっちの印。少なくとも三筋は、今夜のうちに“どこの何でもない荷”に変えられなかった」
「三つ、か」
新九郎は鼻を鳴らした。
「全部じゃねえが、悪くねえ」
「悪くないどころじゃないわ」
小夜は顔を上げた。
「これ、真壁の流れの一部そのものよ。河口へ抜ける前に止めたってことは、その先で待ってる相手にも狂いが出る」
「待ってる相手……武家の使いか」
卜伝が低く言う。
小夜は頷いた。
「ええ。表に立っていた連中、あれはただ荷を見に来た顔じゃなかった。受け取る側の目よ」
「つまり真壁の後ろに、もっと大きい手がある」
新九郎が言う。
「そう考えるのが自然ね」
「気に食わねえな」
「今さら?」
小夜がそう返すと、新九郎は苦い顔で笑った。
道賢は、倒れた逃走舟の脇で泥を払っていたが、四人の会話を聞いても何も驚かなかった。
「最初からそういう流れだ」
とだけ言う。
「由緒ある品を集めるだけなら、真壁一人の欲でも足りる。だが、集めたものを名のある誰かへ流すなら、向こうにも口がある」
「口だけでは済まぬでしょう」
小夜が言う。
「金も、人も、蔵も、舟も要る」
「そうだ」
道賢が頷く。
「真壁は流れを作っておる。だが、その流れに乗りたがる者もまたおる」
卜伝は、河口の向こうを見た。
海まではまだはっきり見えない。だが、川が終わりかけている気配だけは濃い。水面の広がり、風の塩気、岸の曖昧さ。その向こうに、真壁本人はまた一歩先で消えた。
宿場でも、河口でも、真壁は届くところまで来て、しかし届かぬところへ退いていく。
悔しい。
その悔しさはまだある。
だが、前とは少し違う悔しさだった。
一対一ならどうか、という悔しさではない。
また逃げられた、という悔しさだけでもない。
もっと広いものへ、まだ刃が届ききらぬという悔しさだ。
真壁を斬るだけでは止まらぬ流れがある。
その流れの太さを、いま河口の風が教えている。
「卜伝」
小夜が声をかけた。
振り向くと、彼女は泥のついた札を三枚、指で挟んでいた。
「これ、持っておいて」
「私が?」
「ええ。あなたがいい」
「なぜ」
「あなたは、剣を振るう理由を忘れない顔になってきたから」
「……」
「前なら、札より敵の背中だけ見てた」
「否定できません」
「今は違うでしょう」
「少しは」
「それでいいの」
卜伝は札を受け取った。
湿っている。泥もついている。だがそれは、今夜止めた流れの証でもあった。どこの何でもない荷に変えられるはずだったものが、まだ名前を失わずにこちらの手の中にある。
新九郎が桟橋に腰を下ろし、大きく息を吐いた。
「しかし、梶原も消え、真壁も消え、使いの連中もきれいに引きやがったな」
「退く流れがあるんでしょうね」
小夜が言う。
「駄目だと見た時に、何を切って何を残すか、向こうは慣れてる」
「それが兵法ってんなら、胸糞悪い兵法だ」
新九郎が吐き捨てる。
卜伝はその言葉を聞きながら、真壁の顔を思い出していた。
若く、落ち着き払い、どこか武家の兵法者のようで、盗賊の頭には見えぬ男。あの男はたしかに強い。だが、その強さは剣の速さや間合いの深さだけではない。人をどこへ置き、どの札をどの流れへ乗せ、どの場で退くかまで含めて、自分の兵法にしている。
剣の敵としてだけ見ていれば、いつか追いつけるかもしれない。
だが世渡りの敵として見れば、まだ遠い。
だからこそ、今の自分がどこまで来ているかもまた、少しだけ見えてきた。
鹿島を出た時、自分はただ盗まれたものを追う若者だった。
兵法書と箱を取り返したい。賊に届きたい。真壁へ届きたい。そういうまっすぐさだけでここまで来た。
だが今は違う。
村で人を守った。
宿で火の中から人を逃がした。
川湊で荷の流れを読み、河口でその流れを断った。
自分はもう、ただ“盗まれたものを追う若者”ではない。
真壁の築いた流れそのものへ、刃を入れ始めている。
その事実は、重かった。
だが、重いからこそ、以前よりも腹の底が静かだった。
「どうしたの」
小夜が問う。
「いや」
卜伝は小さく首を振る。
「ようやく、どこを斬るべきかが少し見えてきた」
「真壁本人?」
新九郎が聞く。
「真壁だけではない」
卜伝は答えた。
「真壁の作った流れだ」
「……」
「本人を斬るだけでは足りぬ。流れが残れば、また誰かが同じことをする」
「そうね」
小夜が静かに言う。
「それが見えたなら、今夜は無駄じゃなかった」
「無駄どころか、ずいぶん前に進んだと思うがな」
新九郎が言う。
「真壁本人には逃げられた。だが、河口の流れは確かに乱した。湊の札も止めた。次にあいつらが同じように流そうとしても、前よりは見やすい」
「ええ」
小夜が頷く。
「向こうは“こっちがどこまで分かってるか”を知ったはずだし、こっちは“向こうがどうやって名を消すか”を知った」
「なら対等に近づいたか」
卜伝が問う。
道賢が鼻で笑う。
「まだまだだ」
「だろうな」
卜伝も素直に答えた。
「だが、一歩は入った」
「それでよい」
河口の岸に立つと、風が強くなった。水の向こうから来る風は、川の流れと海の広がりを一緒に運んでくる。止まっていても、どこかへ押しやられそうな風だった。
だが、押されるばかりでいる気はなかった。
小夜は止めた札を布へ包み直し、宗兵衛から預かった帳面の写しと一緒にまとめた。新九郎は湿地で拾った敵の縄や金具を放り出しながら、「次はもっと乾いた場所で戦いたい」とぶつぶつ言っている。道賢は、真壁の印が刻まれた木片をしばらく眺めたあと、「捨てるな」とだけ言って卜伝へ返した。
四人の役目は、もうはっきりしていた。
誰が何を見るか。
誰がどこで止めるか。
誰が何を守るか。
その形が、第二章を通してようやく固まったのだと、卜伝は感じていた。
「ここから先は?」
新九郎が聞く。
「河口を離れたら、次はどこへ向かう」
小夜が卜伝を見る。
以前なら、そう問われればすぐ答えられなかったかもしれない。敵の背を追うことだけが先に立ち、次の土地の意味まではまだ曖昧だった。
だが今は違う。
真壁の後ろに、武家の影が見えた。
河口は終点ではなく、受け渡しの場にすぎなかった。
ならば次に追うべきは、川を抜けた先で“受け取る側”の流れだ。
「さらに先へだ」
卜伝は言った。
「真壁が流した先。受け取る側の土地へ」
「ようやく言い切るようになったわね」
小夜が言う。
「少しは」
「少しどころじゃない」
新九郎が笑う。
「今のお前、鹿島を出たばっかの頃よりずっと面倒くさい顔してるぞ」
「褒めていますか」
「半分はな」
「またそれですか」
「でも、いい意味でだ」
新九郎は立ち上がり、軽く肩を回した。
「こっちも付き合いがいがある」
卜伝は返事の代わりに、河口の風を受けた。
第二章は、ここで一つの形を終える。
勝ち切れたわけではない。
真壁本人はまた逃れた。
背後にはさらに大きな武家の影がある。
だが、何も得られずに終わったわけでもない。
荷の一部は奪還した。
流通経路の一部は断った。
そして何より、自分の剣がどこへ向くべきかを、以前よりはっきり知った。
川は流れた。
だが、その流れにただ呑まれるために、鹿島の剣は立っているのではない。
次に断つべき流れは、さらに大きい。




