第三章 同期
川原綾乃の周辺には、いくつか当たってみた。
天文ボランティアの後輩。
職場の同僚。
どちらの証言も、決定打にはならない。
ボランティアのほうでは、中山の小説に近い顔が語られた。
企画を前へ引っぱる中心人物。面倒見がよく、口調は強いが、やることはちゃんとやる。怒ると怖いが、あとで必ずフォローを入れる。そういう、少し扱いにくいが頼りになる大人。
恋人の話を知っている者もいた。
「三年前から付き合ってるって聞きました」
「でも、付き合うまでが長かったんですよ。なんか、周りのほうが先に気づいてた感じで」
「二人ともはっきりしないから、こっちがやきもきしてました」
そういう話だった。
一方、職場では少し違う。
仕事はできる。
理屈っぽい。
気が強い。
少し変わっている。
その言葉だけを並べると、同じ人物には見える。だが、温度が違った。
ボランティアで語られる川原には、どこか人を巻き込む熱があった。
職場で語られる川原には、輪郭の硬さがあった。
恋人がいるという話は聞いたことがある。
ただ、詳しくは知らない。
そう答える同僚が多い中で、ひとりだけ名前が挙がった。
同期の女性。
川原が、たまに会っていた相手だという。
*
翌日の午前。署の小会議室。
窓際に置かれた観葉植物は、葉の先が少し茶色くなっていた。エアコンの風が直接当たる場所に置かれているせいだろう。斎木がノートパソコンを開き、オンライン会議の接続を待つ。
画面の隅で、くるくると読み込みの輪が回る。
「こういうの、毎回ちょっと緊張しますね」
斎木が言う。
「何がだ」
「向こうのマイクが入ってるかどうか分からない時間です」
「そこか」
「こっちの雑談、全部聞こえてたら嫌じゃないですか」
たしかに、と思う前に画面が切り替わった。
女性が映った。
自宅らしい。白い壁、後ろに低い棚。棚の上には、絵本が数冊横倒しに積まれている。イヤホンのコードが肩口で揺れていた。
髪はひとつにまとめられ、化粧気は薄い。仕事の合間か、育児の合間か、そのどちらともつかない顔だった。画面越しでも、寝不足の薄い影が目元に見える。
「川原さんの同期の……」
「三浦です」
女性は短く名乗った。
声が少し硬い。
俺は軽く会釈する。
「遠藤です。こちら、斎木」
斎木も頭を下げる。画面の中で、三浦は一瞬だけこちら二人を見比べた。
言葉を置く。
「川原綾乃さんが亡くなられました」
女性は一度だけ、ゆっくり瞬きをした。
それから視線を少し落とす。
「……そう、なんですか」
驚いていないわけじゃない。
ただ、すぐには実感が追いついていない顔だった。
訃報を聞いた人間が、必ずしも劇的な反応をするわけではない。悲しみや驚きは、遅れてくることもある。とくに、日常の途中にいる人間には。
「最近、連絡は取っていましたか」
「いえ……ここしばらくは。最後にやり取りしたの、たぶん先月です」
少し考えながら答える。
「子どもの熱がどうとか、仕事が立て込んでるとか、そういうので、お互いあまり……」
そこで言葉を切った。
言い訳みたいに聞こえたと思ったのか、口元だけわずかにこわばる。
「事故か事件かも含めて、確認が必要です。お話を伺えますか」
「……分かりました」
そのとき、画面の外から小さな泣き声が聞こえた。
高い声ではない。眠りの浅い子どもが、ぐずる前に漏らすような短い声。
三浦の肩がわずかに動く。
「すみません。子どもが」
ミュートにして席を外す。
数秒、泣き声だけが聞こえる。
正確には、ミュートにする前に少し漏れた声と、画面の向こうで何かを持ち上げる気配だけが残った。
斎木が、ごく小さく「あるあるですね」と呟いた。
「何がだ」
「寝たと思ったら、です」
「経験則か」
「現在進行形です」
それだけ言って、斎木はまた画面に目を戻した。
やがて三浦が戻ってくる。
髪を耳にかけ直して、少しだけ息を整える。肩のあたりに、さっきまではなかった小さなタオルがかかっていた。
「失礼しました」
「いえ」
俺は頷く。
「川原さんとは、どれくらいの関係でしたか」
「同期です。同じ年に入社して」
少し間を置く。
「すごく仲がいい、ってほどじゃないです。年に一回くらい食事して、あとはたまにスマホでやり取りする程度で」
それから、言い足す。
「でも……完全に疎遠、でもなかったです」
声は控えめだったが、その一文だけ少し残った。
完全に疎遠ではない。
この手の言い方には、いくつかの意味がある。
親友ではない。
だが、切れてもいない。
何かあれば思い出すし、たまに連絡する。
そのくらいの関係が、人の本音を一番よく知っていることもある。
「川原さんは、どんな人でしたか」
「……変わってる人、ですね」
少し迷ってから言う。
「理系っぽいというか。理屈っぽいし、仕事も真面目だし。会議で言うことも筋は通ってるんですけど、言い方はわりと容赦なくて」
苦笑する。
「たぶん、苦手な人は苦手だったと思います」
「三浦さんは?」
女性は一瞬だけ目を上げた。
「私は……」
短く息を吸う。
「私は、嫌いじゃなかったです」
すぐには続けない。
「面倒くさい人だなって思うことは、ありましたけど」
少しだけ笑う。
だが、そこに悪意はない。
「でも、嘘はつかない人でした。少なくとも、仕事では」
俺は黙って聞く。
「大学は?」
「理系大学院です。宇宙系の学部に行きたかったらしいんですけど」
女性は肩をすくめた。
「学力が足りなかったって、自分で言ってました。ああいうこと、自分から先に言う人だったんです。傷つく前に、自分でネタにしちゃうというか」
少しだけ目線が逸れる。
「でも、言い方が明るいわけじゃないんですよ。笑ってるのに、笑わせる気はないみたいな」
「それで今の会社に?」
「ええ」
「恋愛の話は」
女性は一瞬だけ眉を動かした。
聞かれると思っていた顔だった。
「あまりしない人でした」
「しない?」
「昔、大学院のときに変な男に騙されたらしくて」
言葉を選ぶ。
「詳しくは聞いてません。聞かせるつもりもなかったんだと思います」
少し間。
「それで、“女やめた”って言ってました」
俺は黙っている。
「冗談みたいに言うんですけど、あれは半分ほんとだった気がします」
声が少しだけ低くなる。
「だから、恋愛とか結婚とか、そういうのは距離置いてる人だと思ってました。少なくとも、自分から入っていくタイプには見えなかった」
「でも三年前に?」
斎木が口を挟む。
女性が頷く。
「そうです、そうです。急に“彼氏できた”って言い出して」
「どんな相手でしたか」
「年下って言ってました。公務員だったかな」
少し視線を上げる。
「正直、驚きました」
「なぜ」
「だって、“女やめた”って言ってた人が急に恋人ですよ」
小さく笑う。
今度は少しだけ、昔を思い出す顔だった。
「しかも、言い方が……なんというか、浮かれてるわけじゃないんです。むしろ、やけに平然としてて」
「平然?」
「うまく言えないんですけど」
指先でイヤホンのコードをいじる。
コードの先が画面の端で白く揺れた。
「嬉しそうに見せたくない人、いるじゃないですか」
そこで、自分の言い方がおかしいと思ったのか、少しだけ首を振る。
「いえ、違うかな。見せたくないというより、見せ方が分からない人というか」
沈黙が落ちる。
画面の向こうで、子どもが小さく声を上げる。
三浦はそちらを気にしながらも、話を続けた。
「でも綾乃、外では強い感じですけど」
ふと思い出したように言う。
「中身は、普通の女の子でしたよ」
「普通の女の子?」
「小説とか書いてました」
俺は少しだけ顔を上げた。
「小説?」
「はい。恥ずかしいから誰にも言うなって言われてましたけど」
女性は苦笑する。
「恋愛ものです。ラブコメみたいな」
斎木がキーボードに手を置く。
打ち込む音が、いつもより少しだけ大きく聞こえた。
「投稿していた?」
「してたと思います。前に一回、リンクが送られてきたことがあって」
そこで、言葉が止まる。
「……たぶん、誰かに読んでほしかったんだと思います」
独り言みたいな声だった。
「でも同時に、笑われたくもなかったんでしょうね」
少しだけ口元が曇る。
「私、そのとき、似合わないねって言っちゃったんです」
「怒られました?」
「ええ。普通に」
小さく笑う。
ただ、その笑いは少しだけ乾いている。
「似合う似合わないで読ないでよって」
「あとで、悪かったかなとは思いました」
短い沈黙。
画面の向こうで、三浦が何かを気にして横を見た。
子どもが起きたのかもしれない。だが、今度は席を立たなかった。
「サイト名、分かりますか」
「はい。普通の投稿サイトです」
女性は少し迷う。
「ユーザー名も分かります」
視線が少し揺れる。
「……本人には秘密って言われてたんですけど」
俺は短く答えた。
「確認が必要です」
女性はすぐには頷かなかった。
画面の向こうで、ほんの一瞬だけ唇を結ぶ。
「綾乃、こういうのだけは妙に子どもっぽくて」
誰に向けるでもなく言う。
「隠してるくせに、読んでほしがるんですよ」
それから小さく息を吐いた。
「……分かりました」
チャット欄に文字が打ち込まれる。
送信音。
斎木の画面に通知が出る。
「これです」
「ありがとうございます」
女性は軽く頷いた。
「仕事してるときの綾乃からは、ちょっと想像つかないんですけど」
少しだけ口調が柔らかくなる。
「書いてるものは、わりと可愛かったですよ。ああいうの、本当は好きなんだなって思いました」
一拍置いて、続ける。
「でも、ちょっと安心したのを覚えてます」
「安心?」
「ちゃんと、好きになったり傷ついたりするんだなって」
そこで自分でも言いすぎたと思ったのか、女性は視線を落とした。
「……すみません。今のは忘れてください」
それだけ言って、会議は終わった。
終わる直前、画面の端に小さな手が一瞬だけ映った。
三浦が慌ててそれを抱き上げるようにして、通信が切れた。
*
画面が暗くなる。
斎木がユーザー名をコピーして、投稿サイトを開いた。
検索窓に貼り付ける。
数秒後、ページが切り替わる。
「……出ました」
画面をこちらへ向ける。
投稿作品の一覧。
タイトルが縦に並んでいる。
ざっと見ただけで、空気は分かった。
「ライトノベルですね」
斎木が言う。
確かにそうだった。
軽いタイトル。恋愛もの。短めの連載。星や天文を匂わせる言葉も、ところどころ混じっている。
「ずいぶん書いてるな」
「十本くらいですかね。短編も入れたら、もう少しあります」
斎木が一つクリックする。
ページが開く。
数行だけ目で追って、すぐにスクロールする。
「……まあ、普通ですね」
「普通?」
「ラブコメです。大学のサークルで出会って、女の子がちょっと強気で、男が振り回される感じ」
「お前、ずいぶん早いな」
「テンプレってありますから」
もう一つ開く。
また数行読む。
斎木の眉が、ほんの少し動いた。
「ん?」
「どうした」
「いや……ちょっと待ってください」
スクロールを戻す。
「この台詞」
そこには、こう書かれていた。
『おい』
『アヤさん。今日も早いですね』
どこかで見た気がする。
俺は、隣の画面を思い出す。
「……中山の小説だ」
斎木がすぐに別タブを開く。
数秒、二つの画面を見比べる。
「同じですね」
文章そのものは違う。
だが、会話の芯が同じだった。
斎木が小さく息を吐く。
「もしかして、これ……」
「同じ出来事かもしれんな」
「視点違い、ってやつですか」
「ああ」
俺は画面を見たまま答える。
「かもしれん」
斎木が椅子を少し寄せる。
キャスターが床で低く鳴った。
「最初から読みます?」
「ああ」
画面のスクロールが上へ戻る。
タイトルが表示される。
ラブコメらしい、軽い名前だった。
事件現場の冷えた床や、取調室の白い光とは、どうにも結びつかない。
その下に、本文が続いている。
俺たちは何も言わず、画面を見た。
事件とは関係ないかもしれない。
ただの恋愛小説かもしれない。
それでも。
同じ台詞が、そこにあった。
斎木が小さく言う。
「……読んでみましょうか」
「そうだな」
今度は、彼女の視点だった。




