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第九章 時間

署に戻ったとき、外はもう暗くなっていた。


玄関の自動ドアが閉まる音のあと、廊下の奥からコピー機の駆動音が遅れて響いてくる。蛍光灯の白い光は均一で、床のワックスだけがぼんやりとそれを反射していた。昼間までのざわつきは少し薄れ、代わりに、残業組だけが持つ独特の静けさが署の中を満たしている。


捜査室の片隅で、斎木はすでにノートパソコンを開いていた。


机の上には、


* 中山悠太の投稿小説

* 川原綾乃の投稿小説

* その続編

* 岡田佑美の聴取メモ

* スマートウォッチの時刻データ


が、ばらばらにではなく、妙に几帳面に並べられている。


「早いな」


俺がジャケットを背もたれに掛けると、斎木は画面から目を離さずに答えた。


「忘れないうちに並べとこうと思って」


「感想は?」


「……まだです」


そこでようやく振り向く。


「さっきまでは、“普通の恋愛”にしか見えなかったんですけど」


「けど?」


「元カノの話が入ったら、急に順番が気になってきました」


俺は小さく頷いた。


その感覚で正しい。


たぶん、今ここで読むべきなのは感情じゃない。


好きだの、優しいだの、可愛いだの。そういう言葉は、小説の中でいくらでも形を変える。しかも、この二人はどちらも書く側の人間だった。感情は、いくらでも自分の都合のいい温度に調整できる。


だが、時間だけは違う。


誰が、いつ、何を知っていたか──


俺は椅子を引いて腰を下ろした。


「斎木」


「はい」


「今から感情は捨てろ」


彼が少しだけ目を瞬かせる。


「感情、ですか」


「恋愛小説として読むな。報告書だと思って読め」


机の上の紙束を指先で揃える。


「誰が、いつ、何を知っていたか。それだけを拾う」


斎木は、数秒だけ俺の顔を見て、それから静かに頷いた。


「……了解です」



最初にホワイトボードを持ってきたのは斎木だった。


会議室の隅から、小型のやつを引きずるように持ってくる。キャスターが少し引っかかり、床に低い音を立てた。


「そこまでやるか」


「文字にしないと、たぶん混ざるんで」


ペンを差し込みながら言う。


「二人とも小説にしてるせいで」


たしかに、その通りだった。


書かれたものを読むというのは、読んだ瞬間に“まとまり”へ引っ張られることでもある。起承転結、因果、感情の波。小説の形にされた時点で、現実のごたごたした時間は自然に“意味”へ整理される。


その整理を、いったん壊さなければならない。


斎木が、ホワイトボードの左上に日付代わりの大きな円を書いた。


「事件当時」


その下に、


川原 35

中山 28


と書く。


「交際三年だから……」


「開始時は、川原三十二前後。中山二十五前後だな」


俺が言うと、斎木がそのまま書き足す。


「で、その一年前のクリスマスが、付き合う前の決定的イベント」


「川原三十一、中山二十四」


白い板の上に、数字だけが並んでいく。


斎木が少し離れて眺めた。


「……こうして見ると、やっぱり年齢差ありますね」


「七つ差だ」


「数字だけなら大したことない気もしますけど」


「二十四と三十一なら、話は別だ」


斎木が振り向く。


「そこ、そんなに重要ですか」


俺はすぐには答えず、綾乃の小説の一節を開いた。


『選ぶって何か』

『私には伝わってこない』

『私は、選ばれない側でいるつもりだったのに』


そこにある言葉を、年齢ごと切り離して読むことはできない。


「二十四の一年と、三十一の一年は違う」


斎木は黙った。


「しかも、迎えに行った側の一年だ」


その一言だけで、斎木の目の色が少し変わる。


彼はそれ以上言わず、今度はホワイトボードの真ん中あたりに新しく見出しを書いた。


──元交際相手


「岡田さんとは四年前くらいまで、でしたよね」


「ああ。喧嘩も別れ話もなく、自然消滅」


「でもその頃には、川原さんの話をしてる」


「楽しそうに、な」


斎木は、元交際相手の欄の横に矢印を引き、


岡田と継続中

 ↓

川原の話をする


と書き込んだ。


「……これ、小説の順番と違いますね」


「そうだな」


「中山の小説だと、川原に本格的に惹かれていくのは、もっと後に見えます」


俺は頷いた。


そこだった。


「自然に見えるように、並べてるんだ」


斎木の手が止まる。


「自然……」


「気づいたら惹かれていた男のほうが、誠実に見える」


机の上の中山小説を引き寄せて、何ページかめくる。


最初のほうは、あくまで団体活動の描写として書かれている。資料を閉じる音、早く来た会議室、代表として動く川原、少し距離のある観察。文体は柔らかく、控えめで、いかにも“静かに惹かれていく男”のものだ。


だが、そこにある視線は、冷静に抜き出すと少し違う。


「……ほら」


俺は中山小説の冒頭寄りの箇所を指した。


「定例会のたびに早く来てる。川原が来るより先に」


「ええ」


「しかも、来た瞬間の描写が細かい」


肩の髪、机の資料、声の強さ。

団体全体のことより、川原の入室にピントが合っている。


斎木も同じ箇所を追う。


「でも、これは……気になる相手なら、そういう描写になるんじゃないですか」


「なる。問題は“いつから”かだ」


俺は言った。


「川原の小説では、中山は始めからずっと彼女の話を聞いていた」


「じゃあ」


「見てたんだよ。もっと前から」


斎木の視線が戻る。


「最初から?」


「告白の場面で中山が言っていたろ。初めから見ていたって」


「……なるほど」


ホワイトボードに、新しく一本線を引く。


出会い初期

 ↓

すでに川原を対象として見ている


斎木が、それをじっと見つめた。


「どうした」


「いや。なんか、急に小説の手触りが変わりました」


斎木が小さく息をつく。


「前は、静かで不器用な男が、情熱的な年上女性に少しずつ惹かれていく話だと思ってたんです。でも今は……」


「今は?」


「最初から川原さんを見てる男が、“自然に惹かれた”みたいな書き方をしてるように見える」


俺は黙って頷いた。



次に俺たちが止まったのは、クリスマスイブの場面だった。


ホワイトボードの右半分に、斎木が大きく書く。


クリスマスイブ


その下に、


* 中山 元交際相手との約束の場所へ行く

* 川原 海浜公園へ迎えに行く


と箇条書きが並ぶ。


「ん?なんか変ですね」


斎木が言った。


「何がだ」


「川原さん、どうやってその情報を知ったんですか」


「そこだ」


俺は椅子から少し身を乗り出した。


川原の小説では、彼女は“推理”して海浜公園の東エリアへ向かうように書かれている。だが実際には、推理で埋まるのは場所の枝分かれまでだ。


そもそも、


* その日行くこと

* 元交際相手との昔の約束であること

* 時間帯

* 公園

* しかも来ないだろうが自分は行くこと


こうした前提を、川原は知っていなければならない。


偶然ではない。

察しただけでもない。


「中山から聞いてる」


俺が言うと、斎木は静かに頷いた。


「ですよね」


「しかも、かなり具体的にな」


俺は中山小説の該当場面に目を落とす。


『今日、クリスマスイブだぞ』

『約束は夜ですし』

『公園に行くのか?』

『……まあ』


川原が約束のことを話しても、中山は驚かない。


「もし本当に、川原さんが気を使って調べたなら」


斎木が言葉を継ぐ。


「中山はもっと驚くはずです」


「ああ」


「少なくとも、なんで知ってるんですか、くらいは言いそうですよね」


「そうだな」


「だが、そうはならない」


ホワイトボードの前に立って、俺は一本、太い線を引いた。


中山は川原に“来られる条件”を与えている


「……呼んだんですかね」


斎木がそう言ったとき、俺は少し考えた。


「いや」


「違う?」


「海浜公園のシーン、中山は川原が来た時に"どうして"と聞いている。つまり……」


ペン先でその下にもう一行書く。


『呼んではいない。だが、来られるようにしている。』


斎木が、その文字列を黙って読む。


「来てくれとも言わない」


俺は続けた。


「頼みもしない。だが、来なければ川原は"好きな男を見捨てた女"になる」


「……行けば?」


「元カノとの未練の場所へ、自分から来た女になる」


白い板の上の文字が、静かに固まっていく。


斎木が口を開くまで、数秒かかった。


「……それ、かなり嫌ですね」


「ロマンチックじゃないだろ」


「全然」


斎木は苦笑もせずに言った。


「今まであの場面、ちょっと綺麗に読んでました」


「そう読めるように、二人とも文体を整えてる」


川原のラノベ文体は感情を前面に出す。

中山の文体は静かな観察に変える。

その結果、あの夜の残酷な構図は“すれ違いの記憶”として丸められる。


だが、順番だけを抜けば見える。


あの夜、主体を取っていないのは中山だ。

だが、傷つく役を引き受けているのは川原の方だ。


俺は板書にさらに書き足した。


『クリスマスイブ=川原が主体を負わされた最初の決定的場面』



会議室の外で、誰かが紙コップを潰すような音がした。


それが遠のいてから、斎木がぽつりと言った。


「でも、それでも結局、付き合ったんですよね」


「ああ」


「川原さんは、そこまでして迎えに行って、そのあと一年、待った」


「待っただけじゃない」


俺は川原の小説を開いた。


『選ぶって何か』

『私には伝わってこない』

『忘れてくれ』


企画を作るのも、空気を読むのも、気持ちを探るのも、ほとんど川原の側だ。


「動かしてるのは川原だ」


斎木がメモを見ながら言う。


「観望会も、会議も、ショッピングモールの告白も」


「中山は受け取ってる」


「でも、自分からは決めてない」


「そうだ」


板に年齢を書き足す。


31 迎えに行く

32 交際開始


斎木が少し困ったような顔をした。


「遠藤さん」


「何だ」


「これ、もし同い年の大学生同士だったら、まだ“煮え切らない恋愛”で済んだ気がするんですけど」


「だろうな」


「でも三十一で迎えに行って、そこから一年……ってなると、急に見え方が変わりますね」


俺は頷いた。


「変わる」


「川原さんの“選ばれない側でいるつもりだった”って台詞も、可愛い拗ね方じゃなくなる」


「そうだ」


会議室の白い壁に、ホワイトボードの光が薄く反射していた。


「もうこれ以上、自分ばかりが関係を前に進める側ではいたくない」


俺は、その言葉をあえて口にした。


「川原の言ってることは、たぶんそういう意味だ」


斎木は、しばらく黙っていた。


「……じゃあ、中山は」


「何だ」


「川原さんを好きではあったんですよね」


そこは、即答できた。


「ああ。好きだったと思う」


「でも、選ばなかった」


「選び切らなかった、だな」


好きでいることと、人生に入れることは別だ。


その線を、中山はずっと曖昧にしている。


そこで初めて、俺の中で別の問いが形になり始めた。


 川原に主体を負わせる。

 川原に迎えに来させる。

 川原に告白させる。

 川原に“関係を動かす側”を引き受けさせる。


では、中山はその間、自分の将来をどう考えていたのか。


ここまで“決めない”男が、ただ何も考えていなかったとは思えなかった。


「斎木」


「はい」


「中山は川原を恋人としては欲しかった」


「ええ」


「だが、人生の表に出す相手として見ていたかどうかは別だ」


斎木が視線を上げる。


「……それ、どういう意味です」


俺は少し間を置いた。


自分でも、まだ完全には言語化しきれていなかった。


「たとえばだ」


「はい」


「好きな相手と、戸籍に入る相手が同じとは限らん」


斎木は何も言わなかった。


その沈黙のぶんだけ、言葉がこちらへ返ってくる。


「子どもが欲しいとか、結婚したいとか、そういう話を、あいつが誰かにしていたとしたら」


「……川原さんじゃない誰かに?」


「あるいは、川原を入れずに、な」


会議室の空気が少しだけ重くなる。


そこでようやく、斎木の表情が変わった。


「それ……」


「何だ」


「嫌ですね」


「だろうな」


「二人は三年付き合って結婚の話も出てなかったんですよね」


「ああ」


「川原さんからしたら、“私はいつまであなたの人生の外側に置かれたままなの”ってなる」


俺は斎木を見た。


「そうだな」


「もし中山が、川原さんとは別に“普通の人生”を探してたとしたら……」


「バレたら、かなりまずい」


「まずい、どころじゃないですよ」


 斎木の指が、無意識にハンカチの端をいじる。


「……でも」


斎木の言葉が詰まる。


「そうだ。そうなると川原が包丁を持ち出してもおかしくない」


「しかし、現場は乱れていない」 


斎木が続ける。


「……動機は何なんでしょう?」


「情報が足りないのかもしれん」


 斎木がノートを開き直す。


「じゃあ、どこを当たります」


「中山の職場だな」


「でも、前にも行きましたよね」


「ああ。だが、聞き方が違う」


 前回聞いたのは、


* 怒るか

* 私生活を見せるか

* 最近様子が変だったか


だった。


今度探すべきは、別のものだ。


「同じ課の人間には、私生活を出してない」


「はい」


「なら、別の場所に漏れてるかもしれん」


斎木が少し考える。


「男の同期とかですか」


「そうだな」


結婚、子ども、婚活。

そういう露骨な未来の話は、むしろ同じ課の女たちより、雑談で交わした男の方に残ることがある。


しかも中山は、“どう見られるか”を管理する人間だ。

同じ課の噂好きな人間には出さず、別課の安全圏にだけ本音を漏らすことは十分あり得る。


「遠藤さん」


「何だ」


「もし、ですけど」


 斎木が言いよどむ。


「もし中山が本当に、川原さんと付き合いながら別の未来を探してたとしたら」


「ああ」


「“ちゃんとしていた”っていうのは」


 俺は答えた。


「誠実って意味じゃない」


「……印象の管理、ですか」


「そうかもな」


 ホワイトボードの一番下に、最後の一行を書く。


『誠実だったのではない。誠実に見える順番を守っていた』


 その文字を見て、斎木は長く息を吐いた。


「もう、だいぶ嫌な男ですね」


「まだ断定はするな」


「でも方向は見えました」


「そうだな」


会議室の時計を見る。もう二十三時近かった。


庁舎の窓は黒く、外の気配はほとんど残っていない。


俺は、机の上の川原の小説をもう一度開いた。


『期待していいんだよね?』


その一行の軽さが、今はまったく軽く見えなかった。


期待というより、確認。

確認というより、賭けだ。


「明日、区役所ですね」


斎木が言う。


「ああ」


「まずは主任から交友関係を聞く」


「はい」


俺は立ち上がって、ホワイトボードのマーカーを戻した。


会議室の照明を落とすと、白い板の文字だけが最後にぼんやり浮いた。


 31 迎えに行く

 32 交際開始

 35 事件


その数字の並びが、妙に冷たく見えた。


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