第九章 海底都市と説教するサンゴ
海底へ潜る方法は、ゲコッタが知っていた。
「海底都市への入口は、この辺りの海底にあるゲコ。特別な気泡があって、その中に入れば息ができるゲコ」
「気泡?」
あたしは聞いた。
「世界樹の力が海底にも宿っているゲコ。空気が湧いている場所があるゲコ。昔から、海底都市の人たちはその気泡を使って、地上との行き来をしているゲコ」
「潜れば見つかる?」
「ゲコッタが案内するゲコ。海は得意ゲコ」
フロリアが海面を覗き込んだ。透明度が高くて、かなり深くまで見えた。光が揺れながら降りていって、その先は青くなって、見えなくなる。
「深いですね」
「深いゲコ。でも気泡さえあれば大丈夫ゲコ」
「泳ぐのですか」
「ゲコッタの背中に乗ってくれれば、泳がなくていいゲコ」
「それは助かります」
フロリアは少し間を置いた。
「ポポルさんは?」
「ポポは水が苦手だポポ。言ったポポ」
「言いましたね。でも、海に入ることになりますが」
「分かってるポポ。覚悟するポポ」
「覚悟で何とかなるの?」
あたしは突っ込んだ。
「何とかならないかもしれないポポ。でも覚悟するポポ」
海に入った瞬間、世界が変わった。
音が消えた。波の音も、風の音も、ゲコッタの声も、全部が遠くなった。代わりに、水の中の音が来た。何かが泳ぐ音、気泡が上る音、遠くで何かが動く低い音。
光が違った。上から差してくる光が、水の中でいくつにも分かれて、揺れながら降りてきた。青くて、緑がかっていて、ジャングルの木漏れ日と似ているけど全然違う。
気泡の中だから、みんな声が出た。
「きれい」
「きれいですね」
「フロリア、魚見て。あの青いやつ」
「見えます。大きいですね」
「あっちの赤いやつも」
「リオナ、顔がさっきから全部見てる顔になっています」
「全部見たい」
「ゲコッタの背中から落ちないでください」
「落ちない。うわ、あのサンゴきれい」
「落ちそうです」
ポポルが丸まってゲコッタの背中にしがみついていた。目をぎゅっと閉じて、耳をぺったんこにして、尻尾をゲコッタに巻きつけていた。
「ポポは大丈夫?」
あたしは聞いた。
「大丈夫じゃないポポ」
ポポルが目を閉じたまま言った。
「でも覚悟してるポポ」
「えらいね」
「えらくないポポ。ただ怖いだけだポポ」
ゲコッタがゆっくり深く潜っていった。
光が薄くなった。代わりに、下の方から別の光が来た。温かい色の光だった。橙色とか、黄色とか、少し赤みがかった光が、海底から湧き上がるみたいに広がっていた。
「あれが、海底都市ゲコ」
近づくにつれて、形が分かってきた。
建物があった。
海底に、ちゃんとした建物があった。岩を積み上げたものとか、サンゴを組み合わせたものとか、形はいろいろだったけど、確かに誰かが作ったものだった。光は建物の窓から漏れていた。道があって、広場があって、木みたいなものが植えてあった。
「村みたい」
「村ですね。でも、ここまでちゃんとしているとは思いませんでした」
「しゃべるサンゴがいるって言ってたじゃん」
「言ってましたが、建物まであるとは」
「案内の者が来るゲコ」
来た。
最初は小さく見えた。近づくにつれて、はっきりした。
サンゴだった。
人の形をしているけど、全身が珊瑚でできていた。腕も足も、髪の毛みたいな部分も、全部サンゴの枝だった。色は薄い桃色で、水の中でゆらゆら揺れていた。大きさはあたしと同じくらい。目が、丸くて透き通っていた。
「いらっしゃいませ」
サンゴが言った。声はゆっくりで、おっとりしていた。
「ゲコッタさんのお連れの方々ですね。コラルと申します。海底都市のご案内をいたします」
「リオナ。こっちはフロリアとポポル」
「ポポだ」
「ようこそ、海底都市へ」
コラルが頭を下げた。それからあたしの足元を見た。
「あの」
「うん?」
「今、サンゴを踏んでいます」
あたしは足元を見た。確かに、小さなサンゴの欠片を踏んでいた。
「あ、ごめん」
「お気をつけください。ここでは、足元にサンゴがいることが多いので」
「サンゴが、いる?」
「はい。生き物ですので」
「踏んだら痛い?」
「痛いです。それと、心が折れます」
「心も折れるの?」
「サンゴは繊細ですので」
あたしは足の置き場を慎重に選びながら、ゲコッタの背中から降りた。フロリアもゆっくり降りた。ポポルは目を開けて、周りを見て、また目を閉じた。
「ポポはここにいるポポ」
「ゲコッタの背中に?」
あたしは突っ込んだ。
「そうするポポ。水の中は慣れないポポ」
「気泡の中だから、息はできるよ」
「分かってるポポ。でも、水の中にいるという事実が無理なポポ」
「……じゃあ、待ってて」
「待つポポ」
コラルに案内されて、海底都市を歩いた。
足元を気にしながら歩くのは大変だったけど、見るものが多くて気が散った。建物の中から光が漏れていて、中に人影が見えた。魚がすいすい泳いでいた。広場に、何かの市場みたいなものがあって、珊瑚でできた道具や、光る石が並んでいた。
「すごい!」
あたしは何度も言った。
「足元」
コラルが何度も注意を促した。
「ごめん」
あたしは何度も謝った。
「心が折れそうです」
コラルが困り顔で何度も言った。
フロリアは無言のままついてきていた。建物の壁に触れたり、珊瑚の木の前で立ち止まったりしていた。
「何か感じる?」
あたしは聞いた。
「珊瑚も、植物と似た感覚があります。完全には聞こえないけれど、気配は分かります」
「種の気配は?」
「あります。深いところに。でも――」
フロリアが少し眉をひそめた。
「何か、変です」
「変?」
「珊瑚の声が、薄い。海藻の色が、白くなっています。ここでも、世界樹の影響が出ています」
コラルが振り返った。
「お気づきになりましたか、花姫さま」
「分かります。最近、ひどくなっていますか」
「はい」
コラルの声が、少し低くなった。
「ひと月前から、少しずつ。魚たちの言葉が、うまく聞こえなくなってきています。サンゴの色も、端から白くなっている。原因が分からなくて――でも、今日お越しになると聞いて、関係があるかもしれないと思っていました」
「関係があります。世界樹が弱るほど、この現象は広がります」
「やはり」
コラルがため息をついた。深海の中だから、泡が出た。
「どうすれば」
「種を集めて、世界樹に戻せば、少しずつ回復します。でも、すぐには――」
「急がなければいけませんね」
「はい」
フロリアの顔が、少し固くなった。焦っているんだと思った。自分のせいじゃないのに、自分の責任みたいに感じているんだと思った。
「フロリア」
あたしは呼んだ。
「はい」
「急ごう。でも、焦りすぎないで」
「焦っていません」
「顔が焦ってる」
「……少し焦っています」
「うん。でも焦っても速くはならない。一個ずつやれば大丈夫」
フロリアがあたしを見た。
「……あなたは、いつもそういう言い方をしますね」
「そういう言い方?」
「簡単そうに言います。大丈夫、やれば大丈夫、一個ずつ。でも、その“大丈夫”が、なぜか信じられる気がするのです」
「なんで?」
あたしは聞いた。本当に分からなかった。
「……分かりません」
フロリアが少し目を伏せた。
「でも、信じたいと思います」
「じゃあ信じて」
「努力します」
四つ目の種は、海底都市の一番深いところにあった。
広場を抜けて、細い道を進んで、岩の多い場所に出た。そこに、大きなサンゴの木があった。珊瑚の枝が何本も広がって、先端が光っていた。
「あの木の中に、種があります」
フロリアが伝えた。
「取れる?」
あたしは聞いた。
「少し、話してみます」
フロリアがサンゴの木に近づいた。手を伸ばして、枝に触れた。目を閉じた。
しばらく、何もなかった。
それから、サンゴの木が少しだけ光った。枝の先が明るくなって、また落ち着いた。
「聞こえました」
「何て?」
「海が、変わっていくのが怖い、と。声が消えていくのが、寂しい、と」
フロリアの声が少し柔らかくなった。
「でも、種を持つ者が来たら渡すように、と、ずっと待っていたそうです」
「ずっと待ってたんだ」
「はい」
サンゴの木の枝の一本が、ゆっくり下がってきた。先端から、光が離れた。フロリアの手のひらに落ちた。
四つ目のいのちの種だった。
「ありがとう」
フロリアが木に言った。
「声が戻るように、急ぎます」
木が少し揺れた。返事みたいだった。
帰り道、コラルがいっしょについてきた。
来たときより、あたしは足元をよく見て歩いていた。コラルに何度も言われたから、だいぶ覚えた。
「リオナさん」
コラルが呼んだ。
「リオナでいい」
「リオナさんは、海が初めてですか?」
「海底が初めて。海は見てた」
「楽しんでいただけましたか」
「楽しかった。見るものが多すぎて、ちょっと困った」
「困る、というのは?」
「目がいくつあっても足りない感じ。全部見たいのに、次のものが来る」
コラルがおっとりした声で笑った。
「海はそういう場所です。広いので」
「外の世界も、そういう感じだった。出てきてよかった」
「ジャングルから、ですか」
「うん。村に、外へ出るなって掟があって」
「それでも出てきた」
「フロリアがいたから」
コラルが少し間を置いた。
「仲がいいのですね」
「そうかな?」
「そうだと思いますよ。花姫さまは、リオナさんのことをよく見ています」
「あたしが見られてる?」
「はい。リオナさんが何かをするたびに、花姫さまが見ています。怒ったり、安心したり、少し複雑な顔をしたり」
あたしは前を歩くフロリアを見た。フロリアはコラルと話していた。ちゃんと足元を見ながら、それでもサンゴを踏まないで歩いていた。
「複雑な顔って、どういう顔?」
あたしは聞いた。
「嬉しいのだけど、どうしていいか分からない、という顔です。わたしは説教が長いと言われますが、人の顔を見るのは得意ですので」
「説教が長い?」
「サンゴを踏まないでください、という説教です。海では必要な説教ですが、嫌がられることが多くて」
「大事な説教だと思う」
「ありがとうございます」
コラルが少し明るくなった。
「リオナさんは、理解が早いですね」
「踏まれたら痛いもんね」
「そうです。それと、心が――」
「折れる」
「そうです。ご理解いただけて、嬉しいです」
地上に戻った。
ゲコッタの背中に乗って、水面から上がった瞬間、ポポルが大きく息を吸った。
「空気だポポ!」
「ずっと気泡の中だったから、空気はあったじゃん」
「気分の問題だポポ!」
「大丈夫だった?」
「大丈夫じゃなかったポポ。ずっと目を閉じてたポポ。でも、ゲコッタの背中が温かかったポポ」
「ゲコッタ、ありがとう」
「どういたしましてゲコ。ポポルは軽くて助かったゲコ。丸くて可愛かったゲコ」
「可愛くないポポ」
ポポルはそう言ったけど、耳が少し赤かった。
フロリアが種を四つ、手のひらに並べた。
一つ目はバロンの森の、深い緑。二つ目はチクードの砂漠の、乾いた橙。三つ目は雲の羊の、霧みたいな白。四つ目は今日の、海の青。
「きれいだね」
あたしは言った。
「それぞれの場所の色をしています。それぞれの命の色」
「あと三つ」
「あと三つです」
フロリアは種を布に包んで、腰の袋に入れた。
「急がなければ。コラルが言っていたように、影響が広がっています」
「うん」
「でも」
フロリアが少し間を置いた。
「リオナが言ったように、焦りすぎないようにします」
あたしは笑った。
「覚えてくれてた」
「覚えています。あなたの言葉は、少ないので覚えやすい」
「少ない?」
「多くないです」
「それは少ない、ってことじゃん」
「……否定はしません」
ポポルがあたしの肩に戻ってきた。さっきより元気そうだった。
「次はどこだポポ」
「火山島。ポポが海に潜る前に言ってたじゃん」
「言ったポポ。海の中で生きた心地がしなくて、記憶が吹っ飛んでたポポ。今思い出したポポ」
「五つ目の種がそこにあるんだよね」
「そうだポポ。今度は水の中じゃないポポ」
「火山だけどね」
「それでも水よりはましだポポ」
「火山は、暑いのですか?」
「たぶん」
「砂漠より暑い?」
「火山だから、たぶん」
「……覚悟します」
「覚悟できるの、フロリアは」
「覚悟するだけなら、いくらでもできます。実際に大丈夫かどうかは別問題ですが」
「正直だね」
「嘘をついても仕方ありませんので」
ゲコッタが泳ぎ出した。
海底都市の光が、水面の下でゆっくり遠くなった。
コラルが手を振っていた気がした。確かめる前に、波が光を散らして、見えなくなった。
フロリアが空を見ていた。
少し、心配そうな顔だった。世界樹のことを考えているのかもしれない。海底でも影響が出ているというのが、堪えているんだと思った。
あたしは何も言わなかった。
ただ、少しだけ近くに座った。
フロリアは何も言わなかった。でも、顔が少しだけ柔らかくなった。
波が穏やかだった。火山島は、まだ遠い。




