第四章 ライトノベル
# 1
「おい」
公民館の会議室のドアを開けながら、私は声をかけた。
強めに言ったつもりだったのに、思ったほど響かなかった。
振り向いた彼は、椅子にもたれたままこっちを見る。
その目が一瞬だけ、私の顔をなぞる。
――見た。
たったそれだけで、胸の奥が少しだけ騒ぐ。
彼の名前はユウト。
天文ボランティア団体のコアメンバーで、区役所勤務。いつも一番に来て、誰よりも静かに準備をしている。なのに本人は、それを“大したことじゃない”みたいな顔で済ませる男だ。
ずるい。
「アヤさん。今日も早いですね」
彼は資料を閉じて、机に置いた。
まるで、私が来ることを知っていたみたいで。
「早くないだろ。……まあ、ちょっと話があってな」
本当は、そんな軽いもんじゃない。
――気づけ。
――誘え。
――クリスマスだぞ。
そう言いたいのを、全部飲み込んで、私はいつもの口調を選ぶ。
偉そうで、理屈っぽくて、代表らしい声。
「僕はアヤさんの暇つぶしの相手じゃないですけど」
彼が軽く笑う。
……この男。
内心で机を叩く。
でも顔には出さない。
「……相変わらずだな。今日はちゃんとした話だ」
彼の隣に腰を下ろす。
距離が少し近い。
近すぎるわけじゃない。でも、意識するには十分近い。
「僕は特に話すことないですけどね」
この、どこか他人事みたいな態度。
でも、それでもここに来る。
だから私は、まだ諦めきれない。
「ここの活動、今のままでいいと思ってるか?」
会議室には、まだ誰も来ていない。
窓の外で、風が枝を擦らせている。
「悪くないんじゃないですか。ちょうどいい感じで」
あっさり言う。
「素直じゃないな。いつも一番に来てるくせに」
「せっかくやるなら、って程度ですよ」
軽い声。
私は立ち上がり、演台の前に立った。
息を整える。
言うなら、今だ。
「クリスマスに観望会をやる」
言い切る。
彼の表情が、ほんの少しだけ動いた。
「クリスマスに? 人、来ますかね」
……そこ?
思わず笑いそうになる。
「来るかどうかはやってみないと分からない。星を見るにはいい日だ」
天井を見上げるふりをして、呼吸を整える。
クリスマス。
恋人たちが勝手に盛り上がる夜。
その日に星を見るイベント。
普通なら、誰かを誘う。
誘わないなら、誘わせる。
それだけの話だ。
「館長、許可出しますかね」
「仮で通してある。正式な申請も出す」
書類を机に置く。
彼の視線がそこに落ちる。
「本気ですね」
「私はいつも本気だよ」
少しだけ笑う。
言った瞬間、自分でも分かった。
今の声は、代表の声じゃない。
女の声だ。
彼は視線を逸らした。
その反応に、胸の奥がざわつく。
「それなら、港で恋愛にまつわる星座の話をしてから、山手の公園に移動するのはどうですか。雰囲気は出ると思いますけど」
提案……
──ふふ、釣れた。
私は内心で拳を握った。
「港は人が多い。公園も、あの時期は照明が強すぎる。団体でやる以上、場所は絞る」
代表の声で答える。
「……ただ、星座の話は悪くないな」
彼の目が少し動く。
「まだ案の段階だ。今日の定例会では触れない。まずは形を固める」
時計を見る。
開始まであと十分。
廊下の向こうから足音が聞こえる。
そろそろ人が来る。
この話は終わりだ。
それでも、最後に一つだけ言う。
「チラシの素案、お願いできるか」
「僕もですか?」
「当然だろう。コアメンバーなんだから。しかも“改善案”まで出してくれた。参加させないわけにはいかない」
逃げ道はない。
「それに」
書類をまとめながら、私は続ける。
「クリスマスは、空いてるだろう?」
一瞬。
ほんの一瞬だけ、彼の表情が曇った。
「特に予定はないですけど」
やっぱり。
私は視線を逸らした。
――なら、誘え。
そう思うのに。
言えない。
結局、私はまた代表の顔に戻る。
「人が集まり始めたな。この話は、また改めて」
会議室のドアが開き、メンバーが入ってくる。
私は資料を開き、いつもの顔に戻った。
さっきまでの空気は、どこにも残っていない。
それでも、胸の奥だけが少しだけ熱かった。
*
定例会が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
公民館を出ると、冷たい空気が頬に触れる。
吐く息が白い。
駅へ向かう人の流れとは逆に、私は住宅街の方へ歩いた。
公民館から歩いて二十分。この距離が嫌いじゃない。
今日の会話を思い返す。
――クリスマス観望会。
ユウトの顔が浮かぶ。
「クリスマスに? 人、来ますかね」
……そこじゃないだろ。
思わず小さく笑う。
恋愛の雰囲気の話はするくせに、自分からは何も言わない。
でも、港の話を出したとき、ちゃんと乗ってきた。
――興味はある。
ただ、自分から踏み込まないだけだ。
住宅街の角を曲がる。
街灯の下で影が伸びる。
団体に入った頃を思い出す。
最初は人が多かった。
観測会をやって、講習をやって、企画を増やして。できることは全部やった。
でも、人は減った。
理由はだいたい分かっている。
本気になると、人は少し距離を取る。
高校の部活でも、大学のサークルでも、だいたいそうだった。
だから学んだ。
期待しないこと。
本音を言わないこと。
そして、少しだけ偉そうに振る舞うこと。
それなら、傷つく前に線が引ける。
……でも。
ユウトは違った。
私が早口で話しても、理屈を並べても、適当に聞いている顔で、ちゃんと最後まで聞いてくれた。
それが、嬉しかった。
――だからこそ、怖かった。
マンションの前で足を止める。
外階段を上がり、鍵を開ける。
部屋の灯りをつけると、静けさが広がった。
コートを脱ぎ、湯を沸かす。
マグカップにお茶を入れて、ソファに座る。
湯気がゆらゆら揺れる。
――うまくいった、よね。
そう思う。
でも、少しだけ不安になる。
もし、また流されているだけだったら。
もし、何も変わらなかったら。
「……あぁ、やめやめ」
小さく呟く。
考えすぎると、ろくなことにならない。
ソファに寝転がる。天井を見上げる。
クリスマス。
その日は、彼も来る。
……たぶん。
来なかったら、そのとき考えればいい。
スマホを胸に乗せる。
次に浮かんだのは、別のことだった。
――プレゼント。
何を渡せばいいんだろう。
直接聞く?
いや、それはさすがにバレる。
……振られるのは、嫌だな。
結局、答えは出ないまま、毛布を引き寄せて顔を埋めた。
胸の奥が、少しうるさい。
――ちゃんと聞けるかな。
鼓動が落ち着くまで、その夜、私はなかなか眠れなかった。
# 2
二週間後。
公民館の会議室の扉を開けると、やっぱり彼がいた。
ユウトは机に向かい、資料を広げている。窓の外の薄曇りの光が、その横顔をぼんやり縁取っていた。
相変わらず、少し気の抜けた姿勢。でも、ちゃんと一番に来ている。
「今日は早いですね」
そう言って、彼は顔を上げた。
「いつもだろ」
私は軽く肩をすくめる。
このやり取りは、もう何度も繰り返している。
それだけで、少し安心する。
「館長の正式な了承は取れた。仮押さえじゃなくなった」
資料を机に置く。
「早いですね」
「段取りはしておいたからな」
視線が合う。
「チラシは?」
彼は椅子にもたれたまま答える。
「デザインは知り合いに頼んでます。文言はまだですが、無難な形でまとめます」
……少しだけ驚く。
正直、まだ何もしていないと思っていた。
でも、それを顔に出すわけにはいかない。
「行動が早い。お前はできる男だ。ありがとうな」
言った瞬間、少しだけ照れくさくなる。
「大したことしてませんよ」
「いや、動かない人もいる」
沈黙が落ちる。
――今だ。
私は小さく息を吸う。
「……ひとつ聞いていいか」
彼が顔を上げる。
「なんですか」
言葉が出ない。
こんなことを聞くつもりじゃなかったのに。
それでも、口は動いた。
「ユウトは、その……何を大事にしている?」
聞いてしまった。
彼は少し首を傾げた。
「うーん。急に言われても難しいですね。仕事も団体も、ちゃんとやろうとは思ってます」
少し考えて、続ける。
「アヤさんみたいに、全部を懸ける覚悟はないですけどね」
……それだけ?
胸の奥で、何かが跳ねるた。
一年。一年も待って。
返ってくるのは、そんな答え?
「……それは“ちゃんとやる”であって、“選ぶ”とは違う」
声が思ったより低くなる。
彼は少し驚いた顔をした。
「選ぶ?」
「何かを優先することだ。本気になるとか、責任を負うとか」
言葉は落ち着いている。
でも胸の奥は、ぐちゃぐちゃだった。
「……本気じゃないわけじゃないですよ」
曖昧な答え。
私は小さく息を吐く。
「私には伝わってこない」
言った瞬間、後悔が追いついてくる。
でも、もう止まらない。
彼は困ったように笑った。
「どうすれば伝わります?」
……は?
胸の奥が熱くなる。
「自分で考えろ」
気づいたら言っていた。
「私に聞くことじゃない」
窓の外で風が鳴る。
会議室の空気が、急に冷たくなる。
「……そうですね」
彼は小さく頷いた。
それ以上、何も言わない。
私は資料を抱え直す。
逃げるみたいに。
「今日はここまでにしよう」
ドアへ向かう。
背中に視線を感じる。
振り返らない。振り返ったら、きっと顔に出る。
ドアを閉める。
廊下の空気が、少しだけ冷たい。
歩きながら思う。
――私、何してるんだろう。
あんな言い方をするつもりじゃなかった。
ただ、知りたかっただけなのに。
彼が何を大事にしているのか。
私のことを、どう思っているのか。
でも結局。
また同じだ。
本気になればなるほど、距離ができる。
公民館の階段を降りながら、窓の外を見る。
木の枝が、風で小さく揺れている。
その夜。
ベッドの上で、私は目を閉じていた。
どうして、あんな言い方をしたんだろう。
傷つけたかもしれない。嫌われたかもしれない。
胸の奥が、じんわり痛む。
――好きなのに。
毛布を引き寄せる。
思い出は自然と一年前へ戻っていく。
たぶん。あれが、始まりだった。
# 3
「……ここが地球の軌道。小惑星はこのあたりを通ります」
ホワイトボードにマーカーを走らせながら、私は説明していた。
円。
楕円。
交差する線。
頭の中にあるものを、そのまま図にしていく。
「探査機は、まっすぐ飛ばすわけじゃない。重力を利用して、何度も軌道を修正します」
子どもたちの前で話すときは、言葉を選ぶ。
難しくなりすぎないように。でも、嘘にならないように。
話しているうちに、いつの間にか熱が入っていた。
「先生、それ失敗しないの?」
前の席の子どもが聞く。
「失敗することもある。でも、だからやる価値があるんです」
即答だった。
迷いはない。
やがて教室は静かになり、子どもたちは帰っていった。
机の上には、資料とマーカーだけが残る。
私は軽く息を吐いた。
「今日の説明、難しくなかったか?」
後ろで椅子を片付けていたユウトに声をかける。
「少し背伸びした方が、印象に残りますよ」
椅子に腰を下ろして答える。
「小惑星って、意外と手順が多いんですね」
……聞いてた。
私は少しだけ笑う。
「聞いていたのか」
「一応」
「ユウトは、聞いてない顔でちゃんと聞いてる」
言ってから、少し照れくさくなる。
彼は肩をすくめた。
「全部理解してるわけじゃないですけど」
「それでも来る」
間。
「興味があるからか?」
聞いてしまった。
夕方の光が、ホワイトボードの軌道を照らしている。
彼は少し考えてから言った。
「……暇だから、ですかね」
……また、それだ。
胸の奥で何かが小さく沈む。
それでも、ここに来る。
「“暇だから”で片づけるのは、もったいない」
「他に言い方が思いつかなくて」
沈黙。
私は視線を落とす。
それから、思い切って言った。
「大学の頃から付き合っている人がいると聞いた」
「今も、続いているのか」
彼の動きが止まる。
……しまった。
彼はペンを指先で回しながら答える。
「続いていると言うか。社会人になってから、お互い忙しくて」
声は落ち着いている。
「会う機会も、連絡も減って……」
そこで言葉が途切れる。
私は小さく頷いた。
「詮索した。悪かった」
眉が自然と下がる。
きっと今、ひどく情けない顔をしている。
「ボラには無理して来なくていいんだ。ここは仕事じゃない」
声が少し揺れる。
それでも続ける。
「嫌なら、来なくてもいい」
沈黙。
彼はしばらく考えていた。
それから、肩をすくめた。
「嫌ってわけじゃないですよ」
顔を上げる。
「彼女にも、ここでの話はしてます」
一瞬、時間が止まる。
「アヤさんの説明が熱いとか、面白い人がいるって」
……面白い?
思わず聞き返す。
「いい意味で、ですよ」
彼は笑う。
「普通、そこまで本気にならないですから。そうやって振り切れるの、すごいと思ってます」
まっすぐな声だった。
「僕はどちらかというと普通なので」
軽く肩をすくめる。
「そういうところ、僕は好きですよ」
「尊敬もしてますし」
胸の奥が跳ねる。
好き。
その言葉が、思ったより深く落ちる。
私は顔を逸らした。
「……そうか」
それしか言えなかった。
夕方の光が、ホワイトボードの線をぼんやり照らしている。
軌道は静かに重なっている。
それから。
彼と話す時間は、少しずつ増えていった。
観測の話。団体の話。どうでもいい雑談。
気づけば、会議が終わったあとも二人で残ることが増えた。
私は知っていた。
この一年ずっと。
私は、彼に惹かれていた。
それなのに。
……どうして、あんな言い方をしたんだろう。
この間の会議室。
「私には伝わってこない」
あの言葉。
胸の奥が、また少し痛んだ。
次、どんな顔で会えばいいのか。
私には、まだ分からなかった。
# 4
次の定例会。
会議が終わったあと、コアメンバーに残ってもらった。
公民館の会議室。いつものメンバー。
私は資料を机に置いたまま、少しだけ視線を落としていた。
この間の会話が、まだ頭の奥に残っている。
「クリスマス観望会の件だが」
声を出す。
「一度、やめよう」
静かだった。
反対は出ない。
正式決定ではない企画だ。
それでも、部屋の空気が少しだけ動いた。
「理由は?」
誰かが聞く。
「参加者の見込みが立たない。年末は人も動く」
私は淡々と続ける。
「団体としては、安定を優先する」
代表の声。
ユウトの方は見なかった。
見たら、言葉が崩れそうだったからだ。
少し沈黙があって、彼の声が聞こえた。
「僕は……」
そこで止まる。
私は小さく首を振った。
「いや、いい」
それ以上、言わせない。
「今回は見送ろう。来年度に改めて提案する」
会議はそれで終わった。
誰も、その決定を深く追及しなかった。
*
会議が終わると、私はすぐ帰った。
誰とも話さず、公民館を出る。
住宅街の夜道を歩く。
街灯の光が、ぽつぽつと続いている。
……やめる必要はあったのか。
自分でもよく分からない。
でも、あのまま続けるのは少し怖かった。
もし、また同じだったら。もし、彼が何も言わなかったら。
それを確かめる勇気が、少し足りなかった。
マンションに着く。
鍵を開けて、部屋の灯りをつける。
コートを脱ぎ、ソファに座る。
そのとき、スマホが震えた。
後輩の瑠璃からだった。
《アヤさん》
《観望会、やることになりました》
一瞬、意味が分からない。
続けてメッセージが届く。
《ユウトさんがLINEで、やりましょうって》
胸の奥が、ふっと熱くなる。
……え。
画面を見つめる。
《人数絞ればいけると思うって》
スマホを持つ手が、少しだけ震える。
……ユウト。
会議では何も言わなかったのに。
ソファに背を預ける。
胸の奥が、じんわり温かい。
――もしかして、私のこと……
そんな考えが浮かんで、すぐに顔を覆った。
何を考えてるんだ、私は。
でも。
もしそうだとしたら。
もし、そういう意味だったら。
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
まるで恋愛小説みたいだ。
困ったときに、何も言わず助けてくれる人。
……いやいや。
そんな都合のいい話、あるわけない。
スマホを胸の上に置く。
天井を見る。
さっきまでの落ち込みが、少しだけ別のものに変わっていた。
でも、そのあとすぐ、別の気持ちが押し寄せる。
……私は何をしているんだろう。
自分で始めた企画なのに。
逃げて。
何も説明せずに帰って。
彼にフォローさせて。
……ひどい。
ソファのクッションを抱き寄せる。
顔を埋める。
それでも、胸の奥の温かさは消えない。
しばらくして、スマホを手に取る。
メッセージを打とうとして、やめる。
――彼に会ったら、ちゃんと話そう。
謝ろう。
それから。
それから、どうするかは。
そのとき考えればいい。
私は小さく息を吐いた。
# 5
水曜の夕方は、ノー残業デーだ。
早く帰れると分かっても、まっすぐ家に向かう気にはなれなかった。
理由はいくらでもあった。買い物とか、本屋とか、ついでとか。
実際、モールの中の服屋でセーターを一枚買った。
紙袋をぶら下げたまま、店を出る。
……でも、本当は違う。
私はショッピングモールの中を歩きながら、小さく息を吐いた。
――プレゼント。
クリスマス観望会。あの企画は団体のためでもある。
そう自分に言い聞かせながら、店をひとつ、またひとつと覗く。
でも途中で立ち止まる。
……分からない。
男の人が何を喜ぶのかなんて、全然分からない。
私は外のウッドデッキに出た。
冬の風が、頬を刺す。
「……はぁ、帰ろ」
結局、何も買えなかった。
モールを出て、通りを歩く。
石畳の道に街灯が灯り始める。
遠くで車の音が流れていく。
足取りは少し重かった。
……そのとき。
「アヤさん」
背後から声がした。
心臓が、跳ねた。
ゆっくり振り返る。
そこにいたのは、ユウトだった。
紙袋を持った私を見て、少しだけ驚いた顔をしている。
「……偶然だな」
「そうですね」
沈黙。
胸の奥がうるさい。
「この前の話、答えを言いに来ました」
眉がわずかに動く。
「もういいと言ったはずだ」
「よくないです」
ざわめきの中で、声だけが妙に澄んでいた。
「“選ぶ”って何か、考えました」
彼は黙っている。
逃げない。
その視線だけで、胸が苦しくなる。
「僕はずっと、ちゃんとやってるつもりでした。仕事も、団体も、人間関係も」
一拍。
「でも、それは選んでなかった」
……この男は。
どうして、こういうことを真面目な顔で言うんだ。
「……今さらだな」
声が少し細くなる。
「今さらです。でも」
彼は続ける。
「去年のクリスマス、公園に行きました」
息が止まる。
「約束は、もう意味がないって分かってた。でも、行かなきゃいけない気がした」
「迎えに来てくれましたよね」
沈黙。
あの夜。
ベンチ。
冷たい空気。
何も言えなかった自分。
……全部覚えている。
あの夜の記憶を――今年こそ上書きしたかった。
「星を見に来ただけだ、って」
私は目を逸らした。
「……覚えているのか」
「忘れられません」
彼の声は静かだった。
「アヤさんは、何も言わないのに、いなくならない」
その言葉が胸に刺さる。
「だから僕は、甘えてた」
言い切る。
「あなたが離れないと、どこかで思ってた」
胸の奥が、少しだけ痛む。
「……私は」
声が掠れる。
「離れた方がいいと思っていた」
笑ってしまう。乾いた音だった。
「私は、本気になると人が離れていく。昔からそうだ」
紙袋の持ち手を強く握る。
「重いんだよ、私は」
視線を上げる。
「仕事も、団体も、恋愛も。本気になった瞬間、相手は息苦しくなる」
言葉が止まる。
「だから、選ばれない」
彼は黙っている。
逃げない。それが余計に苦しい。
「去年だって、迎えに行ったのは」
少しだけ言葉を探す。
「お前がひとりでいるのが嫌だっただけだ」
彼が一歩近づく。
「アヤさん」
「だめだ」
即座だった。
「それ以上、言うな」
怖かった。
これ以上聞いたら、全部壊れる気がした。
「私は知ってる」
息が浅くなる。
「私は、その辺の男に惹かれないんだ」
「お前には、私が本気で惚れるだけの価値がある」
言ってしまった。
もう止まらない。
「でもな」
喉が詰まる。
「私には、お前と並ぶ資格なんてない」
言葉が落ちる。
「素直じゃなくて、偉そうで、理屈ばかりで……」
「お前まで傷つけて……」
拳を握る。涙をこらえる。
「お前だって、こんな女と付き合いたいなんて思わないだろ」
沈黙。
彼が、少しだけ笑う。
「……それって」
「一緒にいたいってことですよね」
頭が真っ白になる。
「違う」
反射的に返す。
でも声が弱い。
「だって、そんな言い方されたら、“そんな事ない”っていうしかないじゃないですか」
睨む。
……この男。
「ああ、もう」
彼が一歩近づく。
距離が縮まる。
「逃げません」
短い言葉。
胸が強く鳴る。
「一緒にいたいと思ってます」
そんな簡単に言うな。
こっちは、どれだけ――
「ずっと見てきた。だから分かります」
視線が真っ直ぐだ。
逃げない。
「全部、好きなんです」
その言葉が胸に落ちる。
私はしばらく黙っていた。
笑うしかなかった。
「……ずるいな」
「何がです?」
「そんな顔で言うな」
視線が揺れる。
心のどこかが、崩れていく。
「私は、選ばれない側でいるつもりだったのに……」
言葉が止まる。
沈黙。
そして。
気づけば私は、彼に近づいていた。
「アヤさん?」
彼が言う。
その瞬間。
私は手を伸ばして、悔しながらにキスをした。
街灯の光が、彼の頬を照らしていた。
顔を伏せたまま、もう一度だけ唇を重ねる。
理由も理屈も、まだ追いつかない。
でも。
今はただ、この手を離したくなかった。
***
スクロールの指を止める。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
斎木がマウスを動かし、ページの一番下まで送る。
「……終わりですね」
画面には短いあとがきが表示されていた。
『読んでくださってありがとうございました。
これは彼氏と一緒に書いた、実験作です。
同じ出来事を、男女それぞれの視点で書いてみました。
男性側の物語はこちらです。』
その下にリンクがある。
斎木がクリックする。
数秒後、見覚えのあるページが開いた。
中山悠太のアカウント。
この間、読んだ小説だ。
斎木が小さく息を漏らす。
「なるほど」
「何だ」
「同じ出来事を書いてるなら……内容の確認はし合ってるってことですよね」
少し間を置く。
「少なくとも、片方だけの妄想ではない」
俺は画面を見たまま頷いた。
「投稿日も二年半前ですし」
斎木が続ける。
「事件とは、今のところ直接は関係なさそうです」
俺は背もたれに体を預けた。
恋愛小説。
確かに内容に大きな齟齬はない。
だが、読み比べると少しずつ違う。
中山の文は、出来事を整える。
川原の文は、感情を前へ出す。
同じことが起きているはずなのに、責任の所在だけが、少しずつ滑っていく。
「……そうだな」
俺がそう言うと、斎木はノートを閉じた。
「じゃあ、小説の件は一旦置きますか」
「ああ」
椅子から立ち上がる。
「小説の中じゃなくて、外の話を聞こう」
「職場ですね」
「区役所だったな」
斎木がキーボードを叩く。
「区民課です」
俺は頷く。
「まず周囲の評価だ」
「了解です」
斎木がメモを取る。
「穏やかで感じがいいタイプなら、だいたい同じこと言われそうですけどね」
俺はドアに手をかけた。
「それでも聞く」
「はい」
ドアを開ける。
廊下の蛍光灯が白く続いている。
俺は一度だけ振り返った。
パソコンの画面はもう暗い。
恋愛小説。
それ以上でも、それ以下でもない。
今のところは。
「行くぞ」
「はい」
俺たちは、そのまま廊下を歩き出した。




