表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/13

第八章 元カノ

駅前の、小さなカフェだった。


昼を少し過ぎた時間で、店内は半分ほど埋まっている。

ランチの皿を下げる音と、ミルクを泡立てる蒸気音が、ときどき重なった。窓際の席には、ベビーカーが一台置かれている。


その隣に、女性が座っていた。


髪は肩の少し下で切りそろえられ、淡い色のコートの襟元には、小さな毛玉がひとつだけ見えた。

テーブルには、飲みかけのカフェラテ。表面の泡は少し沈んで、カップの縁に薄く跡を残している。


ベビーカーの中では、小さな子どもが静かに眠っていた。

毛布の端から出た手は、まだ何も掴まない形のままだった。


「すみません。お待たせしました」


俺が言うと、女性は軽く首を振った。


「いえ。ちょうど寝たところなので」


声は穏やかだった。

緊張はしている。だが、怯えてはいない。


何か大きな秘密を抱えている人間の顔ではなく、昔の知人について突然警察に呼ばれた人間の顔だった。


「岡田佑美さんですね」


斎木が名刺を差し出す。


「はい」


彼女はそれを一度見て、小さく頷いた。


「警察の方……ですよね」


「中山悠太さんの件で」


斎木が言う。


岡田は、ほんの少しだけ視線を落とした。

カフェラテの泡の跡を見ているようでもあり、もっと遠いものを見ているようでもあった。


「……事件なんですか?」


それ以上は聞かなかった。


聞いたところで、ここで答えが返ってくる相手ではないと分かっている。

そういう顔だった。


俺たちは席に着いた。


隣のテーブルでは、若い男がノートパソコンを開いたまま、冷めたコーヒーに手を伸ばしている。

奥の席では、母親らしい二人組が小声で保育園の話をしていた。


そのどれもが、この場の会話と無関係な日常の音だった。


「今日は、中山さんとの交際について少し伺えればと思っています」


斎木がメモ帳を開きながら言う。


岡田はベビーカーの方を一度だけ見てから、こちらへ向き直った。


「もう、だいぶ前ですけど」


「いつ頃まで付き合っていましたか」


「四年くらい前ですね」


あっさりした答え方だった。

記憶を隠すでもなく、引きずるでもない。時間がちゃんと過ぎた人間の言い方だ。


「別れた理由は」


岡田は、そこで少しだけ困ったように笑った。


「理由……」


視線が窓の外へ流れる。

駅前の横断歩道を、買い物袋を提げた老人がゆっくり渡っていた。


「特にないです」


斎木が手を止める。


「特にない?」


「はい」


彼女は肩をすくめた。


「社会人になって、忙しくなって」


そこで、カップを指先で少し回す。


「会う回数も減って」


「連絡も少しずつ減って」


一度、言葉が途切れた。

ベビーカーの中で、子どもが小さく鼻を鳴らす。岡田は反射的にそちらを見て、それから戻ってきた。


「気づいたら、終わってました」


その言い方は、投げやりではなかった。

かといって、未練があるわけでもない。


説明のつく理由がないまま、関係だけが少しずつ日常の外へ押し出されていった。

そういう種類の終わりだった。


「どちらから別れを切り出したわけでもない?」


「ないです」


即答だった。


「ケンカとか」


「それもないです」


岡田は、また少し笑った。


「だから逆に、説明しづらいんです」


その笑い方が、かえって自然だった。


激しく壊れた関係ではなく、どちらも手を離した覚えがないまま、間に何もなくなった関係。

そういう終わり方は、実際にある。


「中山さんは、どんな人でしたか」


俺が聞く。


岡田はすぐには答えなかった。

ひどく慎重に記憶を探る、というより、古い引き出しを開けて、まだ使える言葉を選んでいるようだった。


「優しい人ですよ」


少し考えてから、彼女は言った。


「怒らないし、穏やかだし。話してて疲れないし」


それは、ここまでの証言とほとんど同じだった。


「ただ」


彼女は少しだけ言葉を探した。


「自分から何かを決める人ではなかったですね」


俺は黙って聞いた。


「アプローチしたのも、どちらかというと私からでしたし」


「告白はしてくれましたけど……」


そこで一瞬、口元にだけ曖昧な笑みが浮かぶ。


「流れの中で、って感じでした」


“好きだから始まった”というより、

“始まる位置まで来ていたから始まった”。


そんな言い方だった。


「それは、不満でしたか」


斎木が聞くと、岡田は少し驚いたように目を上げた。


「ああ……いえ。不満というほどでは」


少し間を置く。


「でも、たまに、自分だけが決めてるみたいな気はしました」


「自分だけが」


「はい」


カップの縁に、彼女の指先が軽く触れる。


「今日は会うのか、会わないのか。旅行に行くのか、行かないのか。将来の話をするのか、しないのか」


小さく息を吐く。


「中山くんは、どちらでもいい、みたいな顔をするんです。優しいんですけどね。怒らないし、否定もしない。でも、そういうのって……」


そこで、言葉が少し濁った。


「疲れますよね」


それは中山を責める声ではなかった。

ただ、昔は言えなかったことを、今なら少しだけ言えるという声だった。


「川原綾乃さんの話は聞いていましたか」


俺が聞くと、岡田は首をかしげた。


「天文ボランティアの方です」


「ああ」


小さく納得したような声が出る。


「聞いていました」


「どういう形で」


彼女はカップを持ち上げた。

飲むのかと思ったが、口はつけず、そのまままた置いた。


「面白い人がいるって」


「よく話してました」


俺は黙ったまま、その先を待った。


「理屈っぽくて、情熱的で、変わった人だって」


「それに」


少しだけ目を細める。


「話してるとき、ちょっと楽しそうでした」


その言葉だけが、静かに残った。


「中山さんが?」


「はい」


岡田は頷いた。


「その頃にはもう、私たち、ほとんど会ってなかったので」


少し間を置く。


「だから、ああ、この人、もう別の人を見てるんだなって」


それは、責める言い方ではなかった。


ただ、あったことをそのまま置く声だった。


「それで終わった感じです」


ベビーカーの中で、子どもが小さく動いた。

岡田はそっと身を乗り出して、毛布を直す。袖口から見えた手首には、細い輪ゴムがひとつ巻かれていた。たぶん、髪を結ぶためのものだろう。


その仕草が終わるまで、俺たちは何も言わなかった。


「……でも」


彼女が顔を上げる。


「中山さんは、悪い人じゃないと思います」


俺は返事をしなかった。


「ただ」


岡田は少し視線を泳がせた。


「何ていうんでしょうね……」


小さく息をつく。


「掴みどころがない、って感じでした」


店の奥でカップが重なる音がした。

店員が「失礼します」と言って、隣のテーブルの皿を下げていく。トレーの上でフォークが小さく鳴った。


そのとき、俺のスマートフォンが震えた。


画面を見る。

鑑識からだった。


眉をひそめたのを見て、斎木がこちらを見る。


「どうしました」


俺は画面を斎木へ向けた。


川原のスマートウォッチから

死亡推定時刻が判明

22時04分


斎木の目が、一瞬だけ止まる。


岡田も何かを察したのか、こちらを見た。

だが、何も聞かなかった。


店の窓から、冬の光が白く差し込んでいた。



俺たちは岡田に礼を言い、店を出た。


外へ出ると、風が頬に当たる。

昼の明るさはまだ残っているのに、空気だけが先に冷えている。


駅前の通りを歩きながら、斎木が手帳を閉じた。


「……普通の恋愛でしたね」


俺は何も言わなかった。


「自然消滅」


斎木が続ける。


「よくある話です」


少し考えてから、言葉を足す。


「遠藤さんが気にしてるところ、正直まだよく分からないです」


「そうか」


それだけ答える。


歩道の向こうで、信号が変わる。

人の流れがゆっくり動き出す。どこかの店から、焼いたパンの匂いが薄く流れてきた。


「でも、タイミングですよね」


斎木が言った。


「何が」


「恋愛です」


斎木は肩をすくめる。


「さっきの岡田さん、今は普通に家庭持ってましたけど」


「中山と出会うタイミングが違えば、あの人と結婚してたかもしれない」


俺は、そこで少し足を緩めた。


タイミング。


頭の中で、その言葉だけが残る。


時間。


そして、さっき届いた数字。


──22時04分。


「……斎木」


「はい?」


「中山は、いつから川原を好きになったんだ」


斎木は少し考えた。


「小説の中だと……」


手帳をめくる。


「体験教室のときじゃないですか」


「子ども向けの天文教室」


「川原さんの説明がすごかったって」


俺は歩き出した。


「それより前じゃないのか」


「え?」


「岡田は言ってた」


俺は前を見たまま言う。


「川原の話を、楽しそうにしてたって」


斎木は数秒、黙った。


「……あ」


だが、その声は小さい。

何かを掴んだというより、言われて初めて段差に気づいた人間の声だった。


俺は続ける。


「その時点で、まだ岡田とは完全には終わってない」


「はい」


「なのに、川原の話をしてる」


信号が変わり、人の流れが横断歩道へ流れ込む。

俺たちはその流れの端に乗った。


「小説の順番と、違うかもしれん」


斎木はまだ首をかしげていた。


「でも……小説って、多少並べ替えたりはするんじゃないですか」


「する」


「じゃあ、そこまで変ですか?」


俺はすぐには答えなかった。


駅前の大型ビジョンから、明るい広告の音楽が流れている。

笑顔のタレントが、何か新しいキャンペーンを告知していた。


音だけが妙に軽い。


「署に戻るぞ」


俺が言うと、斎木が顔を上げた。


「はい?」


「小説をもう一度読む」


「今度は感情じゃない」


少し間を置く。


「時間で見る」


斎木はまだ納得していない顔だったが、頷いた。


「……分かりました」


それ以上は何も言わなかった。


駅へ向かう人の流れとは逆に、俺たちは歩き出す。


さっきの岡田の言葉が、まだ頭の奥に残っている。


──ああ、この人、もう別の人の方を見てるんだな


それは自然な別れの言葉にも聞こえる。


だが、もしそうなら、中山の小説の“始まり方”は少しだけ都合がいい。


静かに惹かれた男。

傷ついて待った男。

迎えに来られた男。


その違和感が、まだ言葉にならないまま、胸の中に残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ