第十章 子育て支援課
翌日の区役所は、前回来たときと同じように、明るく、乾いていた。
正午前の光が高い窓から差し込み、待合の床に白い四角をつくっている。自動ドアが開くたびに外気が入り、番号札の機械音が一定の間隔で鳴った。窓口には高齢者と、乳児を抱いた母親と、仕事の合間らしいスーツ姿の男が並んでいる。誰もがそれぞれの事情を抱えているはずなのに、役所の空気はそれらをひとつの平坦な日常に均してしまう。
俺と斎木は、区民課の奥の打ち合わせスペースへ通された。
前回と同じ主任だった。机の上の書類をいったん揃えてからこちらを見る。その手つきだけ、妙にきっちりしている。
「また中山の件ですか」
「ええ」
俺は答える。
「少し、前とは別のことを聞きたくて」
主任は短く息を吐いた。
「……別のこと、ですか」
言い方は柔らかい。だが、前回よりわずかに身構えているのが分かった。
何も知らない人間の顔ではない。少なくとも、こちらが中山の“感じのよさ”以上のものを探し始めていることには、もう気づいている。
「前回は、職場での様子や最近の変化を伺いました」
斎木がメモ帳を開きながら言う。
「今回は、もう少し交友関係のことを」
「交友関係ねえ」
主任は椅子に座り直した。
「中山、うちの課ではそんなにベタベタ付き合うタイプじゃないんですよ。昼も一人のときがあるし、定時で上がるときも“お疲れさまです”だけで帰る」
「それでも、誰かとよく話す相手は?」
俺が聞くと、主任は視線を少し上にやった。
「……別の課なら、いましたね」
斎木が手を止める。
「別の課?」
「子育て支援課の真鍋です」
即答ではなかった。
考えた末に、いちばん差し障りのない名前を選んだ、という間だった。
「年齢も近いし、研修が一緒だったんじゃないですかね。たまに食堂で飯食ってるのは見ました。帰り際に廊下で話してることもあったかな」
「どういう話を?」
「そこまでは」
主任は首を振る。
「ただ、同じ課の人間相手よりは、少し気が抜けてる感じでしたね」
その言い方で十分だった。
同じ課では出さない顔を、別課の男には出していたということだ。
「区民課では、そういう私的な話はしなかった?」
俺が重ねると、主任は小さく苦笑した。
「しませんよ。出すわけがない」
「どうして、そう思います」
主任は一瞬だけ、窓口の方へ目をやった。
カウンターの向こうでは、若い女性職員が来庁者に身を乗り出して説明している。声は届かないが、口の動きと身振りだけで、話の長さが分かった。説明が終わると、彼女は隣の席の職員に何か囁いて、小さく笑う。
「前にも白井が言いましたけど」
主任は声を落とした。
「ここ、そういう話が広がるのが早いんです」
斎木が頷く。
「前に、不倫で揉めた件がありましたね」
「ええ。別の係の男でしたけど、相手は外の人で。……昼にはほぼ全員知ってました。誰がどこで聞いたのか分からないまま、気づいたらそういう空気になる」
主任は机の上のボールペンを、親指で一度だけ転がした。
「中山みたいなタイプは、ああいうのをいちばん嫌がるでしょうね。悪口を言うわけじゃないけど、“どう見られるか”には敏感ですから」
その言葉が、昨日ホワイトボードのいちばん下に書いた一文と、ぴたり重なった。
誠実だったのではない。
誠実に見える順番を守っていた。
「真鍋さん、今いらっしゃいますか」
俺が聞くと、主任はすぐに立ち上がった。
「確認してきます」
そう言って、執務スペースの奥へ消える。
残された打ち合わせスペースに、窓口の電子音だけが聞こえた。
斎木が小さく言う。
「やっぱり、同じ課では出してなかったですね」
「ああ」
「……ここまで来ると、“隠してた”というより、“出す場所を選んでた”って感じですね」
俺は窓口の方を見た。
役所の空気は、相変わらず均一だ。
だが、その均一さは何もないことの証明じゃない。
むしろ、出す場所と出さない場所を分ける人間には、都合がいい。
*
真鍋は、子育て支援課の職員だった。
三十代前半。濃紺のカーディガンの袖を肘までまくり、首から職員証を下げている。背はそれほど高くないが、忙しく動き慣れた人間の体つきだった。こちらへ案内されてきたときには少しだけ警戒した顔をしていたが、主任が「中山のことで、少し」と言った瞬間、その表情がわずかに変わった。
「……中山ですか」
「お忙しいところすみません」
斎木が名刺を差し出す。
真鍋はそれを受け取り、一度だけ目を通した。
「いや、別に。急ぎの相談じゃないんで」
彼は椅子に腰掛けたが、膝の上に置いた手が少し落ち着かない。
大事なことを知っている人間の緊張というより、何をどこまで言うべきか決めかねている人間の落ち着かなさだった。
「中山さんとは、よく話していましたか」
俺が聞くと、真鍋はすぐには頷かなかった。
「よく、ってほどじゃないです」
少し考えてから続ける。
「でも、庁舎食堂で一緒になることはありました。研修が一緒だったんで、向こうも話しかけやすかったのかもしれません」
「同じ課の人間には、あまり自分のことを話さないようだ、と」
斎木が言う。
真鍋は小さく笑った。
「それはまあ、そうなんじゃないですか。区民課って女性多いし、噂が回るの早いってよく聞くんで」
そこには、当事者ではない人間の気安さがあった。
同じ庁舎にいながら、少し外側にいる人間の距離だ。
「子育て支援課だと、結婚とか家族の話が出やすい?」
「出ますね」
今度は、はっきり頷く。
「仕事でも児童手当とか保育園とか、そういう話ばっかりですし。雑談でも、“うちは何歳で”とか“二人目が”とか、自然に出るんですよ」
「中山さんも、その手の話を?」
「……一回、しました」
真鍋はそこで少しだけ記憶を探る顔になった。
「窓口で兄弟連れの家族が来た日があって。騒がしいけど、ああいうのも悪くないですよねって話になったんです。そのとき、中山が、“自分は二人か三人くらい欲しいですね”って」
「子どもを?」
「はい」
「本気に聞こえた?」
「冗談ではなかったです」
真鍋は言い切るでもなく、補足するように続ける。
「夢みたいに語る感じじゃなくて……何ていうか、“そういう将来は普通にある”っていう口調でした」
俺は黙って聞く。
「その時点で、中山さんに交際相手がいるとは聞いていましたか」
「いや、まったく」
真鍋は首を振った。
「むしろ、いない前提で話してました」
空気が少しだけ変わる。
「たとえば?」
斎木が声を落とす。
真鍋は少し迷ってから言った。
「……アプリの話とか」
「マッチングアプリですか」
「たぶん、そうです」
“たぶん”をつけたのは、言い切る責任を避けたかったからだろう。
「本人が、そこまではっきり言ったわけじゃないんです。ただ、“プロフィールって、最初どこまで書くもんなんですかね”って聞かれたことがあって」
真鍋はそのときのことを思い出したのか、少しだけ苦笑した。
「俺が“何の話?”って返したら、“いや、ちょっと見てて”みたいな感じで」
「プロフィール、ですか」
「写真とか、仕事の書き方とか。年齢って正直に出したほうがいいですかね、とか」
彼はそこで一度こちらを見た。
「だから俺、普通に独身のやつが、ぼちぼちそういうの考えてるんだと思ってました」
三年付き合っている恋人がいる男に向けて、人はそんな助言をしない。
少なくとも真鍋はその時点で、中山を“自由に次を探せる側の人間”だと思っていた。
「結婚願望みたいなものは、口にしていましたか」
俺が聞く。
「ありましたよ」
真鍋はあっさり答えた。
「強くはないですけど、いずれはちゃんとしたい、みたいな。年齢的にもそろそろ考えないと、って」
「“ちゃんとしたい”」
俺が繰り返すと、真鍋は小さく頷いた。
「そんな感じでした」
その言葉の整い方が、逆に耳に残る。
川原と三年続いている男の言い方ではなく、まだ“ちゃんとする相手”を探している男の口調に近かった。
「他に、女性と親しくしている様子は?」
俺が聞くと、真鍋は今度こそはっきり迷った。
「親しく、ってほどかどうか……」
「見たことを、そのままで構いません」
俺が言うと、真鍋は少しだけ肩の力を抜いた。
「去年入った新人と、何回か話してるのは見ました」
「同じ課の?」
「はい。桐野っていうんですけど」
「二人で食事していたとか」
「一、二回、食堂で向かいに座ってるのは見ました。あと、帰り際に一緒になってるのも一度」
断定しない。
そこが逆に生っぽかった。
「ただ、べつにそれだけです。俺も、そこまで気にして見てたわけじゃないんで」
「その新人は、中山さんに恋人がいると知っていたと思いますか」
真鍋は首を振った。
「知らないと思います」
「どうして」
「知ってたら、ああいう距離では話さない気がします」
言い切ったあとで、彼は少しだけ言い足す。
「いや、もちろん仕事の相談だったのかもしれないですけど。でも少なくとも、“彼女います”って空気ではなかったですね」
“彼女いますって空気ではなかった”。
その曖昧で雑な言い方のほうが、今は信用できた。
「同じ課では出さない。別課では独身のように振る舞う」
斎木が、半ば独り言のように言う。
真鍋は、そこで初めて少しだけ顔をしかめた。
「……そこまで俺は分かりません」
真面目な否定だった。
「でも、中山って、そういうのを混ぜないタイプではありました。課の中と外で、喋ることを分けてる感じはあったかもしれないです」
それで十分だった。
「ありがとうございます」
俺はそこで区切った。
「参考になりました」
真鍋は少しだけほっとした顔をした。
ただ、席を立つ前にもう一度こちらを見た。
「中山、何か大きいことに巻き込まれてるんですか」
その問いに、俺はいつものように曖昧に答える。
「確認中です」
それ以上は言わなかった。
*
打ち合わせスペースを出ると、区役所の廊下は思ったより静かだった。
昼休みに入りかけたのか、窓口の密度が少し薄れている。奥の自販機の前で、若い職員が二人、紙パックの飲み物を選んでいた。
建物を出るまで、斎木は何も言わなかった。
外気が頬に触れたところで、ようやく息を吐く。
「……だいぶ、見えてきましたね」
「何がだ」
「中山が、何を隠したかったのかです」
俺は黙って歩いた。
区役所前の植え込みは、きれいに刈られていて、冬の色をしている。
「交際相手がいること自体、じゃないですね」
斎木が続ける。
「同じ課に私生活を知られること。その中でも、“説明しづらい関係”を知られることのほうを、嫌がってた」
「そうだな」
「前に不倫で辞めた人がいた。そういう話が広がると、職場に居づらくなる空気も見てる」
斎木はハンカチで掌を拭った。
「だったら、同じ課じゃ絶対に出さないですよね」
「出さないだろうな」
「でも別課の真鍋には、“次を探してる男”みたいな顔を見せる」
俺は何も言わなかった。
「……嫌ですね」
斎木がぽつりと言う。
「浮気とか二股とか、そういう派手な話じゃないのが余計に」
歩道の向こうで信号が変わり、人の流れが動き出す。
「川原さんのこと、嫌いだったわけじゃないんでしょうね」
斎木は続けた。
「好きではあった。たぶん」
「ああ」
「でも、“職場を失ってまで守る相手”ではなかった」
俺は少しだけ斎木を見る。
「遠藤さん」
「何だ」
「動機、そこに近そうですよね」
「かなり、な」
俺は答えた。
「だが、まだ一枚足りん」
「一枚?」
「ああ」
現場は静かすぎた。
正当防衛には見えない。
口論の勢いだけでも、少し整いすぎている。
もう一つ、あの夜の中に、決定的な言葉か行動があったはずだった。
*
駅前の信号に差しかかったところで、斎木の携帯が震えた。
彼は歩きながら画面を見て、少しだけ眉を動かした。
「……伊達さんです」
「鑑識か」
「はい」
通話を取る。
「はい、斎木です」
最初の数秒、斎木はほとんど喋らなかった。
ただ、相手の言葉を聞いているだけだった。
やがて、
「……ええ」
「はい」
「保存時刻も出てますか」
「……そうですか」
そこで、足が止まる。
信号待ちの人波の中で、斎木だけが少しだけ動きを失った。
「分かりました。戻ったら確認します」
通話が切れる。
俺は彼の顔を見た。
「何だ」
斎木は、携帯の画面を見たまま、少し言いづらそうに口を開いた。
「……一つ、先にやってました」
「何を」
「川原さんのアカウント解析です」
俺は何も言わなかった。
斎木は続ける。
「昨日、伊達さんに頼んでました。小説のこと、正直そこまで事件に関係すると思ってなかったんですけど……二人とも書いてたし、未公開のものが残ってる可能性はあるかなと思って」
「結果は」
短く聞く。
「出たそうです」
「何が」
「川原綾乃のアカウントから、未公開の下書きが一つ」
冬の風が、通りを横に流れる。
「保存時間も判明したらしいです」
「いつだ」
斎木は画面から目を離さず答えた。
「22時03分」
その数字で、足元が少しだけ冷えた。
川原綾乃のスマートウォッチから出ていた死亡推定時刻は、22時04分。
たった一分。
下書き保存の直後に、何かが起きたことになる。
「内容は」
俺が聞くと、斎木はほんの一瞬だけ黙った。
「要点だけですけど」
「何て?」
斎木は、ようやく顔を上げた。
その表情を見た時点で、もう半分は分かった。
「二人の関係の位置づけが、はっきり分かる内容だったそうです」
それだけだった。
細部は言わない。
だが、それで十分だった。
川原は、死ぬ直前まで書いていた。
しかも未公開で、保存時刻は22時03分。
その内容が、“二人の関係をどう捉えていたか”を明確にするものだった。
なら、あの夜に起きたことは、もう“感情のすれ違い”では片づかない。
斎木が、小さく息を吐く。
「……これで、だいぶ」
「ああ」
俺は頷いた。
信号が青に変わる。
人の流れが前へ動き出す。
それでも、俺たちは一瞬だけ、その場に立ち尽くしていた。
22時03分。
未公開の下書き。
そして、その一分後。
遠くで車のクラクションが短く鳴る。
「戻るぞ」
俺が言うと、斎木は黙って頷いた。
駅へ向かう人波の中で、俺たちは逆方向へ歩き出す。
昼の光はまだ残っている。
なのに、胸の奥では、ようやく夜の輪郭だけが揃い始めていた。




