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『剣聖・塚原卜伝 ――鹿島立ちの剣、戦国を渡る』  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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第二十一話 兵法者は二人いらぬ

 戸の向こうの気配は、桐生の時とは違っていた。


 静かではある。だが、その静けさは自分を消すためのものではない。刃を収めたままでも、いつでも前へ出られるように力を溜めている静けさだ。獣が草むらに伏せているのではなく、鎖を外されるのを待っている猛犬のような気配。


 卜伝は自然に腰を落とした。


 新九郎は一歩ずれて、宗兵衛と若い手代の前を塞ぐ位置へ移る。小夜は蔵番を押し下げるように壁際へ寄せた。道賢だけが、相変わらず胡散臭いほど動じぬ顔で戸を見ている。


「今は斬りに来たのではない、と言ったな」

 卜伝が声をかける。


 戸の向こうの男は、短く笑った。


「お前次第だ」


 好かぬ答えだ。


 卜伝はそのまま言う。


「名を名乗れ」

「名乗るほど安くはない、と言いたいところだが……桐生ではないと思っている顔だな」


 声と同時に、戸が外からわずかに押された。


 宗兵衛が息を呑む。


 蔵番の喉が鳴る。


 卜伝は自分で戸を開けた。半端に閉めたまま話を続けるほうが余計に鬱陶しい。


 外に立っていた男は、三十前後に見えた。


 背は卜伝より少し高い。着物は浪人らしい崩し方だが、荒れているわけではない。むしろ“荒く見せること”に慣れている身なりだった。肩幅はあり、腕も太い。桐生が細く研いだ刃のような男だとすれば、こちらは重い鉈だ。


 だが、ただ粗いだけではない。


 立ち方は明らかに兵法を知っている。重心が前に出ているようでいて、いつでも横へ切れる。右肩がわずかに前へ来ているのは、初手で相手を威圧する癖か。それとも殺気を隠す気が最初からないのか。


「梶原兵庫だ」

 男は言った。

「真壁様のもとで、人を黙らせる役をしている」

「黙らせる役」

 新九郎が鼻を鳴らす。

「ずいぶん分かりやすい自己紹介だな」

「お前のような顔つきの次男坊には、それくらいでちょうどいい」

「てめえ」


 新九郎が前へ出かけるのを、卜伝は手で制した。


 梶原兵庫。


 桐生とは違う。


 桐生は、こちらを量り、言葉で揺さぶり、宿場の裏で静かに刃を見せてきた。だがこの男は違う。最初から敵意を隠さない。隠さぬこと自体が兵法の一部だと思っている男だ。


 梶原の目が、卜伝へ据わる。


「お前か」

「何がだ」

「真壁様の眼を引いた鹿島の若造は」

「……」

「気に食わん」


 露骨だった。


 嫉妬と敵意を、隠そうともしない。


 宗兵衛が思わず身を縮める。小夜の目は逆に冷えた。新九郎は半ば呆れた顔になる。


「すげえな」

 新九郎が言う。

「そこまで真っ直ぐだと、逆に気持ちいいぞ」

「黙れ」

 梶原が低く吐く。

「お前は後ででいい」

「何だその言い草」

「今はそいつだ」


 視線が、もう一度卜伝を射る。


「鹿島の若造ごときが、真壁様の前に立つな」

「立つかどうかは、私が決める」

 卜伝が答える。

「違う」

 梶原は言った。

「決めるのは、切っ先だ」


 その言い回しで、卜伝は少しだけ理解した。


 この男は真壁に心酔している。真壁の理を自分の理として信じているのではない。真壁そのものを上に見ている。そして、そこへ近づく者、真壁の関心を引く者が気に食わないのだ。


 剣で従っている者の顔だった。


 真壁とは違う。


 真壁は自分の理で人を見ていた。こいつは、真壁の理を借りて人を切り分けている。


「用件は何だ」

 卜伝が問う。

「脅しなら聞かん」

「脅しではない」

 梶原は口元だけで笑った。

「見に来た」

「何を」

「お前の顔だ」


 桐生と似たことを言う。


 だが、意味は違う。


 桐生は“見極め”に来た。

 梶原は“気に食わぬものを確かめ”に来た。


「……見てどうする」

 卜伝が言う。

「気に食わぬなら斬るか」

「それも悪くない」

 梶原は答えた。

「ここでお前を転がせば、真壁様の手間も減る」

「言うじゃねえか」

 新九郎が言う。

「やるなら外でやれ。蔵の前でごちゃごちゃ言われるのは鬱陶しい」

「外でよい」

 梶原は卜伝から目を外さぬまま言った。

「来い」


 小夜がすぐ、低く言う。


「行くの?」

「短く済ませます」

 卜伝が答える。

「短くじゃ済まなかったら?」

「その時は止めてください」

「無茶なこと言うわね」

「今に始まったことではありません」


 小夜は何か言い返しかけたが、やめた。その代わりに、卜伝の袖を一瞬だけ掴む。


「勝つことだけ考えないで」

「分かっています」

「本当に?」

「前よりは」


 その返しに、小夜は不満そうな顔をしたが、少しだけ手を離すのが遅かった。


 蔵の外、細道は昼より暗かった。川面から返る光がかすかにあるだけで、土の湿りと蔵壁の白さが輪郭を作っている。広くはない。だが、二人が刃を交えるには足りる。新九郎と小夜、道賢、それに宗兵衛たちは木戸の内側に残った。


 梶原は刀を抜く前から、もう殺気を前へ押し出している。


 桐生のような“見せない兵法”ではない。最初から威圧し、押し、相手の守りを粗くする兵法だ。鹿島の稽古場で見てきたものとも違う。もっと実戦の泥を吸っている。


「来い」

 梶原が言う。

「お前がどれほどか見てやる」


 卜伝は返事の代わりに刀を抜いた。


 切っ先が夜気を裂く。


 その瞬間、梶原が踏み込んだ。


 速い、というより重い。


 最初の一歩から、相手に受けさせる気で来る踏み込みだ。受けさせ、押し込み、そこからさらに乱す。正面から勝つというより、相手の形を壊して勝つ剣。


 卜伝は刃を合わせた。


 重い。


 手元へ響く。


 だが真壁の刃とは違う。真壁の剣は、当たる前からこちらの中へ入り、どこで崩れるかを見ていた。梶原のそれは違う。まず崩す。まず乱す。まず怖がらせる。その上で押し切る。


「っ……!」

 卜伝は半歩外へずれた。


 受け切ると押し込まれる。ならば流す。だが梶原はそこも読んでいる。流した先へ二の太刀が低く来た。脛か。卜伝は刃を返し、下から払う。火花。土が散る。


「なるほどな」

 梶原が笑う。

「真壁様が見ると言うだけはある」

「……」

「だが、お前はまだ綺麗だ」


 その言葉とともに、三の太刀が来る。今度は斜めに雑だ。だが雑に見えて、相手に“ここで受けるしかない”と思わせる角度を選んでいる。兵法というより、殺しの匂いが強い。


 卜伝はそこでようやく、この男の“質”が分かった。


 真壁の剣は、理で縛る剣。

 桐生の剣は、測る剣。

 梶原の剣は、押し潰す剣。


 同じ配下でも、まるで違う。


 真壁一人を越えれば済む話ではないのだと、その事実が打ち合いの中ではっきりする。


 卜伝は一歩引き、そしてすぐに踏み返した。


 守るための剣を考え始めたとはいえ、ここで押し込まれて終わるわけにはいかない。梶原の重さをそのまま受けるのではなく、踏みの線を外し、横へ入る。鹿島の理に近い捌きだ。相手の力が前へ落ちる、その半瞬の隙へ切っ先を滑り込ませる。


 梶原の目が少し動く。


 手応えはある。


 だが、真壁ほどではない。


 梶原は理よりも勢いを信じる。だから勢いを外されると、一瞬だけ手元が粗くなる。粗いが、その粗さごと次を打ってくるのが厄介だ。


 卜伝は四合目で、あえて深く入らなかった。


 入れる。

 だが入れば、その次に噛みつかれる。


 ここで決めきれる相手ではない。そう体が判断した。


「逃げるか」

 梶原が吐く。

「違う」

 卜伝は低く返す。

「見た」

「何を」

「お前の剣の質だ」

「……!」


 その返しは、梶原を明らかに苛立たせた。


 新九郎が後ろで「言うじゃねえか」と笑った気配がする。小夜は笑っていないだろうが、止めにも入らない。卜伝がただ受けているのではなく、見分け始めていると感じたのかもしれない。


 梶原は一歩踏み込みかけ、そこで止まった。


 止まった、というより、自分で止めた。


 蔵の前だ。長引けば意味が薄い。こちらを量り、威圧し、真壁の名を伝える。それが役目なら、今ここで命を賭ける場所ではないと判断したのだろう。


 その判断は、粗い剣筋とは裏腹に冷えていた。


「気に食わん」

 梶原がもう一度言う。

「お前のような若造が、真壁様に見られているのが」

「嫉妬か」

 卜伝が言う。


 新九郎が思い切り吹き出した。


「おいおい、真っ直ぐ言うなあ」

「うるさい」

 梶原が唸る。

「……だが、そうだ。気に食わぬ。真壁様の前に立つに値するのは、もっと別の者だ」

「お前か」

「少なくとも、お前ではない」


 卜伝はそこで、逆に腹が静かになった。


 この男は強い。だが真壁とは違う。真壁のように相手の全体を見てはいない。自分の立ち位置と、真壁との距離だけを見ている。だから怒りも嫉妬も、あからさまに前へ出る。


 敵の兵法の“質”を見分ける。


 それが少し出来始めていることに、卜伝は自分で気づいた。


「帰れ」

 梶原が言う。

「河口へ行けば、今よりもっと嫌なものを見る」

「行く」

 卜伝は即答した。

「止められん」

「止めぬさ」

 梶原は口の端を歪めた。

「止める価値があるなら、真壁様ご本人がな」


 その言葉に、空気が一段だけ張りつめる。


 小夜の目が細くなる。


 道賢がわずかに顎を上げた。


 新九郎は「おい」と低く言った。


 梶原兵庫は、卜伝をまっすぐ見て、吐き捨てるように言った。


「河口には、真壁様ご本人が行かれる」


 そう言い残すと、梶原は刀を引き、闇へ半歩ずつ下がった。背を見せる逃げ方ではない。こちらが追えばすぐ迎えられる距離を保ちながら、しかし追わせぬように消えていく。粗い剣のわりに、退き際だけは汚くない。


 やがて足音も消えた。


 残ったのは、湿った夜気と、蔵壁に跳ね返る自分たちの荒い呼吸だけだった。


 新九郎が大きく息を吐く。


「何だあいつ。腹立つな」

「真っ直ぐでしょ」

 小夜が言う。

「嫌な方向に」

「桐生とは違う」

 卜伝が言った。


 三人が顔を向ける。


「どう違う?」

 小夜が問う。

「桐生は測る」

 卜伝は答えた。

「言葉で揺さぶり、反応を見て、間を読む。梶原は違う。押し潰しに来る。相手を崩して、そのまま怖がらせる剣だ」

「ほう」

 道賢が低く言う。

「見えるようになってきたか」

「少しだけです」

「それで十分だ」

 道賢は言った。

「敵の兵法にも質があると知れたなら、ただ“強いか弱いか”だけで斬り合う若造ではもうない」


 新九郎が肩を回しながら笑う。


「敵の品評会してる場合じゃねえけどな」

「でも大事よ」

 小夜が言う。

「真壁一人を越えれば終わる話じゃないって、今はっきりしたんだから」

「ええ」

 卜伝は頷いた。

「真壁の配下にも層がある。理で動く者、測る者、押し潰す者。それぞれ違う」

「そして全部、真壁の流れの中にいる」

 小夜が続ける。


 宗兵衛はその会話を黙って聞いていたが、やがて小さく言った。


「河口へ……本当に行かれるのですか」

「行く」

 卜伝は答えた。

「もう迷いませんか」

「迷う」

 卜伝は正直に言った。

「だが、迷うことと行かぬことは別だ」

「……」


 宗兵衛は少しだけ目を見開き、それから深く頭を下げた。


「なら、私も出来る限り印と流れを書き出します。河口へ下る舟筋で、怪しいものを」

「助かるわ」

 小夜が言う。


 蔵の前の夜は、さっきまでより少し深くなった気がした。


 だが卜伝の胸の中では、逆に視界が少し開けている。


 真壁は大きい。

 その配下も一様ではない。

 剣の質も、世渡りの質も、それぞれ違う。


 だからこそ、ただがむしゃらに前へ出るだけでは足りない。誰がどういう敵かを見分け、それでも越えていく必要がある。


 卜伝は刀を収めた。


 河口には、真壁本人が行く。


 その言葉は脅しであると同時に、確かな道標でもあった。


 行く先が、ようやく一つの顔を持ち始めていた。

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