第6話 五十億円で若返った鮫島が死にかけの俺を見下ろして嗤う
真っ白な天井と、鼻をつく消毒液の匂い。
意識が浮上するにつれ、あの夜の断片的な記憶が、ひび割れた鏡のように脳裏に蘇ってきた。
心臓を抉られるような激痛に耐え、俺は這いつくばって社長室の扉を開けた。
誰かに助けを求めようと、震える手で廊下の壁を掴んだはずだった。
だが、力が入らない。膝が折れ、視界が歪む。そのまま俺の身体は、階段の闇へと真っ逆さまに投げ出されたのだ。
身体が宙を舞い、硬い段差に幾度も叩きつけられる衝撃。骨が砕ける嫌な音。
最後に、自分の血の温かさを感じながら意識が沈んでいったのを覚えている。
「気がつかれましたか?氷室さん」
白衣を着た初老の医師が、感情のない冷たい声で告げる。
俺は今、病院の特別室のベッドに寝かされていた。
医師は静かに口を開いた。
「氷室さん。言いにくいのですが……、結論から申し上げます。階段からの転落による脊髄の激しい損傷、それに加え……正直に言って、氷室さんの心臓は、もう限界です。このままでは半年……いや、……三ヶ月持つかどうか……わかりません……」
「…なんだと!」
掠れた声しか出ない。
腕には何本もの管が繋がれ、首から下の感覚が恐ろしいほどに希薄だった。
「現代の医学では、もはや延命しかできません。仕事など、もってのほかです。どなたか、信頼できる方に後を託す準備を……」
俺は愕然としてその場で固まった。
医師はそっと静かに病室を出ていった。
そして、医師が出て行った後、絶望と怒りで震える俺の耳に、軽快な足音が聞こえた。
『コンコン』
見たこともない若い男が入ってきた。
「失礼しますよ。いやあ、氷室さん。随分と哀れな姿になっているじゃないですか」
病室に入ってきた男を見て、俺は自分の目を疑った。
声は確かに、同業の商売敵である鮫島のものだ。
だが、目の前に立っているのは、どう見ても二十代の若者だった。
血色の良い肌、引き締まった体、そして自信に満ち溢れた足取り。
つい先週まで、俺と同じように老いぼれて、顔に深いしわを刻んでいたはずの男が。
「お前……鮫島か? ……その姿は、まさか……」
「おや、ご存知でしたか。……ええ、最高の買い物でしたよ」
鮫島は俺を見下ろし、いやらしく口角を上げた。
「五十億円。安くはない投資でしたがね。老いも病もない、完全な人工肉体。味覚も、触覚も、すべてが生身の人間と同じか、それ以上だ。先週、この身体に乗り換えたばかりなんですが、夜の街でも二十代の活力がみなぎって仕方ないんですよ」
先日、須藤が報告してきた「意識の移行と人工肉体」の噂。
俺が「弱者のすがる作り物」と切り捨てた技術が、今、圧倒的な現実として目の前に立っている。
「今日はお見舞いですよ。業界の王様が倒れたと聞いて、飛んできたんです。いやはや、人間どんなに金を稼いでも、最後はあっけないものですねぇー」
鮫島は、俺の繋がれた点滴の管を指先で弾き、わざとらしくため息をついてみせた。
「氷室さん、あなたはもう終わりだ。せいぜい、そのボロボロの肉体で、泥水をすするような最期を迎えてください。あなたの残した市場は、若返った私がすべて、頂いておきますから。それでは、お大事に」
鮫島が余裕の笑みを浮かべて病室を出て行くと、静寂だけが残った。
「ふざけるな……俺が、この俺が……こんなところで終わるわけがない……!」
管を引きちぎりそうになるほど拳を握りしめる。
死の恐怖と、圧倒的な敗北の屈辱。
俺の頭の中に、あの「新しい身体」という選択肢が、どす黒い執念となって広がり始めていた。
続く




