第二十話 河口へ流れる名のない荷
夜の騒ぎがようやく収まった頃には、川湊の空気そのものが少し変わっていた。
蔵裏の舟着場には、濡れた板と踏み荒らされた泥が残り、水面には切れた縄の端がゆらゆらと浮いている。流れた荷は戻らない。だが、何がどのように流れたのか、その輪郭だけは昨夜よりはっきりした。
真壁は、川湊で荷を隠しているのではない。
川湊を、中継点にしている。
荷を一度ここへ落とし、名を変え、札を変え、別の舟印へ載せ替え、さらに先へ流す。その先が「北ではなく、東の河口」だと宗兵衛が明かしたことで、真壁のやり方はようやく「盗み」から「流通」へ形を変えて見え始めていた。
朝になっても宗兵衛の顔色はまだ悪かったが、その目つきには昨夜までと違うものがあった。怯えだけで固まっていた顔に、ようやく決めた者の色が混じっている。
「こちらです」
宗兵衛は、蔵の帳面と荷札を何枚か抱えて、卜伝たちを裏蔵の隅へ呼んだ。
「昨夜の荷に付いていた札と、うちを通った舟印です」
「舟印?」
卜伝が聞く。
宗兵衛は頷く。
「川の荷は、陸の荷札だけでは追いきれません。どの舟問屋の舟か、誰の手で河口へ下るか、そういう印もあるのです」
「昨日のうちに出しておけばよかったのに」
新九郎が言う。
「それが出来てりゃ、もっと早く動けただろ」
「……出来ませんでした」
宗兵衛は素直に認めた。
「そこまで口を開けば、うちだけでは済まなくなると思った」
「今は違うの?」
小夜が問う。
宗兵衛は一度、若い手代のほうへ目をやった。昨夜、人質にされた手代だ。首筋に浅い布を巻き、まだ青い顔をしているが、自分の足で立っている。
「今も怖いです」
宗兵衛は言った。
「ですが、ここまで来てまだ半分だけ黙っていても、結局は誰かが潰される」
「……」
「なら、せめて全部を見ている者に預けたい」
小夜が静かに頷いた。
「賢い判断よ」
「褒められるほどの胆はありません」
「胆がある人だけが正しいことをするわけじゃないわ」
小夜はそう言って、宗兵衛から札を受け取った。
荷札は木のものと紙のものが混ざっていた。宗兵衛は簡単な説明をしたが、卜伝にはその違いはまだ細かくは分からぬ。だが、小夜は見るなり顔つきを変えた。
「……やっぱり」
彼女が低く呟く。
「どうした」
新九郎が覗き込む。
「荷印と舟印が噛み合ってない」
「それがどういう意味だ」
卜伝が問う。
小夜は札を並べ直し、指先でそれぞれを示した。
「これは川湊に入る時の荷印。こっちは宗兵衛屋で一時置きした印。そしてこれが、今夜乗るはずだった舟の印」
「ふむ」
道賢が低く頷く。
「本来なら、ひとつの筋でつながるの」
小夜が続ける。
「でも、この舟印だけ明らかに別筋なのよ。表向きは、東の河口へ塩や干魚を流す小さな問屋筋に見せてる。でも、荷印の組み方はもっと上流の別の手」
「つまり?」
新九郎が言う。
「つまり、偽装よ」
小夜は言い切った。
「問屋筋をひとつ噛ませてる。真壁の荷だと分からないように、“別の商いの流れ”に見せて東の河口へ下ろすつもり」
宗兵衛が重々しく頷く。
「その問屋筋、表では小さい顔をしていますが、近ごろ妙に羽振りがいい」
「名前は」
卜伝が問う。
「表向きには橘屋です」
宗兵衛が答えた。
「大きな問屋ではありません。だからこそ、かえって目立たない」
道賢が鼻を鳴らす。
「小さい流れに大きいものを紛れ込ませる。いかにも真壁らしい」
「知ってる顔で言うなよ、坊主」
新九郎が言う。
「知っておるから言うておる」
「やっぱり腹立つな」
「今さらだ」
小夜は札をさらに見比べていた。彼女の目はもう、蔵の中ではなく、川筋の先を見ている顔だった。
「この舟印、東の河口に入る前に一度だけ支流へ寄るはず」
「分かるのか」
卜伝が問う。
「舟印の切り方で分かる。まっすぐ河口へ流す荷と、途中で見せ荷を積み替える荷では、使う印が少し違うの」
「……」
「つまり、真壁はただ流すだけじゃない。河口へ出す前に、また一度“名もなき荷”へ作り替えるつもり」
卜伝はその言葉に、静かな怒りを覚えた。
鹿島から奪われたもの。由緒ある品。兵法書。箱。そういうものが、一度は川湊で荷札を変えられ、さらに河口の手前でもう一度名を失う。最後には、どこの何とも知れぬ荷になるのだろう。そうやって跡を薄くし、人の記憶からも土地の名からも切り離していく。
真壁は、ただ奪っているだけではない。
奪ったものから、元の名を削り取っている。
「敵は剣より流れで逃げてる」
新九郎が吐き捨てるように言った。
その言い方が、妙に正確に聞こえた。
卜伝は頷く。
「そうだな」
「宿場じゃ火で逃げた。ここじゃ水で逃げる」
新九郎は腕を組んだ。
「真正面から立つと見せて、実際は横から抜けていく。気に食わねえやり方だ」
「でも、それが真壁の兵法でもあるんでしょうね」
小夜が言う。
「剣だけで人を圧すんじゃない。道と荷と人の口まで使って、自分が見えなくなるように流れる」
「兵法者、か」
卜伝は低く繰り返した。
鹿島を出る前、自分が思っていた兵法はもっと狭かった。
剣の理。間合い。呼吸。勝ち筋。
それらは今も兵法だ。だが真壁は、それだけで兵法を終わらせていない。人をどこへ立たせるか。誰に何を運ばせるか。どの問屋にどんな顔をさせるか。何を見せ、何を隠すか。そういう“世渡り”そのものが、真壁にとっては兵法の延長にあるのだろう。
剣の敵としてだけ見ていては足りぬ。
真壁は、世を渡るための手を何本も持っている。
卜伝はそのことを、ようやくはっきりと認めた。
「河口へ向かうしかないわね」
小夜が言った。
「ええ」
宗兵衛がすぐ答える。
「この舟印の筋を追うなら、東です」
「距離は?」
新九郎が問う。
「陸を行けば一日半。水を追えばもう少し早いですが、こちらは舟を持ちません」
「舟は嫌だ」
新九郎が即座に言う。
小夜が呆れる。
「そこだけは即答なのね」
「嫌なもんは嫌だ」
「でも場合によっては乗ることになるわよ」
「その時はその時だ」
「今から嫌そうなのに?」
「だからその時に嫌がる」
宗兵衛は、そのやり取りに少しだけ口元を緩めた。笑える場面ではない。けれど、こういう軽さがあるからこそ、張りつめた話を最後まで続けられるのだろう。
道賢は一度外へ出て、川筋の風を確かめるように立ったあと、戻ってきて言った。
「東へ向かう前に、湊で見ておくべきものがもうひとつある」
「何だ」
卜伝が問う。
「河口筋へ荷を流す者は、たいてい湊の外れの船着き場を使う。表の大きな荷場ではなく、半端に小さいところだ」
「目立たぬように、か」
「そうだ」
「なら、今のうちに見ておく?」
小夜が問う。
卜伝は少し考えた。
昨夜の襲撃で、敵は完全には退いていない。だがこちらも、次へ動く前に湊の中で最後に確かめるべきことがある。河口へ向かう荷が、どの顔でこの町を出るのか。どの規模で流れるのか。それを見ずに東へ向かえば、また川の上で名を失った荷を追うことになるかもしれない。
「見ておきたい」
卜伝が言う。
「敵の流れを、もう一段だけ」
「よし」
新九郎が肩を鳴らす。
「じゃあ、昼のうちに外れを見て、明日には東へ切るか」
「急ぎすぎても駄目よ」
小夜が言う。
「でも、遅すぎても向こうの思うつぼ」
「分かってるよ」
話がまとまりかけた、その時だった。
蔵の外、細道のほうで、乾いた足音がひとつ止まった。
宗兵衛がぴくりと肩を揺らす。蔵番が反射的に戸のほうを見た。新九郎はすぐに腰へ手をやる。卜伝も立ち上がった。
戸は閉まっている。だが人の気配がある。
こちらの話を盗み聞くには少しあからさまな、しかし逃げるにはすぐ動ける距離。
「誰だ」
新九郎が低く言う。
返事はすぐにはない。
だが次の瞬間、戸の向こうから静かな声がした。
「そう構えるな。今は斬りに来たのではない」
若い男の声だった。だが桐生のそれではない。もっと荒く、もっと刃を隠そうとしない声。
卜伝はその声を初めて聞いたはずなのに、妙な既視感を覚えた。
真壁の配下。
しかも、桐生とはまた別の兵法者。
小夜が宗兵衛をそっと下がらせる。
道賢は目を細めた。
新九郎は鼻を鳴らした。
卜伝だけが、一歩だけ前へ出る。
湊の流れを追う前に、真壁側の剣がまた一振り、こちらの前に姿を見せようとしていた。
だが卜伝の胸の内には、もう昨夜までとは少し違う冷えがあった。
剣だけの敵ではない。
それでも、剣を持つ者が道を塞ぐなら、そこもまた越えねばならない。




