第11話 日常から抜け落ちていく感覚。完璧な器に生じた致命的なヒビ
新しい体を手に入れてから一ヶ月。俺の毎日は、まさに絶頂の只中にあった。
底なしの体力で朝から深夜まで激務をこなし、夜は最高級の酒と女を味わう。
かつて俺を見下していた鮫島を出し抜き、業界トップの座に返り咲くのも、もはや時間の問題だった。
俺は五十億をケチった自分の合理的な判断を、この上なく誇りに思っていた。
だが、完璧に回っていたはずの歯車は、日常の些細な場面で、音もなく狂い始めていたのだ。
ある日の昼下がり。
俺は行きつけの高級インド料理店に足を運んでいた。
数日前に高級クラブで感じた、あのヴィンテージワインの味の違和感は、ただの疲労だ。
そう自分に強く言い聞かせ、俺はあえて店で一番辛い、スパイスが強烈に効いたマトンカレーを注文した。
だが、目の前に運ばれてきた皿から、鼻腔を突くはずの暴力的な香辛料の匂いが、なぜか全くしない。
嫌な予感を覚えながら、スプーンですくって一口分を舌の上に乗せる。
「……なんだ、これは?」
思わず、低く掠れた声が漏れた。
熱さは感じる。
だが、舌を焼くような辛さも、肉の深い旨味も、スパイスの刺激も、何一つとして存在しないのだ。
まるで、適温に温められた無味無臭の泥の塊を、ただ機械的に咀嚼しているかのようだった。
俺は焦ってグラスの氷水を一気に流し込んだが、喉を通る冷たさはあっても、「水」としての質感がすっぽりと抜け落ちている。
味覚と嗅覚が、完全に死んでいた。
数日後、異常はさらに別の器官へと広がっていった。
役員会議の最中だった。俺が上座で報告書に目を通していると、突然、耳の奥底で「キィィィン」という高く不快な電子音が鳴り響いた。
(……っ!)
顔をしかめた瞬間、周囲の音が急激に遠のいていった。
目の前で身振り手振りを交えて熱弁している役員の声が、まるで分厚いガラスの向こう側、あるいは深い水底から聞こえてくるように、ひどくくぐもって響く。
「社長?……いかが……し…たか?」
かすかに聞こえる音の波長と、口の動きで、かろうじて何を言っているかは推測できた。
だが、声のトーンも、会議室の張り詰めた空気感も、全く鼓膜に届かない。
俺は必死に平常心を装い、「少し耳鳴りがしただけだ、続けろ」と誤魔化すのが精一杯だった。冷や汗が背中を伝うのを感じた。
そして、極めつけは視覚だ。
その夜、自宅の豪邸に戻った俺は、洗面所の鏡の前に立って息を呑んだ。
視界の端から、少しずつ「色」が抜け落ちていくのだ。
自分の締めている深紅のネクタイが、どす黒い赤になり、やがて無機質なグレーへと変わっていく。
肌の生々しい血色も、洗面台の高級な大理石の艶も、すべてが古い白黒映画のように色褪せてしまった。
目を強くこすっても、何度もまばたきを繰り返しても、鮮やかな世界は二度と戻ってこない。
味もしない。音も遠い。色も消えた。
だが、自分の体を触る感覚と、内側から湧き上がる恐怖だけは、嫌になるほど生々しく残っている。
一億円の安い体。
鮫島を出し抜いたはずの俺の完璧な計算は、音を立てて崩れ去ろうとしていた。
俺は広すぎる邸宅の中で、かつてない孤独と絶望に震えていた。
続く




