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第六章 過去

署に戻る途中、斎木は何度か手帳を見返していた。


ページをめくっては止まり、また前のページに戻る。

歩道の端に寄った水たまりを避けるたび、彼の革靴が小さく鳴った。


区役所で集めた証言は、あまりにきれいに揃っていた。


怒らない。

感じがいい。

子どもに優しい。

恋人の話はしない。

最近の様子も、特に変わらない。


信号待ちで立ち止まる。


車が何台か、一定の速度で通り過ぎていく。

排気ガスの匂いが薄く残り、すぐに冷たい風で散った。


「遠藤さん」


斎木が言った。


「何だ」


「中山の件ですけど……」


「うん」


「まだ、正直、よく分からないですね」


俺は黙って歩いた。


「小説の中だと、ずるいところはありますけど」


斎木は続ける。


「悪いやつって感じじゃないです」


少し考えてから、言い足す。


「職場の証言も同じでしたし。……まあ、“いい人”って言われるタイプではありますよね」


俺は少しだけ息を吐いた。


こういう言葉は、前にも聞いたことがある。


何度も。


***


警察に入る前、俺はDV被害者の支援をしていた。


支援団体の事務所は、古い雑居ビルの三階にあった。

外階段を上がるたび、踊り場の鉄板が少しだけ軋む。


狭い部屋に、机とソファと、電気ポットが一つ。

壁には地域の避難先一覧。窓際の書類棚には、クリアファイルが色別に詰め込まれていた。時計は五分ほど進んでいて、誰も直さなかった。


電話はよく鳴った。


相談の言葉は、驚くほど似ていた。


「でも、普段は優しいんです」


受話器の向こうで、女が言う。


「怒るのは、私が悪いときだけで」


俺はメモを取る。

向かいでは、先輩の支援員が、湯の切れたポットのスイッチを無言で押し直していた。


こういう言葉も、何度も聞いた。


「暴力は、どれくらいの頻度ですか」


俺が聞くと、少し沈黙がある。


「……最近は、減りました」


「減った?」


「はい」


そこで声が、ほんの少し明るくなる。


「この前なんて、謝ってくれて」


そのあとで、ほとんど決まったように続く。


「本当はいい人なんです」


本当は。


その言葉が出るたび、俺はいつもペンを持つ手を止めそうになった。

止めてはいけないので、続けて書いた。



ある女性がいた。


二十代後半。子どもが一人。

最初に相談に来たとき、腕に古い痣と新しい痣が、重なるように残っていた。


危険の度合いを確認し、避難先を探し、シェルターの仮押さえもした。

男の行動も記録した。


怒鳴る。

物を投げる。

壁を蹴る。

殴る。


書類の上では、もう十分に危険だった。


それでも彼女は言った。


「でも、普段は優しいんです」


その“普段”という言葉だけが、いつも妙に長く尾を引いた。


俺は意見書を書いた。

裁判所や行政に出すためのものだ。


被害の経緯。

危険性。

保護の必要性。


どこまでを事実として並べ、どこからを評価として書くか。

どの言葉なら届いて、どの言葉なら跳ね返されるか。


文章にするとき、俺はいつも思っていた。


これは一つの物語だ、と。


彼女の語る物語。

男の語る物語。

そして、俺が作る物語。


俺の書く物語は、暴力を止めるためのものだった。


少なくとも、そのつもりだった。


だが、彼女は戻った。


「もう大丈夫だと思うんです」


そう言った。


「ちゃんと話しました」


俺も先輩も止めた。

“ちゃんと話す”ことと、“安全になる”ことは別だと、何度も説明した。


それでも彼女は帰った。


三か月後、警察から連絡が来た。


彼女は死んだ。


ニュースでは、こう言っていた。


──口論の末の悲劇。


悲劇。


その二文字が、やけに整って見えた。


あまりに整いすぎていて、腹が立ったのを覚えている。

暴力の積み重なりも、戻った経緯も、何度も書き直された彼女の言い分も、全部が“口論の末”で片づいていく。


言葉は、人を救うためにも使える。

だが同じ言葉で、現実を平らに潰すこともできる。


そのことを、あのとき嫌というほど思い知らされた。


***


信号が変わる。


車の音が遠ざかり、人の流れが横断歩道へ動き出す。


「遠藤さん」


斎木が言った。


「ん?」


「どう思います」


少し考える。


「“いい人”っていうのはな」


斎木がこちらを見る。


「ときどき、怒る」


沈黙。


「でも」


俺は続けた。


「誰も、あいつが怒ったところを見たことがない」


斎木は黙っていた。


署の建物が見えてくる。

入口のガラスに、俺たちの姿が薄く映った。


「それって」


斎木が言う。


「変ですか」


「分からん」


俺は答えた。


「ただ、“怒らない男”と“怒るところを誰にも見せない男”は、同じじゃない」


自動ドアを押して中に入る。

蛍光灯の白い光が、床に均一に落ちていた。


「もう少し、過去を見た方がいいかもしれんな」


斎木が小さく頷く。


廊下を歩いていると、不意に彼が思い出したように言った。


「そういえば」


「何だ」


「被害者の小説、続編がありました」


俺は足を止めた。


「続編?」


「ええ」


斎木はノートパソコンの入った鞄を軽く叩く。


「もう事件と関係ないと思って、言うタイミング逃してたんですけど」


少し間。


「付き合う前の話らしいです」


「どれくらい前だ」


「……一年くらい」


俺は数秒、何も言わなかった。


一年。


その時間の長さだけが、先に頭に入った。


「見せてくれ」


斎木が画面を開く。


白いページに、文章が並んでいる。

タイトルはやけに軽く、事件の影とは結びつかない。


俺たちは何も言わず、画面を見た。


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