第3話 冷めたコーヒーと軋む歯車
八階の社長室。
その分厚い防音ガラス越しに、薄暗くなったオフィスを見下ろす。
夜の九時を回っているというのに、フロアの隅にある田中のデスクだけがまだ明かりをつけていた。
田中の目の前には、空間に投影されたホログラムの通話ウインドウがいくつも浮かんでいる。
田中はその立体映像に向かって、何度も何度もペコペコと頭を下げていた。
ガラスのせいで声は聞こえないが、空中に浮かぶ町工場の社長たちの顔に向かって必死にすがる情けない姿を見れば、何をしているかは一目瞭然だった。
長年付き合いのあった取引先に、冷酷な契約打ち切りの通告をしているのだ。
俺はブラックコーヒーを一口飲み、小さく息を吐いた。
三十年。
俺と田中がこの会社を立ち上げ、一緒に泥水をすすってきた年月だ。
あいつのアナログで不器用だが誠実な人柄に、助けられた夜もあった。
あのペコペコと下がる頭が、会社の危機を救ったことも一度や二度じゃない。
「……すまんな、田中」
冷めたコーヒーの苦味が、喉の奥に引っかかった。
俺だって鬼じゃない。
できることなら、昔の仲間を見捨てたくはない。
だが、ビジネスにおいて昔の情や義理などというものは、一番の足手まといだ。
泣き落としに屈して無駄な金を払えば、会社ごと泥船のように沈む。
あの冷たい能登の泥水の中へ逆戻りだ。それだけは絶対に御免だった。
「時代遅れのポンコツは、消えるしかないんだ……」
空になったコーヒーカップをデスクに置き、窓際から踵を返した、その時だった。
キィィィィン――。
突然、頭の奥で金属を引っ掻いたような甲高い耳鳴りが鳴り響いた。
「……ぐっ!?」
同時に視界がぐにゃりと歪み、強烈な眩暈が俺を襲う。
足からフッと力が抜け、俺はたまらず重厚なマホガニーのデスクに両手をついた。
「ハァ、ハァ……なんだ、今の……」
額からどっと冷や汗が吹き出す。
オーダーメイドの高級スーツの下で、心臓が不規則に、そして暴力的なほど激しく脈打っていた。
胃の奥からこみ上げてくる吐き気を必死に飲み込む。
少し休めば治まる。ただの過労だ。
そう自分に言い聞かせても、震える指先はデスクの端を強く握りしめたまま、しばらく離すことができなかった。
荒い息を吐きながら、再びガラスの向こうへ目をやる。
田中はまだ、宙に浮く最新のモニターに向かって、古臭い土下座のように頭を下げ続けていた。
あいつは確かに、時代についてこれないポンコツだ。だが、今の俺はどうだ?
自分の意思とは無関係に悲鳴を上げるこの肉体。
どれだけ金と権力で着飾ろうと、細胞の底から確実に腐り始めている。
「ふざけるな……俺は、俺は王様だぞ……!」
誰もいない冷え切った社長室に、俺の掠れた声だけが虚しく響いた。
続く




