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第三章 同期

川原綾乃の周辺には、いくつか当たってみた。


天文ボランティアの後輩。

職場の同僚。


どちらの証言も、決定打にはならない。


ボランティアのほうでは、中山の小説に近い顔が語られた。


企画を前へ引っぱる中心人物。面倒見がよく、口調は強いが、やることはちゃんとやる。怒ると怖いが、あとで必ずフォローを入れる。そういう、少し扱いにくいが頼りになる大人。


恋人の話を知っている者もいた。


「三年前から付き合ってるって聞きました」


「でも、付き合うまでが長かったんですよ。なんか、周りのほうが先に気づいてた感じで」


「二人ともはっきりしないから、こっちがやきもきしてました」


そういう話だった。


一方、職場では少し違う。


仕事はできる。

理屈っぽい。

気が強い。

少し変わっている。


その言葉だけを並べると、同じ人物には見える。だが、温度が違った。


ボランティアで語られる川原には、どこか人を巻き込む熱があった。

職場で語られる川原には、輪郭の硬さがあった。


恋人がいるという話は聞いたことがある。

ただ、詳しくは知らない。


そう答える同僚が多い中で、ひとりだけ名前が挙がった。


同期の女性。


川原が、たまに会っていた相手だという。



翌日の午前。署の小会議室。


窓際に置かれた観葉植物は、葉の先が少し茶色くなっていた。エアコンの風が直接当たる場所に置かれているせいだろう。斎木がノートパソコンを開き、オンライン会議の接続を待つ。


画面の隅で、くるくると読み込みの輪が回る。


「こういうの、毎回ちょっと緊張しますね」


斎木が言う。


「何がだ」


「向こうのマイクが入ってるかどうか分からない時間です」


「そこか」


「こっちの雑談、全部聞こえてたら嫌じゃないですか」


たしかに、と思う前に画面が切り替わった。


女性が映った。


自宅らしい。白い壁、後ろに低い棚。棚の上には、絵本が数冊横倒しに積まれている。イヤホンのコードが肩口で揺れていた。


髪はひとつにまとめられ、化粧気は薄い。仕事の合間か、育児の合間か、そのどちらともつかない顔だった。画面越しでも、寝不足の薄い影が目元に見える。


「川原さんの同期の……」


「三浦です」


女性は短く名乗った。

声が少し硬い。


俺は軽く会釈する。


「遠藤です。こちら、斎木」


斎木も頭を下げる。画面の中で、三浦は一瞬だけこちら二人を見比べた。


言葉を置く。


「川原綾乃さんが亡くなられました」


女性は一度だけ、ゆっくり瞬きをした。

それから視線を少し落とす。


「……そう、なんですか」


驚いていないわけじゃない。

ただ、すぐには実感が追いついていない顔だった。


訃報を聞いた人間が、必ずしも劇的な反応をするわけではない。悲しみや驚きは、遅れてくることもある。とくに、日常の途中にいる人間には。


「最近、連絡は取っていましたか」


「いえ……ここしばらくは。最後にやり取りしたの、たぶん先月です」


少し考えながら答える。


「子どもの熱がどうとか、仕事が立て込んでるとか、そういうので、お互いあまり……」


そこで言葉を切った。


言い訳みたいに聞こえたと思ったのか、口元だけわずかにこわばる。


「事故か事件かも含めて、確認が必要です。お話を伺えますか」


「……分かりました」


そのとき、画面の外から小さな泣き声が聞こえた。

高い声ではない。眠りの浅い子どもが、ぐずる前に漏らすような短い声。


三浦の肩がわずかに動く。


「すみません。子どもが」


ミュートにして席を外す。


数秒、泣き声だけが聞こえる。

正確には、ミュートにする前に少し漏れた声と、画面の向こうで何かを持ち上げる気配だけが残った。


斎木が、ごく小さく「あるあるですね」と呟いた。


「何がだ」


「寝たと思ったら、です」


「経験則か」


「現在進行形です」


それだけ言って、斎木はまた画面に目を戻した。


やがて三浦が戻ってくる。

髪を耳にかけ直して、少しだけ息を整える。肩のあたりに、さっきまではなかった小さなタオルがかかっていた。


「失礼しました」


「いえ」


俺は頷く。


「川原さんとは、どれくらいの関係でしたか」


「同期です。同じ年に入社して」


少し間を置く。


「すごく仲がいい、ってほどじゃないです。年に一回くらい食事して、あとはたまにスマホでやり取りする程度で」


それから、言い足す。


「でも……完全に疎遠、でもなかったです」


声は控えめだったが、その一文だけ少し残った。


完全に疎遠ではない。

この手の言い方には、いくつかの意味がある。


親友ではない。

だが、切れてもいない。

何かあれば思い出すし、たまに連絡する。

そのくらいの関係が、人の本音を一番よく知っていることもある。


「川原さんは、どんな人でしたか」


「……変わってる人、ですね」


少し迷ってから言う。


「理系っぽいというか。理屈っぽいし、仕事も真面目だし。会議で言うことも筋は通ってるんですけど、言い方はわりと容赦なくて」


苦笑する。


「たぶん、苦手な人は苦手だったと思います」


「三浦さんは?」


女性は一瞬だけ目を上げた。


「私は……」


短く息を吸う。


「私は、嫌いじゃなかったです」


すぐには続けない。


「面倒くさい人だなって思うことは、ありましたけど」


少しだけ笑う。

だが、そこに悪意はない。


「でも、嘘はつかない人でした。少なくとも、仕事では」


俺は黙って聞く。


「大学は?」


「理系大学院です。宇宙系の学部に行きたかったらしいんですけど」


女性は肩をすくめた。


「学力が足りなかったって、自分で言ってました。ああいうこと、自分から先に言う人だったんです。傷つく前に、自分でネタにしちゃうというか」


少しだけ目線が逸れる。


「でも、言い方が明るいわけじゃないんですよ。笑ってるのに、笑わせる気はないみたいな」


「それで今の会社に?」


「ええ」


「恋愛の話は」


女性は一瞬だけ眉を動かした。

聞かれると思っていた顔だった。


「あまりしない人でした」


「しない?」


「昔、大学院のときに変な男に騙されたらしくて」


言葉を選ぶ。


「詳しくは聞いてません。聞かせるつもりもなかったんだと思います」


少し間。


「それで、“女やめた”って言ってました」


俺は黙っている。


「冗談みたいに言うんですけど、あれは半分ほんとだった気がします」


声が少しだけ低くなる。


「だから、恋愛とか結婚とか、そういうのは距離置いてる人だと思ってました。少なくとも、自分から入っていくタイプには見えなかった」


「でも三年前に?」


斎木が口を挟む。


女性が頷く。


「そうです、そうです。急に“彼氏できた”って言い出して」


「どんな相手でしたか」


「年下って言ってました。公務員だったかな」


少し視線を上げる。


「正直、驚きました」


「なぜ」


「だって、“女やめた”って言ってた人が急に恋人ですよ」


小さく笑う。

今度は少しだけ、昔を思い出す顔だった。


「しかも、言い方が……なんというか、浮かれてるわけじゃないんです。むしろ、やけに平然としてて」


「平然?」


「うまく言えないんですけど」


指先でイヤホンのコードをいじる。

コードの先が画面の端で白く揺れた。


「嬉しそうに見せたくない人、いるじゃないですか」


そこで、自分の言い方がおかしいと思ったのか、少しだけ首を振る。


「いえ、違うかな。見せたくないというより、見せ方が分からない人というか」


沈黙が落ちる。


画面の向こうで、子どもが小さく声を上げる。

三浦はそちらを気にしながらも、話を続けた。


「でも綾乃、外では強い感じですけど」


ふと思い出したように言う。


「中身は、普通の女の子でしたよ」


「普通の女の子?」


「小説とか書いてました」


俺は少しだけ顔を上げた。


「小説?」


「はい。恥ずかしいから誰にも言うなって言われてましたけど」


女性は苦笑する。


「恋愛ものです。ラブコメみたいな」


斎木がキーボードに手を置く。

打ち込む音が、いつもより少しだけ大きく聞こえた。


「投稿していた?」


「してたと思います。前に一回、リンクが送られてきたことがあって」


そこで、言葉が止まる。


「……たぶん、誰かに読んでほしかったんだと思います」


独り言みたいな声だった。


「でも同時に、笑われたくもなかったんでしょうね」


少しだけ口元が曇る。


「私、そのとき、似合わないねって言っちゃったんです」


「怒られました?」


「ええ。普通に」


小さく笑う。

ただ、その笑いは少しだけ乾いている。


「似合う似合わないで読ないでよって」


「あとで、悪かったかなとは思いました」


短い沈黙。


画面の向こうで、三浦が何かを気にして横を見た。

子どもが起きたのかもしれない。だが、今度は席を立たなかった。


「サイト名、分かりますか」


「はい。普通の投稿サイトです」


女性は少し迷う。


「ユーザー名も分かります」


視線が少し揺れる。


「……本人には秘密って言われてたんですけど」


俺は短く答えた。


「確認が必要です」


女性はすぐには頷かなかった。

画面の向こうで、ほんの一瞬だけ唇を結ぶ。


「綾乃、こういうのだけは妙に子どもっぽくて」


誰に向けるでもなく言う。


「隠してるくせに、読んでほしがるんですよ」


それから小さく息を吐いた。


「……分かりました」


チャット欄に文字が打ち込まれる。

送信音。


斎木の画面に通知が出る。


「これです」


「ありがとうございます」


女性は軽く頷いた。


「仕事してるときの綾乃からは、ちょっと想像つかないんですけど」


少しだけ口調が柔らかくなる。


「書いてるものは、わりと可愛かったですよ。ああいうの、本当は好きなんだなって思いました」


一拍置いて、続ける。


「でも、ちょっと安心したのを覚えてます」


「安心?」


「ちゃんと、好きになったり傷ついたりするんだなって」


そこで自分でも言いすぎたと思ったのか、女性は視線を落とした。


「……すみません。今のは忘れてください」


それだけ言って、会議は終わった。


終わる直前、画面の端に小さな手が一瞬だけ映った。

三浦が慌ててそれを抱き上げるようにして、通信が切れた。



画面が暗くなる。


斎木がユーザー名をコピーして、投稿サイトを開いた。


検索窓に貼り付ける。

数秒後、ページが切り替わる。


「……出ました」


画面をこちらへ向ける。


投稿作品の一覧。

タイトルが縦に並んでいる。


ざっと見ただけで、空気は分かった。


「ライトノベルですね」


斎木が言う。


確かにそうだった。

軽いタイトル。恋愛もの。短めの連載。星や天文を匂わせる言葉も、ところどころ混じっている。


「ずいぶん書いてるな」


「十本くらいですかね。短編も入れたら、もう少しあります」


斎木が一つクリックする。


ページが開く。

数行だけ目で追って、すぐにスクロールする。


「……まあ、普通ですね」


「普通?」


「ラブコメです。大学のサークルで出会って、女の子がちょっと強気で、男が振り回される感じ」


「お前、ずいぶん早いな」


「テンプレってありますから」


もう一つ開く。

また数行読む。


斎木の眉が、ほんの少し動いた。


「ん?」


「どうした」


「いや……ちょっと待ってください」


スクロールを戻す。


「この台詞」


そこには、こう書かれていた。


『おい』

『アヤさん。今日も早いですね』


どこかで見た気がする。


俺は、隣の画面を思い出す。


「……中山の小説だ」


斎木がすぐに別タブを開く。

数秒、二つの画面を見比べる。


「同じですね」


文章そのものは違う。

だが、会話の芯が同じだった。


斎木が小さく息を吐く。


「もしかして、これ……」


「同じ出来事かもしれんな」


「視点違い、ってやつですか」


「ああ」


俺は画面を見たまま答える。


「かもしれん」


斎木が椅子を少し寄せる。

キャスターが床で低く鳴った。


「最初から読みます?」


「ああ」


画面のスクロールが上へ戻る。

タイトルが表示される。


ラブコメらしい、軽い名前だった。

事件現場の冷えた床や、取調室の白い光とは、どうにも結びつかない。


その下に、本文が続いている。


俺たちは何も言わず、画面を見た。


事件とは関係ないかもしれない。

ただの恋愛小説かもしれない。


それでも。


同じ台詞が、そこにあった。


斎木が小さく言う。


「……読んでみましょうか」


「そうだな」


今度は、彼女の視点だった。

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