第1話 王様のステーキと能登の泥水
東京、恵比寿。
看板もない、会員しか入れないその店で、一番安いステーキでも5万円はする高級ステーキハウス。
氷室剛、65歳。独身。
俺は今、その分厚い肉をゆっくりと噛みしめている。
口の中に広がる、とろけるような肉の旨味。
最高級の赤ワインを一口飲んで、俺はスマホの画面をタップした。
「今月の売り上げが目標の半分も行ってないぞ。お前、明日から会社に来なくていいぞ」
たった数回のタップで、使えない社員をクビにした。
ため息をつく暇もない。
無能な奴らに払う給料ほど、無駄なものはないからな。
石川県の能登で、冷たい雨に打たれながら、泥水をすすっていたあの頃……。
あそこから這い上がってきた俺は、今や王様だ。
すべてを金で支配できる。
店を出ると、冷たい雨が降っていた。
東京の雨は、あの日の能登に比べればずっと生温い。
「社長、お疲れ様です」
店の前に停めてあった黒いクラウンから、運転手が傘をさしてくる。
俺は無言で頷き、後部座席に身体を沈めた。
車が走り出すと、俺はすぐにタブレットを開き、画面とにらめっこを始めた。明日のデータ確認だ。移動中すら休む気になれない。
目黒の豪邸に着くと、静まり返った広く冷たい部屋が俺を出迎えた。
俺はキャビネットから高級なウイスキーを取り出し、グラスに注いでもう一杯だけあおった。
胃の奥が熱くなるのを感じながら、ふかふかの最高級ベッドに倒れ込む。
酒の酔いと疲労が混ざり合い、俺の意識は急速に暗闇へと落ちていった。
――冷たい、泥の匂いがする。
気がつくと、俺は石川県能登の、あの暗い通学路にいた。
冷たい雨が、容赦なく身体を打ちつける。
「お前みたいな貧乏人が、偉そうに勉強してどうすんだよ!ばーか!」
同級生たちの汚い笑い声が響く。
俺の学生鞄は泥水たまりに蹴り落とされ、中から飛び出した教科書が、泥だらけのスニーカーで何度も踏みつけられていた。
悔しくて殴り返そうとしたが、数人に押さえつけられ、泥水の中に顔を押しつけられる。
口の中に広がる、じゃりっとした泥の味と、血の匂い。
泥水をすすりながら、俺は破れた教科書を握りしめた。
(いつか、絶対に全員見返してやる。金と力で、虫けらみたいに踏みつぶしてやる……!)
「……はっ!はぁ…はぁ…」
顔を蹴られそうになった瞬間、俺は目を覚ました。
そこは目黒の豪邸。ベッドの上だ。
全身は冷や汗でぐっしょりと濡れ、心臓が嫌な音を立てて鳴っている。
「……くそっ、またあの夢か」
高級なシーツを握りしめる。
だが、俺の指先は、あの日の雨の冷たさを思い出したように、微かに震えていた。
ベッドから起き上がろうとした瞬間、右膝に鈍い痛みが走る。
雨が降る夜は、いつもこうだ。
「……チッ」
舌打ちをして、サイドテーブルに置かれた何種類もの高価なサプリメントを水で流し込む。
どんなに金を稼いで王様になっても、心の中にはまだ、泥水をすすっていたあの無力なガキが住みついている。
そして、この老いぼれていく肉体だけは、金でもどうにもならない。
窓の外、冷たい雨に煙る東京の夜景を睨みつけながら、俺は重いため息をついた。
続く




