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『剣聖・塚原卜伝 ――鹿島立ちの剣、戦国を渡る』  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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第二十三話 河口、流れを断つ剣

 夜のうちに見た舟灯りは、朝になれば何事もなかったように河口の景色へ溶けていた。


 だが、溶けたように見えるだけで、消えたわけではない。


 庵を発ってさらに東へ下るにつれ、川の顔は明らかに変わっていった。流れは広がり、岸の形は曖昧になり、ところどころに湿地が口を開ける。水と土の境が乱れ、草が茂る場所もあれば、ぬめった泥がむき出しの場所もある。小さな支流がいくつも別れ、またどこかで合わさる。陸の目だけでは、どれが本道でどれが逃げ道か分かりにくい。


 河口とは、ただ川が海へ出る場所ではないのだと卜伝は思った。


 ここは、流れが解ける場所だ。


 だからこそ、人も荷も、最後に名を失いやすいのだろう。


 昼過ぎ、一行は河口に近い低地の草むらの陰から、荷の受け渡し場を見下ろせる場所に潜んでいた。大きな港ではない。正面から見れば、川船が荷を降ろすには都合のよい、少し広めの岸場にすぎぬ。だが目を凝らせば、そこが単なる荷揚げ場でないことはすぐ分かる。


 桟橋が三つ。


 大きいものは一つ、小さいものが二つ。


 大きい桟橋には、表向きの荷が出入りしている。米俵、塩俵、魚桶、反物らしき包み。人足の怒鳴り声も、わざとらしいほど普通だ。


 だがその横、小さい桟橋のほうは違う。


 舟は小ぶりで、荷も少ない。だが人の目が濃い。浪人風の男たちが何気なく立っている。人足に見えるが肩の入り方が違う者もいる。さらにその奥、岸から少し離れた乾いた土の上には、武家の使いらしき者までいる。衣は地味だが、腰の差し方と立ち方が百姓でも商人でもない。


「いるわね」

 小夜が草の陰で低く言った。

「武家の使いまで」

「ああ」

 卜伝も頷く。

「真壁だけの流れじゃない」

「だからこそ面倒なのよ」

 小夜は目を細めた。

「由緒ある品を欲しがるのは、何も真壁本人だけじゃない。真壁は、その欲を流れに変えてる」

「気に食わねえな」

 新九郎が吐き捨てる。

「嫌な野郎に嫌な連中がくっついて、嫌な商売してやがる」

「言い方は雑だが、合っておる」

 道賢が言う。


 卜伝は河口の全体を見た。


 舟、桟橋、湿地、積み荷、人足、浪人、使い。


 戦場として見れば広い。鹿島の社裏とも、宿場の裏道とも、川湊の蔵裏とも違う。ここでは“場を押さえる”だけでは足りぬ。流れそのものを断たねばならぬのだ。


 宗兵衛から聞いた通り、荷印の偽装ももう見て取れた。小さな桟橋に運ばれる荷のいくつかは、表の札と実際の受け渡し先が明らかに噛み合っていない。小夜は朝からそこを見続け、すでに二度、札の入れ替えの手順を見抜いていた。


「今よ」

 小夜が低く言う。

「あの二つ目の木箱。いま札を替える」

 卜伝は目を凝らす。


 たしかに、舟から上がった木箱が一度俵の陰へ置かれ、その脇で紙札を持った手代風の男が何かを結び直している。ほんの一瞬の手際だ。だが、あそこが流れの継ぎ目だ。


 あの一瞬を断てば、表の荷が裏の荷へ化ける流れが止まる。


「行けるか」

 新九郎が聞く。


 卜伝は頷いた。


「正面で混ぜる」

「おう」

 新九郎はにやりとする。

「待ってました」

「あなたは、あの浪人崩れの列を食って」

 小夜が言う。

「分かってる。目立つところで暴れりゃいいんだろ」

「暴れすぎないで」

「難しい注文だな」

「でも、あなたなら出来る」

 小夜が言うと、新九郎は少しだけ目を丸くした。

「……珍しく素直に頼るな」

「頼れる時は頼るの」

「そうかよ」


 小夜は続けて道賢を見る。


「道賢殿は」

「逃走舟を一艘足止めする」

 道賢はもう決めていたように言った。

「全部は止められぬ。だが一艘が絡めば、流れは乱れる」

「お願いします」


 卜伝は自分の役目を改めて胸の中でなぞった。


 真壁を探して斬るのではない。

 流れを断つ。

 受け渡しの一瞬、名前を失うその継ぎ目を止める。


 だから、剣もまたそれに合わせて振るわねばならぬ。


「行く」

 卜伝が言った。


 四人は、草の陰からそれぞれの持ち場へ散った。


 最初に動いたのは新九郎だった。


 湿地の脇を大股で突っ切り、わざと目立つ位置から浪人崩れの一団へ突っ込む。相変わらず声が大きい。


「おう! 荷運びごっこは楽しいか!」


 怒鳴り声と同時に、相手の顔が一斉に変わる。新九郎は正面の混戦を引き受ける役だ。乱戦になればなるほど、この男の豪快さは活きる。細かく崩すより、まず前へ立ち、相手の正面を壊し、勢いで半歩ずつ押し返す。そのために必要な肩の強さと、怯まず前へ出る気迫を、新九郎は持っている。


 浪人の一人が刀を抜く。新九郎は待っていたように笑い、その刃を真正面から弾き返した。


「来いよ!」


 その声で、周囲の視線がまず新九郎へ集まる。


 次の瞬間、卜伝が入った。


 正面ではなく、荷の継ぎ目へ。


 札を替えようとしていた手代風の男が振り向く前に、卜伝はその手元へ刀の峰を打ち込んだ。紙札が飛ぶ。男は悲鳴を上げる暇もなく膝を折った。


「札を取れ!」

 卜伝が叫ぶ。


 小夜はすでに動いていた。俵の陰から飛び出し、落ちた紙札を拾い上げ、そのまま箱へ結ばれた別の札を引きちぎる。剣はない。だが、流れを断つという意味では、その指先は今まさに剣と同じ働きをしていた。


「この荷はもう“別の荷”にならない!」

 小夜が言い切る。


 その一言が、何より大きかった。


 表向きの名を失えば、荷はただの箱になる。だが札の入れ替えを止めれば、その荷はまだ“怪しい荷”のままで留まる。つまり、流れに乗れなくなる。


「娘ァ!」

 手代風の男が飛びかかろうとする。


 だがその前へ卜伝が入る。刃を深くは振らない。腕を打ち、膝を崩し、箱へ触れる道だけを切る。守る剣ではなく、止める剣。最近ようやく体に入り始めたその理が、ここではっきりと形を持っていた。


 敵の一人を倒すことではない。


 敵が箱へ触れること、札を替えること、舟へ運ぶこと、その流れを断てばよい。


 湿地側では、新九郎がすでに二人を押し崩していた。刀と棒が交じる乱戦だ。足場は悪い。湿った土へ足を取られ、相手の刃も滑る。だが新九郎は、滑るなら滑るで体ごとぶつかる。肩で押し、肘で崩し、刃はそのあとで振るう。見た目は荒い。だが、こういう不安定な地ではその荒さがかえって強い。


「おらあっ!」


 叫びとともに浪人崩れが一人、湿地へ転がった。泥が跳ねる。別の一人が脇から入る。新九郎はそれを読んでいたように半身になり、相手の手首を切り上げる。血と泥が一緒に飛んだ。


 卜伝はその豪快さを横目で見ながら、自分は別の角度で戦うべきだと思った。


 敵が混戦へ引き込もうとするなら、その真ん中へ付き合っていては流れを止め切れぬ。守るべきは箱であり、札であり、舟への道だ。


 その時、小さな桟橋の先で別の影が動いた。


 梶原兵庫だ。


 卜伝はその姿を見た瞬間、息を低くした。梶原は昨日と同じく、荒い殺気を隠さない。だが今日は、ただ気に食わぬ顔を見に来た時とは違う。明らかに役目を持っている顔だ。卜伝を止める役。流れを断ちに来たこちらを、剣で押し戻す役だ。


「またお前か」

 梶原が吐き捨てる。

「真壁様の前へ出る前に、河口で泥を食って死ね」

「断る」

 卜伝は短く返した。


 梶原が踏み込む。


 今度は蔵裏の細道ではない。河口の湿った板場と土、桟橋の際だ。足場は決してよくない。だが昨日の川湊よりは広い。そのぶん動ける。逆に言えば、動きすぎれば相手に逃げ道も与える。


 梶原の剣は、やはり重い。


 押し、崩し、怖がらせる。真壁のように測るのではなく、まず圧で潰しにくる兵法だ。だが卜伝は、前よりもそれを見ていた。


 重さはある。

 殺意も濃い。

 だが、押し潰すために前へ出るぶん、返しの瞬間に線が太くなる。


 卜伝はそこを待った。


 梶原の一太刀を受け流し、あえて半歩だけ深く引く。相手が“押した”と思って前へ重心を乗せた、その時に横へ入る。鹿島の理だけではない。水辺の戦いで覚えた、“相手の流れを半歩ずらして喉を塞ぐ”ような入りだ。


 梶原の目がわずかに見開く。


 昨日より来る。


 そう思った顔だった。


「っ!」


 卜伝の刃は梶原の肩先を浅く裂いた。深くはない。だが十分だ。梶原は舌打ちして身を返す。そこへ追い打ちをかけるか、一瞬卜伝は考えた。


 だが違う。


 ここで梶原を倒しにいけば、そのぶん箱と札への意識が外れる。


 卜伝は追わず、梶原と桟橋のあいだに立った。


「……そうか」

 梶原が低く笑う。

「今日はそっちか」

「今日は?」

「お前、昨日までは“俺を倒す顔”をしていた。今は違う」

「分かるか」

「分かる」

 梶原は肩の血を押さえながら言う。

「気に食わんがな」


 その返しに、卜伝は少しだけ息を整えた。


 自分の成長が、敵の目にすら見える。


 それは嬉しいことではない。だが、戦いの形が変わってきている証でもあった。


 その時、下流側で舟が大きく揺れた。


 道賢だ。


 小さな逃走舟の綱が、いつの間にか桟橋の杭と別の舟へ絡められている。解こうとする男たちの怒声。棹が空を切り、水が跳ねる。完全には止め切れていない。だが一艘が乱れたせいで、他の流れまで狂っている。


「坊主め……!」

 敵の誰かが吐き捨てる。


 道賢本人の姿はよく見えぬ。だが、見えぬまま一艘を足止めする、その胡散臭い有能さだけははっきりと分かった。


 小夜はそのあいだに札を抱え込み、さらに別の木箱の荷札まで外していた。宗兵衛から教わった舟印の違いを見切り、偽装された筋の札をことごとく止めているのだ。敵の手代が二人ほどそれを取り返そうとしたが、小夜は箱の陰へ回り込み、わざと札を泥へ落として読めなくしていた。


「読めなくなれば、今夜は流せないでしょ!」

 その叫びが、妙に痛快だった。


 敵は剣だけで動いているのではない。

 ならばこちらも剣だけで戦う必要はない。


 新九郎が正面を食い、小夜が札を止め、道賢が逃走舟を絡め、卜伝が流れの喉を断つ。

 四人の役割が、これほど綺麗に噛み合うのは初めてかもしれなかった。


 河口戦という広い戦場の中で、ようやく一行の旅の座がそのまま戦の形になっている。


「退け!」

 誰かが怒鳴る。

「積み替えは次だ! 今夜は捨てろ!」


 敵の側にも判断は早い。流れが断たれたと見れば、全部を守ろうとはしない。切れる部分を切り捨て、残るものだけを持って逃げる。それもまた真壁のやり方らしかった。


 梶原も、そこで完全に前へ出るのをやめた。


 卜伝を睨みつけたまま、じり、と半歩引く。昨日も思ったが、この男は押し潰す剣のくせに、退き際だけは妙に冷静だ。命を賭ける場ではないと見れば、汚くても退く。その判断力があるからこそ、真壁の配下として生き残っているのだろう。


「覚えたぞ」

 梶原が吐き捨てる。

「お前の剣の顔」

「お前もな」

 卜伝が返す。


 梶原の口元が少し歪んだ。笑いとも怒りともつかぬ顔だ。


 次の瞬間には、男は泥を蹴って下がり、退く流れへ紛れた。追えるかもしれない。だが今はまだ河口全体が動いている。箱を守り、札を押さえ、舟を乱した今、深追いして場を崩すべきではない。


 卜伝は追わなかった。


 代わりに、真壁本人の気配を探す。


 いるはずだ。

 梶原が言った。河口には真壁本人が来ると。

 ならば、この混乱をどこかで見ている。


 卜伝は桟橋の先、少し離れた乾いた土のほうへ目をやった。武家の使いらしき者たちが立っていたあたりだ。すでに半分は引いている。人足も散り始めている。だが、その地面にひとつだけ、不自然に残ったものがあった。


 細い足跡ではない。

 草履でも、百姓の足でもない。

 上等すぎぬが、きちんとした武家履きの跡。


 その脇に、泥に半ば埋もれた木片が落ちている。


 卜伝は近づき、それを拾った。


 木片は、ただの折れた札のように見えた。だが裏へ返すと、ごく浅く刻まれた印がある。真壁が宿場で残した木札の端にあったのと同じ系統の印だ。荷札ではない。もっと個人的な、持ち主しか使わぬような印。


「……来ていた」


 卜伝が低く言うと、小夜が駆け寄ってくる。


「何が?」

「これです」

 卜伝は木片を見せた。


 小夜は一目見て、すぐ表情を変えた。


「宿場で残した木札と同じ系統……」

「やはりか」

 道賢が後ろから言う。

「本人が近くまで来ておったな」

「姿は見えなかった」

 卜伝が言う。

「だが、確かにいた」

「届かなかったわね」

 小夜が静かに言う。

「ああ」

 卜伝は答えた。

「だが、流れは断った」


 新九郎が肩で息をしながら、湿地から戻ってきた。刀も裾も泥だらけだ。


「全部じゃねえが、だいぶ壊したぞ」

「ええ」

 小夜が言う。

「札の筋も何本か止めた」

「逃走舟も一艘は潰れた」

 道賢が付け足す。


 卜伝は木片を握りしめたまま、河口の流れを見た。


 真壁本人には、また届かなかった。

 だが、前とは違う。


 前は顔だけを見た。

 今度は、流れを断ったうえで、その近くまで来た痕跡を掴んだ。


 敵は大きい。

 だが、見えぬわけではない。


 河口の風は塩気を含み始めていた。川が海へほどける場所で、一行はようやく、真壁の流れそのものへ初めて刃を入れたのだと卜伝は感じていた。

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