第二十二話 河口前夜、旅の座が整う
川湊を離れて河口へ向かう道は、街道というより、水の縁をなぞる道だった。
大きな川筋から分かれた細い流れがいくつも走り、湿った草地がところどころに広がり、土の上を歩いているのに、足の下にはいつもどこか水の気配がある。風もまた、陸の風というより、水面を渡ってきた風だった。昼はぬるく、夕になるとひどく冷える。草の匂いに、泥と葦と、遠くの塩気が少しずつ混じり始める。
河口が近いのだと、小夜は言った。
川が海へほどける前は、風の匂いが変わるのだという。卜伝にはまだその違いを言葉にしきれなかったが、たしかに湊とも鹿島とも違う匂いがしていた。流れてくる水の匂いと、向こうから来る広いものの匂い。その二つが、夕方になるほど濃く混ざる。
その日の暮れ、一行は川辺の小さな庵に身を寄せた。
庵といっても、立派な寺社の末ではない。昔は川番か、渡し守か、あるいは行き倒れを看るためにでも使われていたような、粗末だが雨露をしのぐには十分な小屋だった。道賢が「あそこなら一晩くらいは借りられる」と言って案内したのである。草葺きの屋根は古く、壁も土が剥げているところがある。だが、四人が身を寄せるには足りた。
日が落ちると、周りは急に静かになった。
川湊のような怒鳴り声も、宿場のような人のざわめきもない。聞こえるのは、水の流れがどこかで枝を打つ音と、草を渡る夜風の擦れる音だけだ。時折、遠くで鳥が鳴く。それも陸の鳥の声とは少し違い、どこか湿って響いた。
火は小さく焚いた。
大きくすると目立つ。だが、まったく火を絶てば冷えが骨へくる。新九郎が器用に枯れ枝を組み、小夜が火打ちを手伝い、道賢は最初から自分は動かぬと決めている顔で胡坐をかいていた。卜伝はその火を見ながら、ようやく今日一日、体の奥で張っていたものが少しずつ緩むのを感じていた。
川湊では、立ち止まってもなお人の気配が追いかけてきた。
だがここには、それがない。
静かだ。
静かだからこそ、今まで胸の中で言葉になりきらなかったものが、少しずつ浮いてくる。
「珍しいわね」
小夜が小さく言った。
「何がです」
卜伝が問う。
小夜は火の向こうで頬杖をつきながら答える。
「誰もすぐに次の話をしないこと」
「悪いことか」
新九郎が口を挟む。
「別に悪くないわよ。ただ、いつもなら道賢殿あたりが“明日はどう動く”って先に言うでしょ」
「今夜は言わぬ」
道賢が即座に答えた。
「言わぬのですか」
卜伝が見ると、道賢は火の明かりに半分だけ顔を照らされながら、いかにも胡散臭い笑みを浮かべた。
「たまには、先を急がぬ夜もいる」
「坊主がそういうこと言うと、逆に怪しいな」
新九郎が言う。
「お前さんに怪しまれる筋合いはない」
「あるだろ。どうせ何か考えてんだ」
「考えておるさ」
「ほらな」
「だが今は言わぬ」
そう言われると、それ以上は誰も追わなかった。
火が小さく鳴る。
薪の先が赤く崩れ、ひとつ火の粉が上がって消えた。
しばらくそうしていると、やがて新九郎が大きく息を吐いた。
「……しかし、河口か」
「嫌?」
小夜が聞く。
「川が嫌なんだろ」
「そこは嫌だ」
「じゃあやめる?」
「やめねえよ」
新九郎は即答した。
「何で」
「今さらだろ。それに、ああいう嫌な野郎を好き勝手させとくほうが、川よりよっぽど気持ち悪い」
「真壁のこと?」
「他に誰がいる」
新九郎は鼻を鳴らした。
「強いとか弱いとかじゃねえんだよ。あいつは、人の嫌がるところをちゃんと分かってやってる。村なら村を脅す。宿なら火をかける。湊なら荷を名もねえものに変える。そういうやつを放っとくと、どこ行っても同じことが起きる」
「……」
「だから嫌なんだよ。嫌な野郎を好き勝手させたくない。それだけだ」
言い方は新九郎らしかった。乱暴で、飾り気がなくて、理屈が半分足りないようでいて、芯だけはまっすぐだ。
小夜は少し笑った。
「そういうところは嫌いじゃないわ」
「“ところは”って何だ」
「全部がいいとは言ってない」
「ひでえな」
「でも分かる」
小夜はそこで、少し顔を真面目にした。
「わたしも似たようなものだもの」
「似たような?」
卜伝が聞くと、小夜は火を見つめたまま言った。
「鹿島のものを、奪われたまま終われない」
「……」
「兵法書も箱もそう。でも、それだけじゃないの。あいつらは鹿島から物を取っただけじゃない。鹿島の“由来”とか“名”とか、そういうものまで勝手に持ち出して、自分の流れの中へ入れようとしてる」
「名を失わせる、か」
卜伝が低く言う。
小夜は頷いた。
「ええ。川湊で見たでしょう。荷札を変えて、舟印を変えて、何だったか分からなくして流していく。あれを許したら、鹿島から奪われたものは、ただ盗まれただけじゃなくなる」
「……」
「だから終われないの。わたしは剣は振れない。でも、鹿島のものをあのまま“どこの何でもない荷”にされて終わるのは嫌」
その声は強かった。
小夜はいつも口が立つ。押しも強い。だが今のそれは、ただの勢いではない。鹿島という土地の内側にいた者だからこそ持てる怒りがあった。神宮に近い家で育ち、由緒や名や伝えがどれほど重いものかを知っているからこそ、それが流れの中で削られていくことに耐えられないのだろう。
新九郎が火の向こうから、少しだけ感心したように言う。
「お嬢さん、あんたそういう時ほんとに強えな」
「何よ」
「いや、剣がなくても前に立つやつの顔だと思ってな」
「褒めてる?」
「半分は」
「また半分」
「こいつにうつったな」
新九郎はそう言って卜伝を顎でしゃくった。
卜伝は少しだけ目を伏せた。
自分は何のために進んでいるのか。
鹿島を出た時には、もっと単純だった気がする。奪われたものを追う。真壁の名へ届く。自分の剣がどこまで通じるか確かめる。そんなところだった。
だが今は、それだけではない。
真壁の剣は強い。そこに嘘はない。だからこそ、一度は「真壁を斬ること」が目的に近くなりかけた。あの男を越えねばならぬ。あの笑いを止めねばならぬ。そう思った。
だが、村を見て、宿の火を見て、川湊の流れを見て、少しずつ分かったことがある。
真壁を斬るだけでは足りない。
あの男を倒したところで、あのやり方がそのまま残るなら、結局また別の誰かが村を脅し、宿へ火をかけ、荷の名を奪う。
止めるべきは、真壁の剣だけではない。
真壁の“やり方”そのものだ。
卜伝は火をまっすぐ見た。
「私は」
声にすると、自分でも少し驚くほど静かだった。
「真壁を斬るためではなく、真壁のやり方を止めるために進む」
三人の視線が向く。
小夜は何も言わない。だが目は細くなった。
新九郎は少しだけ肩を上げる。
道賢だけが、面白そうでもなく、妙にまっすぐな目でこちらを見ていた。
「斬れれば、それで済む相手なら早い」
卜伝は続けた。
「だが、あいつは人も荷も道も使う。剣だけの敵ではない。なら、斬ることだけを考えていては届かない」
「……」
「だから、真壁そのものより先に、真壁の流れを止める。村でやったことも、宿でやったことも、湊でやったことも、たぶんその途中にある」
「ようやく、言葉になったわね」
小夜が言った。
卜伝は頷いた。
「たぶん」
「たぶん?」
「まだ全部ではない」
「でも、前よりずっといい」
小夜は言う。
「前は“斬れるか斬れないか”が先に立ってた」
「今は違う?」
新九郎が聞く。
「今は“何を止めるか”を見てる顔」
「ふうん」
新九郎は鼻を鳴らした。
「じゃあ、俺らもそれでいいな」
「何がです」
卜伝が問う。
「お前が止めたいものを見てるなら、俺はその前で殴る」
新九郎が言った。
「お嬢さんは口と目で流れを掴む。坊主は胡散臭いなりに先を嗅ぎつける」
「最後の言い方に悪意があるな」
道賢が言う。
「ないと思ってたの?」
小夜が返す。
「そこはあっていい」
新九郎も言う。
火を挟んで、小さな笑いが落ちた。
その笑いは大きくはない。だが、緊張ばかりで繋がっていたここまでの旅とは少し違う温度だった。何となく一緒にいるのではない。役目があり、見ているものがあり、それでも同じ先を向いているからこそ出る笑いだ。
道賢はその様子を見ながら、杖を横へ置き、珍しく少しだけ肩の力を抜いた。
「ようやく旅の座が整ったか」
小夜が顔を上げる。
「旅の座?」
「そうだ」
道賢は言った。
「連れ立って歩いておるだけでは、旅の一行とは言えぬ。誰が何を見るか、何のために歩くか、どこで口を揃えるか、それが腹へ落ちて初めて座が出来る」
「……」
「今までのお前さんらは、腕はあっても、まだ座が揃いきっておらなんだ」
「今は?」
卜伝が問う。
道賢は火の向こうの三人を順に見た。
「今は、少なくとも背中を預ける言葉が出来た」
「ずいぶん回りくどい褒め方ね」
小夜が言う。
「褒めておるのだよ」
「そうは聞こえない」
「聞こえぬなら、それはお前さんの耳のせいだ」
「絶対違うわ」
新九郎が笑い、卜伝も少しだけ口元を緩めた。
背中を預ける言葉。
たしかにそうかもしれぬ、と思った。
鹿島を出たばかりの頃は、ただそれぞれが同じ方角を向いていただけだった。小夜は押しが強く、新九郎は勝手に首を突っ込み、道賢は胡散臭かった。自分もまた、剣だけを頼りに前へ出ようとしていた。
だが今は違う。
小夜が何を守ろうとしているかを知っている。新九郎が何を嫌って前へ立つかを知っている。道賢が胡散臭いなりに何を見ているかも、少しは分かってきた。そして自分が何を止めたいのかも、ようやく言葉になった。
だからこそ、次の河口へ向かえる。
夜はさらに深まり、火は少しずつ小さくなった。
誰からともなく口数が減る。けれど、その沈黙は重くない。歩き疲れた身体が静けさへ馴染んでいくような、柔らかい沈黙だった。
卜伝は庵の外へ出て、少しだけ川辺へ目を向けた。
真っ暗ではない。水面の向こうに、ごく遠く、わずかな灯がある。河口へ近づくほど、川は広くなる。広くなるほど、向こう岸も、流れるものも、ひとつの目では見切れなくなるのだろう。
だが、その見切れぬ広さの向こうへ、真壁はいる。
そして明日、自分たちもそこへ行く。
「眠らないの?」
小夜が後ろから来て言った。
卜伝は振り返らずに答える。
「もう少しだけ」
「考えごと?」
「少し」
「また?」
「今度は、重い顔ではないと思います」
「それはどうかしら」
小夜は庵の柱へ軽く寄りかかった。
「でも、前よりはいい顔してる」
「褒めていますか」
「半分は」
「また半分ですか」
「残り半分は、まだ若いってこと」
「それはもう、師にも言われました」
「わたしも言う」
「厳しい」
「でも、その若さでここまで来たのも事実でしょう」
「……」
「だから、明日はもっと見なさい。真壁の流れも、自分の剣も」
そう言って、小夜は先に庵へ戻っていった。
卜伝は一人、水の気配を聞いた。
河口は、まだ見えぬ。
だが流れは確かにそこへ向かっている。
自分たちもまた、同じようにそこへ向かう。
やがて夜半を過ぎた頃、道賢がふと目を開けた。
「起きろ」
短い声だったが、新九郎はすぐ目を覚まし、小夜も体を起こした。卜伝はもともと浅くしか眠っていない。
「何です」
卜伝が問う。
道賢は庵の入口を顎でしゃくった。
「見るがよい」
四人は火を消し、庵の影から川下を見た。
闇の中を、複数の舟灯りがゆっくりと動いている。
一つではない。二つ、三つ。もっとか。遠くのため確かな数はまだ分からぬ。だが、あの灯りの動きはただの漁や夜渡しのそれではない。一定の間を取り、消えず、しかし目立ちすぎぬ明かり。河口へ向かう流れの灯だ。
小夜が小さく息を呑んだ。
「……あれが」
「たぶん」
卜伝が答える。
新九郎はまだ眠気の残る顔をしかめた。
「ほんとに夜でも動くんだな」
「夜だから動くのよ」
小夜が言う。
「名をなくす荷は、昼より夜に流れる」
道賢は何も言わなかった。
だが、その沈黙がいちばん多くを語っていた。
河口はもう近い。
そして真壁の流れも、そこで大きく息をしている。
卜伝は、その灯りをまっすぐ見た。
静かな夜の中で、四人の視線は同じ先を向いていた。




