第8話 誰も入れない冷たい密室で俺は一億円の器に意識を沈める
翌日の深夜。
俺は須藤の手引きで病院の裏口から極秘裏に抜け出し、都内の地下深くにある名もなき施設へと運び込まれた。
車椅子から降ろされたそこは、命を救う医療の場と呼ぶにはあまりにも殺風景だった。
冷たい鉄とコンクリートの壁に囲まれた、窓一つない薄暗い空間。
部屋の中央には、手術台というよりは透明な棺桶のような、二つの無骨な箱が並んでいる。
一つにはこれから俺が入り、もう一つには、これから俺の魂を移す『新しい器』が横たわっていた。
箱の中を覗き込むと、そこには四十歳前後の、見ず知らずの男の肉体が横たわっていた。
俺の顔に合わせて作られた特注品ではない。
闇に流れていた無個性な『既製品』の顔だ。
だが、少し伸ばした指で触れてみたその肌には、生身の人間と全く変わらない確かな温もりと弾力があった。
鮫島が自慢していた五十億円の品と比べても、外見や触り心地だけなら違いなど全く分からない精巧な作りだ。
俺は心の中でほくそ笑んだ。
中身が「ただ仕事をするためだけの安物」だとしても、見た目がこれほど完璧なら、五十億も払うのはやはり馬鹿げている。
こんな今にも止まりそうな心臓と、激痛で動かない老体をたった一億で捨て去ることができるなら、他人の顔だろうとどうでもいい。
俺の合理的な判断は、今回も正しかったというわけだ。
「社長、処置には丸二日かかります。その間、この部屋は完全に封鎖され、私を含め誰も入ることはできません。進行はすべて自動で行われます」
須藤が感情の一切こもらない、温度のない声で告げる。
「……本当に、どなたにも連絡は不要でよろしいのですね。これが、生身の人間としての最後になりますが」
「不要だ。くどいぞ、須藤」
俺はひゅうひゅうと鳴る喉を押さえながら、息も絶え絶えに言い捨てた。
連絡する相手など、とうの昔にいない。
孤独こそが絶対的な王様の証だ。
あの鮫島を叩き潰し、再び頂点に君臨できる力強い身体さえ手に入れば、他に何もいらない。
「だが須藤、一つだけ命じておく」
俺は這うように動く自分の老体を見下ろし、掠れた声で言った。
「俺のこの『元の体』だ。意識を移して空になった後も、決して処分するな。極低温の生命維持装置に繋いで、永久に冷凍保存しておけ」
「……冷凍保存、ですか?」
須藤が眼鏡の奥で、少しだけ怪訝そうな顔をする。
「そうだ。あの能登の泥水をすすってのし上がり、天下を獲った記念すべき王の肉体だ。ゴミのように焼却炉に捨てるなんて許さん。俺が絶対的な勝者であるという『トロフィー』として残しておくんだ。維持費にいくらかかろうと構わん」
「……承知いたしました。完璧な状態で保管するよう、手配しておきます」
須藤は恭しく頭を下げた。
俺は須藤に支えられながら震える足で進み、冷たい鉄の台の上に仰向けに寝かされた。
頭部に無数の線が繋がれ、首の裏に鋭い太い針が深く突き刺さる。
鈍い痛みが走ったが、俺は歯を食いしばって耐えた。
「それでは、全身麻酔を投与し、意識の移行を始めます。二日後、新しいお姿でお目覚めになることを……心よりお待ちしております」
須藤が深く一礼した。
その口元が、また微かに歪んで嗤ったように見えた気がした。
直後、分厚い鉄の扉が重々しい音を立てて閉まり、鍵がかかる音が地下室に響き渡った。
完全な密室。
静寂の中、機械の低い唸り声だけが響き続ける。
やがて管から冷たい麻酔薬が血管に流れ込み、手足の感覚が重い泥のように沈んでいく。
抗いがたい強烈な眠気が脳髄を覆い尽くし、視界が真っ黒に塗りつぶされそうになった、その時だ。
耳元で、不自然な電子音が鳴った。
『……警告。適合に異常あり。一部の感覚機能を、不要とみなし切り捨てます……』
(なんだ……今の音は……切り捨てるだと……?)
強烈な嫌な予感が脳裏をかすめた。
まさか、あの須藤の嗤いは……。
だが、麻酔のせいで、もう指一本動かす力も残っていない。目を開けることも、声を出すことすらできない。
もう遅かった。
麻酔の圧倒的な濁流に飲み込まれ、俺の意識は底なしの暗闇へと真っ逆さまに落ちていった。
続く




