第5話 永遠の命など死を恐れる弱者のすがる作り物だ
田中を追い出した後の八階の社長室は、以前よりもさらに息が詰まるような冷たい静寂に支配されていた。
新しく俺の右腕として据えたのは、三十代の須藤という男だ。
あいつの目には、昔の田中のような情けや人間らしい迷いといったものは一切ない。
ただ俺の持つ権力と金に群がり、計算高く立ち回るだけの、忠実で冷酷な犬だ。
だが、今の俺にはそれで十分だった。余計な感情はビジネスの邪魔になるだけだ。
「社長、海外の投資家たちの間で、最近妙な技術開発に莫大な資金が流れているようです」
須藤が淹れたてのブラックコーヒーを机に置きながら、情報端末の画面をこちらに向けてきた。
そこに踊っていたのは、『極秘・意識の電子化と完全人工肉体への移植実験』という怪しげな見出しだった。
「人工肉体だと?」
「ええ。一部の大富豪や権力者たちが、自分自身の記憶と人格をデータ化し、老いることのない人工の身体に移し替える技術に、数十億円、いや数百億円規模の投資をしているという噂です。……いわば、永遠の命を金で買う、というわけですね。すでに実用化の最終段階に入っているとも言われています」
俺は鼻で笑い、画面を指で弾き飛ばした。
「馬鹿馬鹿しい。そんな作り物の身体に何十億も払うとは、死を恐れる弱者のすることだ」
俺はコーヒーを一口すすり、窓の外に広がる東京の夜景を見下ろした。
「人間はいずれ死ぬ。だからこそ、生きている間に他人を蹴落としてでも、這い上がって力と金を手に入れる意味があるんだろうが。あの能登の冷たい泥水をすすってでも生き延びようとした執念。それがない奴らが、金にあかせて作り物の永遠を手に入れたところで、中身はただの空っぽのガラクタだ」
「おっしゃる通りです。死の恐怖に怯えるような連中は、ビジネスの世界でもいずれ敗者になりますね」
須藤が薄ら笑いを浮かべて同意する。
俺は満足げに頷いた。そうだ。
俺は誰よりも強く、誰よりも結果を出してきた絶対的な王様だ。
永遠の命などという得体の知れないものにすがる連中など、俺から見ればただの滑稽な敗北者でしかない。
「そんな下らない噂話より、明日の株主総会の資料を早く揃えろ。無能な株主どもを黙らせる、完璧な数字が必要だ」
「承知いたしました。すぐに準備させます」
須藤が一礼して部屋を出て行き、再び一人になった社長室。
俺は深く椅子に腰掛け、勝利の余韻に浸るように目を閉じた。すべては俺の思い通りだ。
邪魔な古参は切り捨て、会社は俺の完全な支配下にある。
さあ、明日の戦いのために少し休むか。
そう思い、立ち上がろうと机に手をついた、その瞬間だった。
ズキィィィッ!
「……がっ!?」
突然、胸の奥を焼け火箸で力任せに突き刺されたような、言葉にならない激痛が走った。
「あ……ぐっ……!」
俺はたまらず机の上の書類をなぎ倒しながら、床に崩れ落ちた。
息ができない。
喉がヒューヒューと鳴り、酸素が肺に入ってこない。
オーダーメイドの高級スーツの下から、どっと冷や汗が噴き出し、視界が激しく明滅する。
(なんだ……心臓か……!? 嘘だろ、俺は……!)
這いつくばった床の冷たさが、容赦なく俺の老いた肉体を現実へと引き戻す。
胸を掻きむしりながら、必死に助けを呼ぼうと口を開くが、掠れたうめき声しか出ない。
先ほどまで他人の弱さをあざ笑っていたその口で、今は必死に生きるための空気を求めてあえいでいる。
『死を恐れる弱者』
さっき自分が吐き捨てたばかりのその言葉が、耳の奥で呪いのように木霊していた。
薄れゆく意識の中で、俺は初めて、絶対に抗えない「死」という圧倒的な恐怖に震えていた。
続く




