第十一章 供述
取調室の空気は、昨日までと何も変わっていなかった。
壁の薄いグレー。
天井の蛍光灯。
テーブルを挟んで向かい合う椅子が二つ。
録音機の赤いランプが、静かに灯っている。
違うのは、机の上に置かれた紙の束だけだった。
鑑識から上がってきたスマートウォッチの解析資料。
川原綾乃のアカウント解析結果。
未公開下書きの保存時刻。
どれも感情を持たない。
ただ、時間だけを記録している。
向かいに座る中山悠太は、今日も整っていた。
背筋を伸ばし、両手は膝の上。
髪も、襟元も、乱れていない。
目の下に薄い疲れはあるが、取り乱した様子は見えなかった。
あくまで静かだった。
自分がこれから何を問われるのか、ある程度分かっている顔だった。
斎木は壁際に立ち、ファイルを開いたままこちらを見ている。
俺は椅子に腰を下ろし、資料のいちばん上を揃えた。
「中山さん」
呼ぶと、彼は小さくこちらを見た。
「前回、君はこう話したな。川原綾乃さんが刃物を持ち出した。止めようとして揉み合いになった。押さえ込んだら、結果として死なせてしまった。正当防衛だった、と」
「はい」
返答は早い。
迷っていないというより、その形ならまだ自分の中で持てる、という響きだった。
「今日は、その話の“時間”を確認したい」
中山は黙った。
斎木がファイルから一枚抜き出し、机の上に置く。
印字された時刻の並びが、蛍光灯の下で白く浮いた。
「川原さんのスマートウォッチ解析結果です」
斎木が言う。
「心拍、体動、姿勢変化から推定された死亡時刻は、22時04分」
中山の目が、その紙に落ちる。
それだけだった。
表情はまだ崩れない。
俺はその隣に、もう一枚置いた。
「こちらは、川原さんのアカウント解析」
中身ではなく、メタデータだけが印字された紙だ。
「未公開下書きの保存時刻は、22時03分」
そこで初めて、中山の視線が止まった。
俺は続ける。
「一分しかない」
短く言った。
「22時03分に、川原さんはスマートフォンで文章を保存している。そこから22時04分までの一分のあいだに、君の言うとおりのことが起きたことになる」
中山は、まだ何も言わなかった。
「保存を終える。立ち上がる。包丁を持ち出す。君と口論する。揉み合う。君が押さえ込む。死亡する」
紙の時刻に指を置く。
「一分で、だ」
空調の低い音が、天井の奥で鳴っていた。
「現場もそれを裏づけていない。ラグは乱れていない。グラスも倒れていない。君の言う“途中”が、部屋のどこにもない」
中山は、そこでようやく喉を動かした。
俺は言葉を重ねる。
「正当防衛という話に、時間がついてこない」
しばらく沈黙が落ちた。
中山は紙から目を離さなかった。
その沈黙は、“考えている”というより、すでに頭の中で組み上げていたものの継ぎ目を探している沈黙に見えた。
斎木が、壁際から低い声で言う。
「下書きの中身も確認しました」
中山の目が、そこで初めてはっきり動いた。
その反応は小さい。
だが、どの紙よりも、その一言が効いたのだと分かった。
中山は、自分の知らないところで、川原の最後の文章がこちらに渡っていることを、その瞬間に理解した。
「中山さん」
俺は、できるだけ平坦に言った。
「正当防衛ではないな」
長い沈黙が落ちた。
録音機の赤いランプだけが、変わらず点いている。
空調の音と、どこか遠くの足音だけが、ごく薄く部屋の外にあった。
やがて中山は、小さく息を吸った。
「……その通りです」
声は思ったより落ち着いていた。
観念した声というより、ようやく“言い直せる位置”に辿り着いた人間の声だった。
「でも」
そこで一拍置く。
「正当防衛なんです」
俺は何も言わなかった。
中山は視線を落としたまま続ける。
「脅されたんです」
「何を」
「綾乃が……言ったんです」
そこで、彼は初めて言葉を選んだ。
「関係のことを、外に出すって……それで口論に。」
「口論に?」
中山は頷いた。
「はい」
「同じ課に広がったら、僕はもういられない」
その一言だけ、声の芯が少し強くなった。
「前にもいたんです。そういう話が広まって、居場所をなくした人が。表向きは普通でも、みんな見方が変わる。……あそこは、そういうところなんです」
俺は黙って聞く。
「せっかく公務員になったのに」
その言葉は、ほとんど独り言に近かった。
「やっと、ここまで来たんです。真面目にやって、怒られないようにして、余計なことも言わないで、ちゃんと働いて……」
中山の手が、膝の上で小さく握られる。
「僕は、ちゃんとしていたんです」
また、その言葉だった。
「ちゃんと生活して、ちゃんと仕事して、変な目で見られないようにして」
少しずつ、息が浅くなる。
「それを壊されると思った」
「壊される?」
中山は顔を上げる。
「はい」
その“はい”には、少しも比喩のつもりがなかった。
「綾乃が全部言ったら、僕は終わるんです」
「終わる?」
「職場にいられなくなる」
「それで?」
中山は一瞬だけ眉を寄せた。
「……だから、正当防衛なんです」
斎木が、壁際から声を挟む。
「何に対する、ですか」
中山は、その問いには迷わなかった。
「僕の生活に対する、です」
その答えの直後、斎木は視線を少し落とした。
「……少し、失礼します」
それだけ言って、静かに取調室を出た。
俺はそれを止めなかった。
ドアが閉まる。
室内には、俺と中山だけが残った。
録音機の赤いランプは、変わらず点いている。
「中山」
俺は相手の目を見て言った。
「はい」
「君は今、自分が何を言っているか分かってるか」
「……分かってます」
「本当にか」
中山はわずかに黙った。
俺は、ひとつずつ並べる。
「職を失うのが怖かった」
「噂が広がるのが怖かった」
「自分の生活が壊れると思った」
一拍置く。
「それは分かる」
中山の目が少し動く。
「だが」
そこで、あえて間を取る。
「それで人を殺していいわけじゃない」
中山は、そこで初めて、ほんの少しだけぽかんとした顔になった。
怒られた顔ではなかった。
責められた顔でもない。
なぜそこに線があるのか、本気で分からない人間の顔だった。
「……でも」
彼は小さく眉を寄せた。
「綾乃が言うって」
「そうだとしてもだ」
俺は遮る。
「人を殺す理由にはならない」
中山は何も言わなかった。
言い返せないのではない。
納得していない顔だった。
その沈黙の長さだけで、かえってはっきりした。
「……今まで通りでよかったんです」
やがて、中山が低い声で言った。
「何がだ」
「職場では何も知られず」
「僕はそのまま働いて」
「綾乃とのことは……そのままで」
言いながら、自分でも言葉の形が曖昧なのが分かっているのだろう。
最後のほうは、ほとんど口の中で崩れた。
「そのまま?」
俺が聞くと、中山は小さく頷いた。
「変えたくなかったんです」
「変えるつもりは、なかったのか」
中山はそこで、少しだけ考えた。
「……考えてはいました」
その言い方が、もう曖昧だった。
「でも、今じゃなくてよかった」
それは答えではない。
先送りの別名だった。
俺は、それ以上追わなかった。
追っても、こいつはたぶん同じところを回る。
自分はちゃんとしていた。
急に壊されそうになった。
だから、それを防いだだけだと──
そのときだった。
ドアが、控えめに二度だけノックされた。
「遠藤さん」
斎木の声だった。
「少し、いいですか」
俺は中山を見た。
中山は、まだ自分の言葉の中にいた。
向こうからこちらへ届いているようで、実際にはほとんど届いていない。
「少し外す」
そう告げて、俺は外へ出た。




