第八章 元カノ
駅前の、小さなカフェだった。
昼を少し過ぎた時間で、店内は半分ほど埋まっている。
ランチの皿を下げる音と、ミルクを泡立てる蒸気音が、ときどき重なった。窓際の席には、ベビーカーが一台置かれている。
その隣に、女性が座っていた。
髪は肩の少し下で切りそろえられ、淡い色のコートの襟元には、小さな毛玉がひとつだけ見えた。
テーブルには、飲みかけのカフェラテ。表面の泡は少し沈んで、カップの縁に薄く跡を残している。
ベビーカーの中では、小さな子どもが静かに眠っていた。
毛布の端から出た手は、まだ何も掴まない形のままだった。
「すみません。お待たせしました」
俺が言うと、女性は軽く首を振った。
「いえ。ちょうど寝たところなので」
声は穏やかだった。
緊張はしている。だが、怯えてはいない。
何か大きな秘密を抱えている人間の顔ではなく、昔の知人について突然警察に呼ばれた人間の顔だった。
「岡田佑美さんですね」
斎木が名刺を差し出す。
「はい」
彼女はそれを一度見て、小さく頷いた。
「警察の方……ですよね」
「中山悠太さんの件で」
斎木が言う。
岡田は、ほんの少しだけ視線を落とした。
カフェラテの泡の跡を見ているようでもあり、もっと遠いものを見ているようでもあった。
「……事件なんですか?」
それ以上は聞かなかった。
聞いたところで、ここで答えが返ってくる相手ではないと分かっている。
そういう顔だった。
俺たちは席に着いた。
隣のテーブルでは、若い男がノートパソコンを開いたまま、冷めたコーヒーに手を伸ばしている。
奥の席では、母親らしい二人組が小声で保育園の話をしていた。
そのどれもが、この場の会話と無関係な日常の音だった。
「今日は、中山さんとの交際について少し伺えればと思っています」
斎木がメモ帳を開きながら言う。
岡田はベビーカーの方を一度だけ見てから、こちらへ向き直った。
「もう、だいぶ前ですけど」
「いつ頃まで付き合っていましたか」
「四年くらい前ですね」
あっさりした答え方だった。
記憶を隠すでもなく、引きずるでもない。時間がちゃんと過ぎた人間の言い方だ。
「別れた理由は」
岡田は、そこで少しだけ困ったように笑った。
「理由……」
視線が窓の外へ流れる。
駅前の横断歩道を、買い物袋を提げた老人がゆっくり渡っていた。
「特にないです」
斎木が手を止める。
「特にない?」
「はい」
彼女は肩をすくめた。
「社会人になって、忙しくなって」
そこで、カップを指先で少し回す。
「会う回数も減って」
「連絡も少しずつ減って」
一度、言葉が途切れた。
ベビーカーの中で、子どもが小さく鼻を鳴らす。岡田は反射的にそちらを見て、それから戻ってきた。
「気づいたら、終わってました」
その言い方は、投げやりではなかった。
かといって、未練があるわけでもない。
説明のつく理由がないまま、関係だけが少しずつ日常の外へ押し出されていった。
そういう種類の終わりだった。
「どちらから別れを切り出したわけでもない?」
「ないです」
即答だった。
「ケンカとか」
「それもないです」
岡田は、また少し笑った。
「だから逆に、説明しづらいんです」
その笑い方が、かえって自然だった。
激しく壊れた関係ではなく、どちらも手を離した覚えがないまま、間に何もなくなった関係。
そういう終わり方は、実際にある。
「中山さんは、どんな人でしたか」
俺が聞く。
岡田はすぐには答えなかった。
ひどく慎重に記憶を探る、というより、古い引き出しを開けて、まだ使える言葉を選んでいるようだった。
「優しい人ですよ」
少し考えてから、彼女は言った。
「怒らないし、穏やかだし。話してて疲れないし」
それは、ここまでの証言とほとんど同じだった。
「ただ」
彼女は少しだけ言葉を探した。
「自分から何かを決める人ではなかったですね」
俺は黙って聞いた。
「アプローチしたのも、どちらかというと私からでしたし」
「告白はしてくれましたけど……」
そこで一瞬、口元にだけ曖昧な笑みが浮かぶ。
「流れの中で、って感じでした」
“好きだから始まった”というより、
“始まる位置まで来ていたから始まった”。
そんな言い方だった。
「それは、不満でしたか」
斎木が聞くと、岡田は少し驚いたように目を上げた。
「ああ……いえ。不満というほどでは」
少し間を置く。
「でも、たまに、自分だけが決めてるみたいな気はしました」
「自分だけが」
「はい」
カップの縁に、彼女の指先が軽く触れる。
「今日は会うのか、会わないのか。旅行に行くのか、行かないのか。将来の話をするのか、しないのか」
小さく息を吐く。
「中山くんは、どちらでもいい、みたいな顔をするんです。優しいんですけどね。怒らないし、否定もしない。でも、そういうのって……」
そこで、言葉が少し濁った。
「疲れますよね」
それは中山を責める声ではなかった。
ただ、昔は言えなかったことを、今なら少しだけ言えるという声だった。
「川原綾乃さんの話は聞いていましたか」
俺が聞くと、岡田は首をかしげた。
「天文ボランティアの方です」
「ああ」
小さく納得したような声が出る。
「聞いていました」
「どういう形で」
彼女はカップを持ち上げた。
飲むのかと思ったが、口はつけず、そのまままた置いた。
「面白い人がいるって」
「よく話してました」
俺は黙ったまま、その先を待った。
「理屈っぽくて、情熱的で、変わった人だって」
「それに」
少しだけ目を細める。
「話してるとき、ちょっと楽しそうでした」
その言葉だけが、静かに残った。
「中山さんが?」
「はい」
岡田は頷いた。
「その頃にはもう、私たち、ほとんど会ってなかったので」
少し間を置く。
「だから、ああ、この人、もう別の人を見てるんだなって」
それは、責める言い方ではなかった。
ただ、あったことをそのまま置く声だった。
「それで終わった感じです」
ベビーカーの中で、子どもが小さく動いた。
岡田はそっと身を乗り出して、毛布を直す。袖口から見えた手首には、細い輪ゴムがひとつ巻かれていた。たぶん、髪を結ぶためのものだろう。
その仕草が終わるまで、俺たちは何も言わなかった。
「……でも」
彼女が顔を上げる。
「中山さんは、悪い人じゃないと思います」
俺は返事をしなかった。
「ただ」
岡田は少し視線を泳がせた。
「何ていうんでしょうね……」
小さく息をつく。
「掴みどころがない、って感じでした」
店の奥でカップが重なる音がした。
店員が「失礼します」と言って、隣のテーブルの皿を下げていく。トレーの上でフォークが小さく鳴った。
そのとき、俺のスマートフォンが震えた。
画面を見る。
鑑識からだった。
眉をひそめたのを見て、斎木がこちらを見る。
「どうしました」
俺は画面を斎木へ向けた。
川原のスマートウォッチから
死亡推定時刻が判明
22時04分
斎木の目が、一瞬だけ止まる。
岡田も何かを察したのか、こちらを見た。
だが、何も聞かなかった。
店の窓から、冬の光が白く差し込んでいた。
*
俺たちは岡田に礼を言い、店を出た。
外へ出ると、風が頬に当たる。
昼の明るさはまだ残っているのに、空気だけが先に冷えている。
駅前の通りを歩きながら、斎木が手帳を閉じた。
「……普通の恋愛でしたね」
俺は何も言わなかった。
「自然消滅」
斎木が続ける。
「よくある話です」
少し考えてから、言葉を足す。
「遠藤さんが気にしてるところ、正直まだよく分からないです」
「そうか」
それだけ答える。
歩道の向こうで、信号が変わる。
人の流れがゆっくり動き出す。どこかの店から、焼いたパンの匂いが薄く流れてきた。
「でも、タイミングですよね」
斎木が言った。
「何が」
「恋愛です」
斎木は肩をすくめる。
「さっきの岡田さん、今は普通に家庭持ってましたけど」
「中山と出会うタイミングが違えば、あの人と結婚してたかもしれない」
俺は、そこで少し足を緩めた。
タイミング。
頭の中で、その言葉だけが残る。
時間。
そして、さっき届いた数字。
──22時04分。
「……斎木」
「はい?」
「中山は、いつから川原を好きになったんだ」
斎木は少し考えた。
「小説の中だと……」
手帳をめくる。
「体験教室のときじゃないですか」
「子ども向けの天文教室」
「川原さんの説明がすごかったって」
俺は歩き出した。
「それより前じゃないのか」
「え?」
「岡田は言ってた」
俺は前を見たまま言う。
「川原の話を、楽しそうにしてたって」
斎木は数秒、黙った。
「……あ」
だが、その声は小さい。
何かを掴んだというより、言われて初めて段差に気づいた人間の声だった。
俺は続ける。
「その時点で、まだ岡田とは完全には終わってない」
「はい」
「なのに、川原の話をしてる」
信号が変わり、人の流れが横断歩道へ流れ込む。
俺たちはその流れの端に乗った。
「小説の順番と、違うかもしれん」
斎木はまだ首をかしげていた。
「でも……小説って、多少並べ替えたりはするんじゃないですか」
「する」
「じゃあ、そこまで変ですか?」
俺はすぐには答えなかった。
駅前の大型ビジョンから、明るい広告の音楽が流れている。
笑顔のタレントが、何か新しいキャンペーンを告知していた。
音だけが妙に軽い。
「署に戻るぞ」
俺が言うと、斎木が顔を上げた。
「はい?」
「小説をもう一度読む」
「今度は感情じゃない」
少し間を置く。
「時間で見る」
斎木はまだ納得していない顔だったが、頷いた。
「……分かりました」
それ以上は何も言わなかった。
駅へ向かう人の流れとは逆に、俺たちは歩き出す。
さっきの岡田の言葉が、まだ頭の奥に残っている。
──ああ、この人、もう別の人の方を見てるんだな
それは自然な別れの言葉にも聞こえる。
だが、もしそうなら、中山の小説の“始まり方”は少しだけ都合がいい。
静かに惹かれた男。
傷ついて待った男。
迎えに来られた男。
その違和感が、まだ言葉にならないまま、胸の中に残っていた。




