エピローグ
取調室の裏にある観察室は、薄暗かった。
ガラス越しに、向こうの取調室が見える。
白い蛍光灯の下で、中山悠太は一人、椅子に座ったまま動かなかった。背筋だけはまだ伸びている。やり取りが終わったあとも、途中で止められた会話の続きを、頭の中でまだ整えようとしているような顔だった。
斎木が、手にしていた資料を差し出す。
「伊達さんの資料です。再確認してました」
俺は受け取り、立ったまま目を落とす。
資料の一部にマーカーが引いてある。
スマートウォッチ解析の備考。
体動の変化。
姿勢の推定。
頸部圧迫時の身体位置。
そこに書かれていたのは、簡潔な一文だった。
『被害者は、座位に近い状態から頸部を圧迫された可能性が高い』
読み終えたあとも、しばらく紙から目を離せなかった。
揉み合いではない。
立ったまま押し合ったのでもない。
座っていた相手。あるいは立ち上がる前の相手。
「……口論して、揉み合って、そのまま、じゃないですね」
斎木が言う。
俺は答えず、もう一度だけその一文を読んだ。
取調室の向こうで、中山はまだ顔を上げていない。
自分の中では、もう説明がついているのだろう。
脅された。壊されると思った。守らなければならなかった。だから仕方なかった。
そういう順番で。
だが、現実はその順番ではなかった。
机の端に資料を置き、俺は目を閉じた。
頭の中に、別の白い画面が浮かぶ。
『星空の下で、彼はようやく私の手を取った。
冷えた指先が触れて、そのあとで、薬指に小さな重みが添えられる。
けれど、私は──
その触れ方だけを、忘れたくないと思った』
22時03分に保存された、川原綾乃の未公開下書き。
──川原綾乃は、物語を書いた。
──中山悠太も、物語を書いた。
そこにあった差は、好きかどうかじゃない。
選ぶか。
選ばないで済ませるか。
その違いだったのかもしれない。
「遠藤さん」
斎木が、少し控えめに言う。
「これで、ほぼ固まりましたね」
「……ああ」
短く答える。
事件の輪郭は見えてきた。
時刻も、姿勢も、供述の歪みも、だいぶ揃った。
それでも、終わった感じはしなかった。
向こうの取調室に座っている男は、まだ自分がどこに立っているのか分かっていない。
自分は守ったのだと。
壊される前に防いだのだと。
ちゃんとしていたのだと。
そう信じることでしか、自分のやったことを支えられないままに。
俺はガラス越しに、その横顔を見た。
こいつを裁くのは、法の仕事だ。
だが、現実に立たせるのは、取調べの仕事でもある。
川原綾乃の人生を、あいつの都合のいい言い換えで終わらせないために。
そして、あいつ自身を、物語の外へ引きずり出すために。
俺は資料を閉じた。
取調室の向こうでは、まだ白い蛍光灯が点いている。
斎木が一歩退いて、無言で道を空けた。
俺はドアノブに手をかける。
冷たい金属の感触が、掌に残る。
俺は取調室のドアを開けた。




