第二章 私小説
#1 熱意の瞳
「おい」
公民館の会議室で、背後から声がした。
振り返ると、アヤが立っていた。
天文ボランティア団体の中心人物で、僕より年上。肩までの黒髪をひとつにまとめ、紺のジャケットの袖を折っている。研究職というより、人前で何かを説明することに慣れた人の立ち方だった。背筋がまっすぐで、片手にはいつも何かしら資料を持っている。
「アヤさん。今日も早いですね」
僕がそう言うと、彼女は眉を少しだけ上げた。
「早くないだろ。……まあ、話があってな」
彼女は最初から敬語を使わない。
最初は戸惑ったが、慣れるとむしろ楽だった。こちらが余計に気を遣いすぎなくていい。少なくとも、そう思うことにしていた。
僕は区役所で働いている。窓口に立っていると、相手の感情に合わせて言い方を調整するのが、半分仕事みたいなものだ。怒っている人には少し低い声で、焦っている人にはゆっくりと、よく分かっていない人には同じことを別の言い方で。そういうことを毎日していると、思ったことをそのまま言う人間には、少し肩の力が抜ける。
「僕はアヤさんの暇つぶしの相手じゃないですけど」
軽い冗談のつもりで言った。
彼女は、ほんのわずかに目を細めた。
怒ったというより、予想していた反応と違ったときの顔に近い。
「……相変わらずだな。今日はちゃんとした話だ」
そう言って、彼女は僕の隣に腰を下ろした。
距離が少し近い。
僕は鞄を足元に置き直した。
置き直す必要は、別になかった。
「僕は特に話すことないですけどね」
「ここの活動、今のままでいいと思ってるか?」
会議室には、まだ他に誰もいない。
長机が三列。端の方に、前回誰かが置いていったペットボトルの空き容器が残っている。窓の外では、風に揺れた枝が、ガラスの向こうで擦れ合っていた。
「悪くないんじゃないですか。ちょうどいい感じで」
僕は答えた。
この団体の距離感は悪くない。仕事ほど重くなく、趣味ほど軽くもない。たまに集まって、星の話をして、企画を立てて、子どもたちに望遠鏡を覗かせる。今の自分には、そのくらいがちょうどよかった。
「素直じゃないな。いつも一番に来てるくせに」
「せっかくやるなら、って程度ですよ」
本気で変えたいわけじゃない。
でも、何もしない自分でいるのも落ち着かなかった。そういう中途半端さを、彼女はたぶん見ていた。
彼女は立ち上がり、演台の前へ移動した。
「クリスマスに観望会をやる」
言い切る口調だった。
「クリスマスに? 人、来ますかね」
「来るかどうかは、やってみないと分からない。星を見るには悪くない日だ」
天井を見上げる横顔は、まっすぐだった。
実際には天井に星なんてない。蛍光灯のカバーに、小さな虫の影がひとつ止まっているだけだった。
「観測ドームで望遠鏡を覗くだけですよ」
ここでいう観測ドームも、大げさなものじゃない。都の科学館別館の屋上にある、小さな円形の建屋だ。週末以外はほとんど人も来ないし、空調も少し古い。冬は床から冷える。
「それでいい」
彼女は言った。
「同じ星を見て、同じことを考える時間があってもいいだろう」
淡々とした言い方だった。
けれど、その一文だけ少し浮いて聞こえた。団体の企画説明というより、別の何かを言いかけて、途中で別の言葉に置き換えたような響きがあった。
「館長、許可出しますかね」
「仮では通してある。正式な申請も出す」
内ポケットから書類を取り出し、机の上に置く。
段取りはいつも早い。書類の角がきれいに揃っているところまで、彼女らしかった。
「本気ですね」
「私はいつも本気だよ」
そう言って、少しだけ笑った。
僕は視線を逸らした。
本気という言葉を、正面から受けるのは少し重い。自分がいつも、どこか半歩だけ引いていることを、急に見透かされたような気になる。
「それなら、港で星座の話をしてから山手の公園に移動するのはどうですか。雰囲気は出ると思いますけど」
冬の海の光景を思い浮かべながら言った。
海沿いの道。イルミネーション。凍ったような夜の空気。観光客が多いだろうな、と言ってから思った。
彼女は一瞬だけこちらを見た。
「港は人が多い。公園もあの時期は照明が強すぎる。団体でやる以上、場所は絞る」
即答だった。
やっぱり、と少しだけ思う。
「……ただ、星座の話は悪くないな」
全面否定ではなかった。
そのことに、少しだけ安心する。
「まだ案の段階だ。今日の定例会では触れない。まずは形を固める」
彼女は時計を見た。開始まであと十分。
廊下の向こうから、誰かの足音が近づいてくる。階段を上がってきた人が、途中で一度つまずいたような音もした。
「チラシの素案、お願いできるか」
「僕もですか?」
「当然だろう。コアメンバーなんだから。改善案も出してくれた。参加させないわけにはいかない」
少しだけ間を置いて、彼女は続けた。
「それに、クリスマスは空いてるだろう?」
冗談にしては、妙に具体的だった。
「特に予定はないですけど」
そう答えると、彼女はわずかに視線を外した。
「ああ、そうか」
その一言は、聞こえるか聞こえないかくらいだった。
「人が集まり始めたな。この話はまた改めて」
次の瞬間には、もう団体の代表の顔に戻っていた。
やがてメンバーが入り、定例会が始まった。
パイプ椅子を引く音。紙袋の擦れる音。誰かが「寒いですね」と言い、別の誰かが「さっき駅前で焼き芋売ってましたよ」と返した。
僕は席に座り直し、資料を開く。
さっきまでの会話は、少し遠くに押しやられた。
けれど、完全に消えたわけではなかった。
*
定例会が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
駅へ向かう道を歩きながら、僕は今日の会話を思い返していた。
街灯の下を通るたび、足元の影が前に伸びたり、後ろに倒れたりする。
アヤと出会ったのは、団体に顔を出し始めた最初の月だった。彼女はすでに中心に立ちつつあった。観測計画、予算、広報、施設側との調整。誰よりも具体的で、誰よりも熱心だった。
僕がここに来たのは、区役所の同僚に声をかけられたからだ。人手が足りないらしいから、顔を出してみないか。理由はその程度だった。
仕事とは別の場所で、少し役に立てればいい。
そのくらいの動機。
でも、彼女は違った。
本気で、この団体を前に進めようとしていた。
それを、少し眩しいと思っていた。
同時に、少し面倒だとも思っていた。
変わらないのは、自分の方かもしれない。
ホームに電車が滑り込む。
風が巻き起こり、コートの裾が軽く揺れた。
車内に入り、つり革を握る。
窓に映った自分の顔は、いつも通り落ち着いて見えた。
特別なことをしているわけじゃない。
できる範囲でやっているだけだ。
その考え自体は、今も間違っていないと思っている。
少なくとも、この頃の僕はそうだった。
#2 揺れない前髪
二週間後、子育て支援課との会合資料を準備していると、会議室の扉が静かに開いた。
アヤだった。
「今日は早いですね」
「いつもだろ」
少し呆れたような返事。
そのやり取りに、わずかな安心感がある。いつもと同じ、というのは、それだけで人を落ち着かせる。
彼女は演台の前に立ち、資料を机に置いた。姿勢はいつも通りまっすぐだったが、今日は少しだけ落ち着きがないように見えた。指先が、紙の端を二度、無意味に揃えた。
「館長の正式な了承は取れた。仮押さえじゃなくなった」
「早いですね」
「段取りはしておいたからな」
視線が向く。
「チラシは?」
「デザインは知り合いに頼んでます。文言はまだですけど、無難な形でまとめます」
無難。
波風が立たない、という意味で使った。
彼女は小さく頷いた。
「行動が早い。ありがとうな」
素直な言い方だった。
僕は少し戸惑う。感謝されるほどのことをしたつもりはなかった。
「大したことしてませんよ」
「いや。動かない人もいる」
沈黙が落ちる。
外でトラックが通ったのか、窓ガラスが低く震えた。
その振動が消えるまで、彼女は何も言わなかった。
彼女は資料を持ったまま、視線を少し落とした。
「……ひとつ聞いていいか」
「なんですか」
少し間があった。
「ユウトは、その……何を大事にしてる?」
唐突だった。
問いというより、確認に近かった。
あるいは、すでに彼女の中に答えがあって、それに僕がどう近づくのかを見ているような聞き方だった。
「急に言われても難しいですね。仕事も団体も、ちゃんとやろうとは思ってますよ」
少し考えて、付け足す。
「アヤさんみたいに、全部を懸ける覚悟はないですけど」
冗談に近いつもりだった。
彼女の視線が、そこでわずかに揺れた。
「……それは“ちゃんとやる”であって、“選ぶ”とは違う」
静かな声だった。
「選ぶ?」
「何かを優先することだ。本気になるとか、責任を負うとか」
言葉は落ち着いている。
けれど、逃げ道のない言い方だった。
「……本気じゃないわけじゃないですよ」
そう返しながら、自分でも曖昧だと分かった。
本気じゃないわけじゃない。
それは、ほとんど何も言っていないのと同じだった。
彼女は小さく息を吐く。
「私には伝わってこない」
短い。
だが、そのぶん残った。
「どうすれば伝わります?」
反射的に聞き返す。
言ったあとで、少しまずいと思った。
これでは、答えを相手に預けているだけだ。
彼女は一瞬目を伏せた。
「自分で考えろ」
声が低くなる。
「私に聞くことじゃない」
窓の外で風が鳴った。
書類の端が一枚だけ持ち上がり、すぐに落ちた。
「……そうですね」
それ以上、言葉は続かなかった。
彼女は資料を抱え直す。
「今日はここまでにしよう」
背を向ける。
そのとき、いつも整っている前髪が少しだけ乱れているのが見えた。
たぶん風のせいでも、急いで来たせいでもない。ほんの一房だけが、額にかかっていた。
それだけが、なぜか妙に印象に残った。
ドアが閉まる。
会議室には静けさが戻った。
さっきまで彼女のいた場所に、資料の紙の匂いだけが残っている気がした。
*
その夜、なかなか眠れなかった。
怒鳴られたわけでもない。責められたわけでもない。
ただ、「伝わってこない」という言葉だけが残っている。
何が足りなかったんだろう。
答えは出ない。
出そうとすると、かえって遠ざかる。
布団の中で何度か寝返りを打ち、スマートフォンを見て、また伏せた。
画面の明かりが消えたあとも、目の奥だけが冴えていた。
思考は自然と、一年前へ流れていった。
あれは、科学教室の日だった。
#3 悲しみの眉
「……ここが地球の軌道。小惑星はこのあたりを通ります」
ホワイトボードに描かれた楕円。
アヤは、子どもたちの前で身振りを交えながら説明していた。
「探査機は、まっすぐ飛ばすわけじゃない。重力を利用して、何度も軌道を修正します」
声は落ち着いていたが、熱があった。
僕は机を片付けながら、その説明を横で聞いていた。
資料を回収し、質問に答え、椅子を戻す。裏方の仕事は嫌いではない。目立たない方が、たぶん自分には向いている。
「先生、それ失敗しないの?」
前の席の子どもが聞く。
「失敗することもある。でも、だからやる価値があるんです」
即答だった。
迷いがない。
子どもは、分かったような、分からないような顔で頷いた。隣の子が消しゴムを落として、小さな音がした。
やがて教室は静まり、子どもたちは帰っていった。
ホワイトボードには、軌道だけが残る。
アヤはマーカーを置き、軽く息をついた。
「今日の説明、難しくなかったか?」
机を整えながら言う。
「少し背伸びした方が、印象に残りますよ」
僕はそう答えた。
「小惑星探査って、意外と手順が多いんですね」
軽い感想のつもりだった。
彼女は振り返る。
「聞いていたのか」
「一応」
「ユウトは、聞いてない顔でちゃんと聞いてる」
からかうようで、少し嬉しそうだった。
「全部理解してるわけじゃないですけど」
「それでも来る」
少し間があった。
「興味があるからか?」
夕方の光が、ホワイトボードの軌道を照らしている。
消し忘れた線が、光の中で薄く浮いていた。
「……暇だから、ですかね」
いつもの答えだった。
彼女は目を細めた。
「“暇だから”で片づけるのは、もったいない」
「他に言い方が思いつかなくて」
沈黙。
彼女は視線を落とし、それから少しだけ間を置いて言った。
「大学の頃から付き合っている人がいると聞いた」
唐突だったが、声は落ち着いていた。
「今も、続いているのか」
僕はペンを指先で転がした。
意味のない動作だった。
「続いていると言うか。社会人になってから、お互い忙しくて」
事実だけを並べる。
「会う機会も、連絡も減って……」
言いながら、自分の声が少し小さくなるのを感じた。
彼女は小さく頷く。
「詮索した。悪かった」
眉が、はっきり下がっている。
「ボラには無理して来なくていいんだ。ここは仕事じゃない」
抑えた声だったが、少し揺れていた。
その顔を見るのは、正直きつかった。
強い人が、ふと弱い部分を見せると、こちらが勝手に悪いことをしたような気になる。
だから、軽くするつもりで言った。
「嫌ってわけじゃないですよ」
彼女が顔を上げる。
「彼女にも、ここでの話はしてます」
一瞬、間が生まれる。
「アヤさんの説明が熱いとか、面白い人がいるって」
「……面白い?」
「いい意味で、ですよ」
少し笑う。
「普通、そこまで本気にならないですから。そうやって振り切れるの、すごいと思ってます」
本心だった。
「僕はどちらかというと普通なので」
軽く肩をすくめる。
「そういうところ、僕は好きですよ」
「尊敬もしてますし」
言葉にした瞬間、空気が少し変わった気がした。
好き。
尊敬。
どちらも本当だった。
ただ、その並べ方が正しかったのかどうかは、今でも分からない。
彼女は顔を逸らした。
「……そうか」
それだけだった。
*
あの日から、彼女は以前より僕に話しかけるようになった。
僕も理由をはっきりさせないまま参加を続けた。
居心地は悪くない。
刺激もある。
何かが動き始めている気もした。
それでも、あのときの眉の下がり方だけは、今も忘れられない。
あの質問は、興味の有無を確かめるための問いではなかったのかもしれない。
もっと個人的で、もっと具体的な何かを、彼女は探していた。
その可能性を、僕はその頃から知っていたような気もする。
#4 軌道修正
定例会が終わっても、アヤは席を立たなかった。
「コアだけ、少し残ってくれるか」
いつもより低い声だった。
三人が残る。
ドアが閉まり、会議室に静けさが戻る。
アヤは資料を開いたまま、視線を落としていた。
紙面には、クリスマス観望会の文字が見える。赤ペンで引かれた線が、いくつかあった。
「クリスマス観望会の件だが」
一拍置く。
「一度、やめよう」
誰もすぐには反応しなかった。
正式決定ではない。提案段階の企画だ。
それでも、空気ははっきり変わった。
「理由は?」
誰かが聞いた。
「参加者の見込みが立たない。人員も流動的だ」
淡々としている。
「団体としては、安定を優先する」
代表の声だった。
「ユウトはどう思う?」
振られる。
喉が少し乾く。
“選ぶ”。
あの言葉が、また頭をよぎる。
今なら言えるかもしれない。
何かを。少なくとも、曖昧ではない何かを。
「僕は……」
そこまでだった。
アヤは小さく首を振る。
「いや、いい。今回は見送ろう。来年度に改めて提案する」
決定の口調だった。
他の二人も異論は出さなかった。
出さなかった、というより、出せる空気ではなかった。
会議室を出るとき、アヤは鞄を肩にかけた。
「今日は先に帰る」
僕は背中に声をかけた。
「あの」
足は止まる。
振り返らない。
「この前の話、ちゃんと考えてます」
ようやく口にする。
沈黙。
廊下の蛍光灯が、一本だけ少しちらついていた。
「……そうか」
声は穏やかだった。
「団体の話と混ぜたのは、私の落ち度だ」
そこで初めて振り返る。
表情はいつも通りだが、少しだけ柔らかい。
「忘れてくれ」
そう言って、廊下の向こうへ消えた。
忘れてくれ。
それが、なかったことにしたい、という意味なのかどうかは分からなかった。
分からなかったが、胸の奥に何かが残った。
外へ出ると、冷たい空気が頬に触れる。
観望会はなくなった。
正式決定ではない企画が、静かに引っ込められただけだ。
それなのに、胸の奥が落ち着かない。
――やめる必要はあったのか。
駅へ向かいながら、コアメンバーのグループチャットを開く。
指が止まる。
代表の決定を覆すのは、筋が悪い。
それは分かっている。
でも。
《やっぱり、やれる方法を探しませんか》
送信する。
すぐに既読がつく。
《人数絞ればいけるかもですね》
《規模小さくするなら賛成です》
流れができる。
息が少し楽になる。
自分が何かを選んだような気がした。ほんの少しだけ。
《一度、僕から相談してみます》
送信。
数秒後、返信が来た。
《分かりました》
その下に、もう一文。
《……ユウトさんは、ズルいですね》
画面の光が、指先を白く照らす。
理由は書かれていない。
《え?》と打ちかけて、やめる。
すぐに続きが来た。
《いえ、何でもないです》
既読がつく。
誰もそれ以上書かない。
画面を閉じる。
ズルい。
その言葉が、どこかに残る。
けれど、深く考えないことにした。
観望会を形にすればいい。
それが一つの答えになる。
そう思えば十分だった。
#5 頬色の情熱
水曜の夕方、予定していた庁内研修が急きょ中止になった。
早く帰れると分かっても、まっすぐ家に向かう気にはなれなかった。
理由はいくらでもあった。買い物とか、本屋とか、駅前のドラッグストアで切れかけている歯磨き粉を買うとか、そういうついで。
けれど、足は自然に駅前のショッピングモールへ向かっていた。
自動ドアが開き、暖気が頬を撫でる。
フードコートの油の匂いと、雑貨屋の甘い香りが混ざっている。クリスマス前の店内には、少しだけ浮ついた音楽が流れていた。
人の流れに紛れようとしたとき、見慣れた横顔が視界に入った。
アヤだった。
服屋の紙袋を提げ、ショーウィンドウを見ている。
試着した服を買ったのか、ただ何かを選べずにいるのかは分からない。
考えるより先に声が出た。
「アヤさん」
肩が小さく跳ねる。
振り返り、驚きが一瞬だけ浮かんで、すぐに消えた。
「……偶然だな」
「そうですね」
沈黙。
彼女は紙袋を背中側に回した。
「買い物ですか」
「まあな」
目は逸らさない。
けれど、答えは短かった。
僕は息を整えた。
「この前の話、答えを言いに来ました」
眉がわずかに動く。
「もういいと言ったはずだ」
「よくないです」
思ったより、はっきりした声が出た。
自分の声ではないみたいだった。
「“選ぶ”って何か、考えました」
彼女は黙っている。
「僕はずっと、ちゃんとやってるつもりでした。仕事も、団体も、人間関係も」
一拍。
「でも、それは選んでなかった」
視線を合わせる。
彼女の指先が、紙袋の持ち手をきつく握る。袋の角が少し潰れた。
「……今さらだな」
声は静かで、少し細い。
「今さらです。でも」
喉が乾く。
「去年のクリスマス、公園に行きました」
彼女の呼吸が止まる。
「約束はもう意味がないって分かってた。でも、行かなきゃいけない気がした」
「迎えに来てくれましたよね」
沈黙。
店内アナウンスが遠くで鳴っている。
誰かの笑い声も聞こえる。
なのに、その場だけ少し切り取られたみたいだった。
「星を見に来ただけだ、って」
彼女のまぶたが、わずかに下がる。
「……覚えているのか」
「忘れられません」
あの夜の距離。
ベンチの冷たさ。
隣にあった体温。
何も言わなかったのに、何かを言われたような気がした時間。
「アヤさんは、何も言わないのに、いなくならない」
自分の声がやけに素直に聞こえた。
「だから僕は、甘えてた」
言い切る。
「あなたが離れないと、どこかで思ってた」
彼女の目が揺れる。
「……私は」
声が掠れる。
「離れた方がいいと思っていた」
強さの奥が、少しだけ崩れる。
「私は、本気になると人が離れていく。昔からそうだ」
笑う。
乾いた音だった。
「重いんだよ、私は」
紙袋の端が歪む。
「仕事も、団体も、恋愛も。本気になった瞬間、相手は息苦しくなる」
視線を上げる。
「だから、選ばれない」
その言葉は、前からそこにあったみたいに聞こえた。
ずっと彼女の中で、言われる機会だけを待っていた言葉のようだった。
「去年だって、迎えに行ったのは」
一瞬、言葉が止まる。
「お前がひとりでいるのが嫌だっただけだ」
僕は一歩近づく。
「アヤさん」
「だめだ」
即座だった。
「それ以上、言うな」
周囲の音が少し遠のく。
エスカレーターの機械音だけが、規則正しく上下している。
彼女は目を逸らさない。
「私は知ってる」
短い呼吸。
「私は、その辺の男に惹かれないんだ」
視線がぶつかり、すぐ外れる。
「お前には、私が本気で惚れるだけの価値がある」
言い切る。
だが声が震える。
「でもな」
唇が少し白い。
「私には、お前と並ぶ資格なんてない」
言葉が落ちる。
「素直じゃなくて、偉そうで、理屈ばかりで……」
「お前まで傷つけて……」
そこで止まる。
「お前だって、こんな女と付き合いたいなんて思わないだろ」
僕は少しだけ笑った。
「……それって」
「一緒にいたいってことですよね」
彼女の目が見開かれる。
「違う」
すぐに返る。
けれど弱い。
「だって、そんな言い方されたら、“そんな事ない”っていうしかないじゃないですか」
睨まれる。
「ああ、もう」
一歩、さらに距離を詰める。
「逃げません」
短く言う。
「一緒にいたいと思ってます」
少し間を置く。
「ずっと見てきた。だから分かります」
彼女の強さも、弱さも。
初めから。
「全部、好きなんです」
まっすぐ告げる。
彼女はしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑う。
「……ずるいな」
「何がです?」
「そんな顔で言うな」
視線が揺れる。
「私は、選ばれない側でいるつもりだったのに……」
言葉が続かない。
沈黙のなか、彼女が一歩踏み出す。
「アヤさん?」
そう問いかけた瞬間、彼女は手を伸ばし、悔しそうにキスをした。
一瞬だけ、強く。
駅へ続く通りの光が、彼女の涙をやわらかく照らしている。
彼女は顔を伏せたまま、もう一度だけ唇を重ねた。
冷たい夜の空気の中で、その温度だけが確かだった。
理由も、理屈も、まだ追いつかない。
けれど今は、ただこの手を離さなければいいと、僕は思った。
*
スクロールの指を止める。
あとがきには、読んでくださりありがとうございました、とあった。
その下に、小さな星評価の欄と、二件ほどの短いコメントが並んでいる。
「……以上ですね」
斎木が言う。
「どう思います?」
「普通だな」
俺は画面を閉じた。
出会いがあって、距離が縮まって、恋人になる。
不自然な箇所は、少なくとも表面には見当たらない。
「事件とは関係なさそうですね」
斎木は淡々としている。
「交際の経緯確認にはなりましたけど」
「ああ」
椅子に背を預ける。
取調室での中山の顔を思い出す。
落ち着いていた。
言葉を選んでいる様子もなかった。
いや、選ぶ必要がないほど、最初から決まった言葉を使っていたのかもしれない。
「なぜ読ませたんでしょう」
斎木が言う。
「記録だ、って言ってましたよね」
俺は頷く。
“ちゃんとしていたことの”。
便利な言葉だ。
人間は、便利な言葉ほど深く考えずに使う。
しばらく沈黙が続く。
特におかしな点はない。
少なくとも、すぐに赤線を引けるような場所は見当たらなかった。
「まあ、今のところは材料ですね」
斎木がノートを閉じる。
「彼女の方、当たりましょうか」
「ああ」
立ち上がる。
「小説の中じゃなくて、外の顔を見たい」
ドアに手をかける。
画面はすでに暗くなっている。
黒いモニターに、俺と斎木の姿がぼんやり映っていた。
なぜ読ませたのか。
答えは出ない。
だが、その問いだけが妙に残った。
廊下の蛍光灯の下で、俺は一度だけ振り返る。
画面は黒いままだった。




