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第五章 区民課

区役所の窓口は、昼前の光に満ちていた。


高い窓から差し込む白い光が、待合の床に四角く落ちている。自動ドアが開くたび、外の冷気が薄く流れ込み、番号札の電子音が一定の間隔で鳴った。窓口の前には、高齢の夫婦、乳児を抱いた母親、昼休みに駆け込んだらしいスーツ姿の男。誰もがそれぞれの事情を抱えているはずなのに、役所の空気は、そういう細かな切実さを全部ひとつの“手続き”の厚みに均してしまう。


俺と斎木は、区民課の一角に通された。


最初に応対したのは、係の主任だった。四十代半ば。机の上の書類を一度きっちり揃えてから、ようやくこちらを見る。


「中山の件ですよね」


そう言って、わずかに苦笑した。


「もう話、回ってますか」


「いえ、内容までは」


主任は椅子を引き、俺たちにも座るよう促した。


「中山、何か、まずいことでもやりました?」


「確認です」


俺は言った。


「職場での様子を聞かせてください」


主任は少し考えてから、短く頷いた。


「真面目ですよ」


それが第一声だった。


少し間を置いてから、続ける。


「うちの窓口、けっこう荒れるんです。税金だの保険だの、納得いかない人は多いですから」


「中山さんは?」


「うまくやりますね」


「うまく?」


「ええ」


主任は窓口の方を見た。


「怒鳴られても、顔に出さない」


それだけ言ったあと、小さく笑う。


「普通は出ますよ。困るとか、うんざりするとか、そういうのが。あいつはそれがない」


俺は黙って聞く。


「感情がない、ってことですか」


斎木が聞くと、主任は首を振った。


「いや、そういう意味じゃないです。切り替えが早いんでしょうね。表に出さないっていうか」


少し考えるように言葉を探す。


「怒らせないのも上手いですし」


「子どもにも?」


俺がそう聞くと、主任は少し目を上げた。


「ロビーの様子、見てましたか」


「いえ。聞いただけです」


主任は窓口の端を顎で示した。


カウンターの近くで、若い母親が小さな子を抱き上げていた。子どもは退屈そうに身をよじっている。


「待ち時間が長いと、ぐずる子もいるんです。あいつ、そういうとき紙を折って渡したりするんですよ」


「折り紙?」


「鶴とか、カエルとか」


主任は少し笑った。


「別に、誰に頼まれたわけでもないのに」


それは好意的な言い方だった。だが、そこにも少し距離があった。


「恋人の話は聞いたことがありますか」


俺が問うと、主任は首を傾げた。


「いや」


すぐには答えず、机の端にずれていた付箋を親指で揃える。


「そういう話はしないですね。私生活をあまり出さない」


「女性と仲がいいとか、交際しているとか」


「聞いてません」


「最近の様子はどうでした」


主任は、今度はすぐには答えなかった。


「最近……ですか」


「ええ。ここ一、二か月で、何か変わった様子はありませんでしたか。落ち着かない、疲れている、誰かと揉めているように見えた、とか」


主任は少しだけ考え込んだ。


「いや……特には」


「本当に、何も?」


「少なくとも、仕事ぶりは変わらなかったですね。遅刻もないし、ミスが増えたとかもない」


そこで一度言葉を切り、付け足す。


「まあ、ああいうのって、職場じゃ出さない人もいますけど」


その言い方は慎重だった。見ていないものは見ていない、と言う大人の言い方だ。


「中山さん、職場の人と深く付き合うタイプですか」


「いや」


主任は即答した。


「誰とでも同じ距離です。近づきすぎないというか。私も上司なんで、もう少し踏み込むべきなんでしょうけど……」


誰とでも同じ距離。


俺はその言葉を手帳に書いた。


「同じ係の方にも、少し話を聞けますか」


俺が言うと、主任は一度だけ頷いた。


「呼んできます」


それだけ言って、執務スペースの奥へ消える。


残された打ち合わせスペースに、番号札の電子音だけが聞こえた。


斎木が小さく言う。


「“見られ方”は気にしそうですね」


「ああ」


俺は窓口の方を見た。


役所の空気は、均一だ。だがその均一さは、何もないことの証明にはならない。むしろ、自分の見せ方を管理する人間にはいちばん都合のいい背景になる。



主任が連れてきたのは、同じ係の女性職員だった。


三十代前半。髪は肩のあたりで切り揃えられ、胸元の名札の上に細いチェーンが一度だけ光る。打ち合わせスペースに入ってきたときには少しだけ戸惑った顔をしたが、主任が「中山のことで少し」と言った瞬間、その表情はすぐに整った。


「白井です」


短く名乗る。


俺と斎木が名刺を差し出すと、彼女はそれを一度見てから、すぐに視線を戻した。


「中山さん、ですか」


少し驚いたように言ってから、苦笑する。


「やっぱり、何かあったんですね」


「確認です」


俺は繰り返した。


「職場での様子を教えてください」


「いい人ですよ」


まずそう言った。


それから、少し考えて付け足す。


「怒ったところ、見たことないです」


「主任も同じことを言っていました」


「そうですか」


彼女は小さく笑ったが、すぐに真顔に戻った。


「でも、それってたぶん、褒め言葉だけじゃないですよね」


俺は少しだけ視線を上げた。


「どういう意味です」


「うーん……」


彼女は言葉を探す。


「出さないんです。何を考えてるか」


俺は黙って待った。


「優しいし、感じも悪くない。子どもの相手もするし、窓口では助かってるんです。でも……踏み込めないんですよね」


「距離がある?」


「そう、それです」


少しだけ安堵したように頷く。


「こっちが一段近づくと、ちゃんと一段引く感じ」


「自分のことは話さない?」


「ほとんど」


「恋人の話も?」


「聞いたことないです」


即答だった。


それから、白井はテーブルの上で少しずれていたクリアファイルを真っ直ぐに重ね直した。


「この職場、そういう話、すぐ回るんですけどね」


「そういう話?」


彼女は主任の方を一瞬だけ見てから、声を少し落とした。


「去年、別の係で問題があって」


少し間。


「不倫です」


それだけで十分だった。


斎木が手帳から顔を上げる。


「職員同士ですか」


「いえ。相手は外です」


彼女は肩をすくめた。


「でも、すぐ広まりました」


「誰から」


「さあ」


口元にだけ、薄い笑いが浮かぶ。


「ここ、女性多いので」


その言葉には、当人もどうにもできない種類の諦めが混じっていた。だが、その“諦め”が、この空気をよく知っている人間のものだということだけは、伝わってきた。


「その人は?」


「辞めました」


あっさり言う。


「居づらくなって」


窓口の方で、子どもの泣く声が一瞬だけ上がる。白井はそちらに目をやったが、すぐに戻した。


「中山さんは、その件について何か言っていましたか」


「いえ」


「気にしている様子は」


彼女は少し考えた。


「……分からないです」


「分からない?」


「気にしてても、出さないタイプなので」


小さく笑う。


「だから、最近の様子って言われても……難しいですね」


「変わった感じは?」


俺は重ねて聞いた。


「ここ一、二か月。落ち着かないとか、スマホを気にするとか、誰かを避けているとか」


彼女はしばらく考えた。


「普通でした」


それから、少しだけ言い直すように続ける。


「……少なくとも、外から見るぶんには」


その“少なくとも”が、妙に耳に残った。


「マッチングアプリとか婚活とか、そういう話題は?」


斎木が何気ない調子で挟む。


彼女は首を振った。


「聞いたことないです。もしやってても、言わないと思います」


「どうしてそう思います?」


「中山さん、自分の評判を崩すようなこと、あまり人前に出さない気がするんです」


その一言のあと、彼女は自分で少し驚いたような顔をした。


「……すみません、変な言い方ですね」


「いや」


俺は言った。


「続けてください」


彼女は受付票の束を指先で揃えた。


「何ていうか……誤解されたくない人、って感じです」


その表現は、俺の中に小さく引っかかった。


──誤解されたくない人


それはつまり、どう見られるかを気にする人間でもある。


「ありがとうございます」


俺がそう言うと、彼女は小さく会釈した。だが立ち上がる前に、もう一言だけ付け足す。


「……ここって、一回そういう目で見られると、ずっとそのままなんです」


それだけ言って、彼女は主任の後についてスペースを出ていった。



区役所の外に出ると、風が冷たかった。


斎木が手帳を閉じる。


「……印象、揃いましたね」


「ああ」


俺は建物を見上げた。


ガラスの向こうで、窓口の職員たちが働いている。誰もこちらを見ていない。


「怒らない。感じがいい。子どもに優しい。私生活は見せない」


斎木が言う。


「最近の様子も“特に変わらない”」


「そうだな」


俺は答えたが、すんなりは入ってこなかった。


変わった様子はない。

恋人の話もしない。

なのに、三年続いた交際相手が死んでいる。


「……普通すぎるな」


思わず口に出していた。


「普通?」


斎木が振り向く。


「ここまで揃うと、印象が薄い」


俺は役所の窓口を見た。


待合の椅子、観葉植物、番号表示の液晶。すべてが整っている。乱れていない。


そのとき、川原のマンションの部屋が頭に浮かんだ。


 リビングのソファ。

 その近くに倒れていた川原綾乃。

 床に落ちた包丁。

 ラグはめくれていない。

 コップも倒れていない。

 争った形跡が薄い。


それなのに、中山は言った。


『正当防衛でした。彼女が刃物を持ってきたんです』


「なあ、斎木」


「はい」


「正当防衛っていうやつは、たいていもっと喋るもんじゃないか」


斎木は黙った。


「怖かったとか、必死だったとか、何で止めようとしたかとか。あいつはそこをほとんど説明しない」


「……はい」


「現場も妙だ」


俺は言いながら、自分の中で整理していた。


「争ったなら、もっと動く。もっと乱れる。なのに、部屋には途中がない」


途中がない。


出来事だけが、ぽつんと置かれている。


斎木が少し考えてから言う。


「正当防衛は怪しい」


「ああ」


「でも」


斎木が続ける。


「動機が見えませんね」


俺は頷いた。


そこだった。


正当防衛は怪しい。

だが、殺す理由がまだ見えない。


「いったん署に戻るか」


俺は言った。


「はい」


「現場と供述、もう一回並べてみる。動機がないなら、まだ見えてないものがある」


斎木が頷く。


俺たちは駅の方へ歩き出した。


昼の光はまだ白かったが、風は妙に冷たかった。

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