第7話 鮫島を見返すために俺は一億円の怪しい肉体に手を伸ばした
薄暗い病室。
鮫島の軽い足音が完全に遠ざかった後、俺は胸の奥をえぐるような痛みに顔を歪めた。
「……がっ、はぁ、はぁ……」
息を吸うたびに、肺の奥でひゅうひゅうと情けない音が鳴る。
自分の指先すら、震えて思うように動かない。
かつて何百人もの社員を震え上がらせたこの俺が、今はただの管につながれた肉の塊にすぎない。
この惨めな老体への苛立ちが、どす黒い怒りとなって腹の底で煮えたぎっていた。
俺は残された力を振り絞り、枕元の携帯端末に手を伸ばした。
震える指で、右腕である須藤への発信の操作をする。
数秒後、音もなく病室の扉が開き、須藤が姿を現した。
ずっとすぐ外の控え室で待機していたのだろう。
「須藤……鮫島が言っていた、人工の肉体というやつだ。至急、あの技術の出所を調べろ。本当に五十億もするのか?」
荒い息を吐きながら命じると、須藤は冷たい眼鏡の奥の目を細め、感情の読めない声で答えた。
「その件につきましては、すでに手回しをしております。しかし社長、あれは正規の経路を通せば、本当に五十億円もの莫大な資金が必要です。それに、持ち主に合わせた特注の細かな調整をするため、肉親すら立ち入りが許されない極秘の密室で、処置に丸一週間はかかります」
「五十億か……!?」
俺は激しく咳き込みながら、忌々しく舌打ちをした。
あんな弱者がすがる作り物に、五十億もの大金を払うだと?
冗談じゃない。
それに「一週間」だ。
今の俺の弱り切った心臓が、そんな処置に耐えきれる保証はどこにもない。
五十億という金への執着と、刻一刻と迫る死の恐怖。
二つの重圧が、俺の頭を激しく締め付けた。
このまま無様に朽ち果て、鮫島にすべてを奪われるのか。
ギリッと奥歯を噛み締めたその時、須藤が普段よりも一段低い、底知れない声で口を開いた。
「社長、実は、裏の経路で一つだけ、即座に乗り換え可能な身体があります。正規の審査を通っていない、出所不明の『基本の肉体』です。値段は……一億円」
「一億だと? 五十億のものが、なぜたったの一億になるんだ?」
俺が睨みつけると、須藤は一瞬だけ、微かに口角を上げたように見えた。
その不気味な表情は、ただの従順な部下のそれではない。
まるで、この展開を最初から待っていたかのような、獲物を罠に誘い込む猟犬の目だった。
「見た目を若くするような装飾や、人間らしい細かな調整が一切省かれた、ただの『動く器』だからです。それに、闇に流れた品のため、乗り換えた後にどんな欠陥が出るか誰も保証できません。ただ……これなら密室での処置は『丸二日』で済みます。社長の今の心臓でも、二日なら確実に耐えられるはずです」
一億円。そして二日。
なぜ、須藤がそんな闇の品を詳しく知っているのか。
その怪しさに勘付くべきだった。
だが、今の俺の頭には、その条件がひどく魅力的なものに響いた。
五十億に比べれば、一億など端金に等しい。
脳裏に、鮫島のあの憎たらしい笑い顔と、見下すような声が蘇る。
『せいぜい、泥水をすするような最期を迎えてください』
ふざけるな。俺は氷室剛だ。
能登の冷たい雨の中から這い上がり、すべてを力でねじ伏せてきた王様だ。 豪華な装飾などいらない。
食事の味や娯楽といった人間らしい快楽など、勝者には不要だ。
たった一億で、しかも二日で、あの鮫島を叩き潰す力強い身体が手に入るなら、それでいい。
「須藤……その一億の器を買え。今すぐに手配しろ」
「よろしいのですか? 一度乗り換えれば、もう元の身体には戻れませんよ」
須藤の念を押す声は、どこか冷ややかだった。
「俺は王様だ。どんな器だろうと、俺の力で完全に支配してやる」
俺は血の気の引いた唇を歪め、低く笑った。
それが、俺を永遠の地獄に引きずり込む最悪の決断になるとも知らずに。
須藤の眼鏡の奥の目が、暗い光を帯びていたことすら、この時の俺は気付かなかった。
続く




