第十章 ポポル、秘密を隠しきれない
小さな島だった。
名前もないらしくて、ゲコッタが「休める場所があるゲコ」と言って寄ってくれた島だ。砂浜があって、木が何本か生えていて、真水の湧く岩があった。それだけの島だった。
フロリアが倒れたのは、海底都市から出て、半日も経たないうちだった。
倒れた、というほど派手じゃなかった。ゲコッタの背中に座っていたフロリアが、だんだん前傾みになって、あたしが「フロリア?」と声をかけたら、返事がなかった。体が傾いていた。
あたしがフロリアを支えて、ゲコッタに「近くに島はある?」と聞いたら、「あるゲコ」と言ったから、そこへ来た。
今、フロリアは木陰で横になっていた。
顔色が悪かった。白いというより、薄い。透けそうなくらい薄い。息はちゃんとしているし、呼びかけると返事もする。でも目を開けていられないらしくて、すぐ閉じてしまう。
「痛いところある?」
あたしが聞くと、フロリアは目を閉じたまま答えた。
「痛くは、ないです。ただ、力が、入らない」
「どこから?」
「全体的に」
「ご飯食べてないから?」
「そうでは、ないと思います。もっと、根っこのところから」
ポポルがフロリアの隣に来て、顔をじっと見た。
「ポポが思うに、種を集めるほど、フロリアという人の力が消耗するポポ」
「フロリア、そういうこと?」
あたしはフロリアに聞いた。
フロリアが少し間を置いた。
「……かもしれません。種の気配を感じ取って、植物と話して、種を受け取る。それを繰り返すたびに、少し、重くなる感じがします」
「じゃあ、七つ集めたら」
「分かりません」
フロリアが目を開けて、空を見た。
「でも、大丈夫です。休めば戻ります」
「大丈夫って、あたしが言う言葉だよ」
「……借りました」
あたしは笑えなかった。
ゲコッタが「しばらく停泊するゲコ。手紙の整理もしたいゲコ」と言ったので、この島でしばらく過ごすことになった。
あたしは砂浜で魚を捕まえて、焼いた。フロリアのために果物も探してきた。水は岩の湧き水で確保した。
フロリアは少し眠って、夕方には起き上がれるようになった。でも顔色は朝と変わらなかった。
「食べられる?」
あたしは、葉っぱに包んだ魚を差し出した。
「ありがとうございます」
フロリアは両手で受け取った。
「葉っぱに包んでありますね」
「保存のために、って言ったじゃん」
「もう覚えました」
フロリアが葉っぱを開けた。
「……虫がついていませんか」
「ついてない。確かめた」
「ありがとうございます」
フロリアが魚を食べた。ゆっくりだったけど、全部食べた。
「おいしい?」
「おいしいです」
「よかった」
何か言おうとして、何も言わなかった。
フロリアの顔色が悪いのが、気になった。心配している、というのとも少し違う。何か、うまく形にできない感じがした。
フロリアが種を集めるたびに消耗しているなら、七つ全部集めたとき、どうなるんだろう。
カラマが言っていたことが、頭に戻ってきた。
世界樹の花から生まれた命は、最後に世界樹へ還る。
考えたくなかったけど、考えてしまった。
「リオナ」
「うん」
「難しい顔をしています」
「してない」
「しています」
「……してるかも」
「何を考えていますか」
「いろいろ」
「フロリアのことですか」
あたしは少し止まった。
「……そうかも」
「心配しなくて、大丈夫です」
「さっきもそう言った」
「本当のことですので、繰り返します」
「でも顔色が悪い」
「それは体質かもしれません」
「花姫の体質?」
「……元々、色白なのです」
「言い訳じゃん」
フロリアが少し黙った。それから、小さく笑った。
「少しだけ、言い訳です」
「じゃあ、言い訳しなくていい」
あたしが言うと、フロリアは少しだけ目を瞬かせた。
「怒っているのですか」
「怒ってない。たぶん」
「たぶん」
「心配してるだけ」
言ってから、自分で少し驚いた。
心配なんて、前からしていたはずだ。虫に驚いたときも、泥に足を取られたときも、食虫花に服をくわえられたときも。
でも今の心配は、それとは違った。
転んだら手を引けばいい、怖がったら笑えばいい、そういうものじゃない気がした。
「フロリア、さっき海底都市で、ずっと声を聞いてたんでしょ」
「……はい」
「聞くだけでも、疲れるの?」
「傷ついている声ほど、深く入ってきます」
フロリアは胸元に手を当てた。
「痛い、というほどではありません。ただ、少しだけ、重いのです」
「じゃあ、次から重くなる前に言って」
「リオナに言うと、止められそうです」
「止めるかも」
「それは困ります」
「でも、倒れられる方がもっと困る」
フロリアは、すぐには答えなかった。
波の音がした。
「……努力します」
「努力じゃなくて、約束」
「リオナは、そういうところだけ急に強引です」
「そういうところだけ?」
「ほとんど全部です」
「ひどい」
フロリアが、小さく笑った。
さっきより少しだけ、顔色が戻ったように見えた。
夜になった。
焚き火をして、三人で火を囲んだ。波の音が続いていた。ゲコッタは浅瀬で寝ていた。
しばらく、誰も話さなかった。
静かだった。ジャングルの夜とは違う静けさで、虫の声もしゃべる木の声もない。波と風だけだった。あたしは最初、その静けさが少し落ち着かなかった。でも慣れてきたら、悪くなかった。
ポポルが火をじっと見ていた。
ふだんのポポルは、こういうとき何か言う。食べ物のことか、文句か、あたしへのツッコミか。でも今夜は黙っていた。
昼間、海底都市の入口で、ポポルは石板を見ていた。
ただ見ていた、というより、目で文字を追っていた。
あたしが「何か書いてあるの?」と聞いたら、「海の字は読みにくいポポ」とだけ言った。
読みにくい、ということは、少しは読めるということだ。
そのときは、そこまで考えなかった。
「ポポ」
「うん」
「どうしたの?」
「何もないポポ」
「何かある顔してる」
「何もないポポ」
フロリアが火の向こうからポポルを見ていた。
「ポポルさん」
「ポポだ」
「さっき、海底都市の遺跡の壁を見ていましたね」
「……見てたポポ」
「壁に、古い文字がありました。わたしは少し読めましたが、ポポルさんは、全部読んでいましたか」
焚き火がぱちっと音を立てた。
ポポルが黙った。
あたしはポポルを見た。ポポルは火を見ていた。
「ぜ、全部なんて読めるわけないポポ。ポポはただの小動物だポポ」
「そうですか。では、海底都市の入口の石板に刻まれていた文字は、何でしたか。古代語で書かれていて、わたしも半分しか読めませんでした」
またポポルが少し黙った。
「……命の声が集まる場所、と書いてあったポポ」
あたしは「え」と言った。
フロリアが「やはり」と言った。
「ポポ、読めるの?」
「……読めるポポ」
「なんで」
「なんで、というのは」
ポポルがやっと火から顔を上げた。
「ポポ族は、もともとそういう生き物だポポ」
「そういう生き物って」
「古代の話だポポ。ずっと昔、世界樹がもっと元気だったころ、世界樹を守っていた人たちがいたポポ。その人たちの案内役が、ポポ族だったポポ。遺跡の文字を読んで、仕掛けを解除して、花姫が正しい場所へ行けるように道を開ける――それがポポ族の役目だったポポ」
波の音だけがした。
「知ってたの?」
あたしは聞いた。
「知ってたポボ」
「ポボ?」
「ポポだ。知ってたポポ」
「なんで言わなかったの?」
ポポルが少し黙った。
「……言ったら、面倒なことになると思ったポポ」
「面倒って」
「役目がある、ということが分かったら、ちゃんとしないといけない。ちゃんとするのが、怖かったポポ」
あたしは何も言えなかった。
ポポルが「怖い」と言ったのを、あたしはあまり聞いたことがなかった。食いしん坊で口が悪くて、文句を言いながらついてくる。でもちゃんとした怖さがあって、それをずっと抱えていたんだ。
「ポポル」
「ポポだ」
「なんで怖いの」
「役目があるということは、失敗したら困る人がいる、ということだポポ。ポポがちゃんとしなかったせいで、誰かが困る。それが怖いポポ」
「だから黙ってた?」
「黙っていれば、役目は来ないポポ。ただの小動物でいれば、何も期待されないポポ」
焚き火がまた鳴った。
フロリアが、穏やかな声で言った。
「ポポルさん」
「ポポだポポ」
「怖いのは、悪いことではありません」
ポポルがフロリアを見た。
「……花のお嬢」
「フロリアです」
「……フロリア」
ポポルが初めて、からかう感じなしで名前を呼んだ。
「怖くても、いいのか」
「いいです。わたしも怖いです」
フロリアが少し笑った。
「種を集めるたびに怖くなります。次はどうなるか、最後にどうなるか。でも、怖いからこそ、慎重になれます。怖いことは、悪いことではない」
「……フロリアは、賢いポポ」
「ポポルさんも、賢いです。ずっと見ていれば分かります」
「ポポだ」
あたしはポポルに言った。
「怒ってないよ」
「……怒らないのかポポ」
「怒らない。でも」
「でも?」
「次から言って。一人で抱えなくていい」
ポポルが耳をぺたんとした。
「……言うのが、恥ずかしいポポ」
「何が」
「ポポはいつも偉そうにしてるポポ。文句を言って、ツッコミをして、リオナの無茶に呆れてる。そういうポポが、実は役目を怖がってましたなんて、言えないポポ」
「言えるじゃん」
「今だから言えたポポ。夜だから。暗いから」
「夜と暗さのおかげで言えたの?」
「そうだポポ」
あたしは笑った。
「じゃあ、また夜になったら聞く」
「……それでいいポポ」
「わたしもいいですか」
「何を?」
「夜に話を聞いても」
「……フロリアはいつも丁寧だポポ」
「そうですか?」
「いつも許可を取るポポ。変わってるポポ」
「許可を取るのは当然ではないですか」
「ジャングルでは、リオナが許可なく突っ込むのが普通だポポ」
「それは普通ではありません」
「あたしは聞いてる」
「聞いていません」
「聞いてる。体の動きが先になることがあるだけで」
「それを聞いていない、と言います」
「……まあいいポポ。三人とも、夜に話すポポ。それでいいポポ」
火が小さくなっていた。
波が変わらず来ていた。
寝る前に、ポポルが言った。
「火山の場所も、分かるポポ。古代の地図が、記憶の中にあるポポ」
「記憶の中に?」
「ポポ族の記憶は、受け継がれるポポ。ポポが生まれたときから、ある程度の地図は頭の中にあるポポ。遺跡の文字も同じだポポ。生まれつき読めるポポ」
「それ、便利だね」
「便利かどうかは、使い方次第だポポ。でも、これからはちゃんと使うポポ」
「うん」
「三人で、だポポ」
「うん」
フロリアがもう眠っていた。顔色は、夕方より少しだけ良くなった気がした。
ポポルがフロリアの隣に丸まった。小さな体が、フロリアの腕の横でふわっとなった。
「ポポが隣にいるポポ」
ポポルが誰に言ったのか、分からなかった。
あたしは少し離れたところに横になった。
星が見えた。
さっきのことを考えていた。ポポルが怖かったこと、フロリアが怖いこと、でも言えたこと。
あたしは怖いかな、とあたしは思った。
怖い、という感覚がよく分からなかった。行けば分かる、やれば分かる、でどこへでも突っ込んできた。だから怖さをあまり感じたことがなかった。
でも。
フロリアが種を集めるたびに消耗していること、七つ集めた先に何があるか分からないこと。
それを考えると、むずむずよりも、もっと重い何かが胸にあった。
これが怖い、なのかもしれない、とあたしは思った。
でも、夜じゃないと言えない気がした。
波が来て、返って、また来た。
あたしは目を閉じた。
朝になって、ポポルが言った。
「火山島へ行くポポ」
「昨日も言った」
「昨日は夜だったポポ。朝に改めて仕切り直すポポ」
「仕切り直し?」
「そうだポポ。仕切り直しだポポ」
フロリアが起き上がった。顔色が、昨日よりだいぶ戻っていた。
「出発できます」
「大丈夫?」
「大丈夫です。今回は本当に」
「本当に、をつけてくれると信じやすい」
「では今後はつけます」
フロリアが立ち上がって、砂を払った。
「ポポルさん、火山への道は分かりますか」
「ポポだ。分かるポポ。ゲコッタに伝えるポポ」
「頼みます」
ポポルがゲコッタの方へ歩いた。
フロリアがあたしを見た。
「昨日は、ありがとうございました」
「何を?」
「ご飯を持ってきてくれたこと、隣にいてくれたこと」
「たいしたことしてない」
「リオナにとってはたいしたことでなくても、わたしにとってはたいしたことです」
あたしは少し照れた。照れたのが分かったから、海の方を向いた。
「また具合が悪くなったら、言って」
「言います。今後は隠しません」
「うん」
「リオナも」
「あたしが何かを?」
「難しい顔をしているとき、言ってください。昨日、何か考えていたでしょう」
「……考えてた」
「言えますか」
あたしは少し間を置いた。
「……夜になったら」
フロリアが少し笑った。
「ポポルさんと同じですね」
「夜の方が言いやすい」
「では夜に聞きます」
ゲコッタが「出発するゲコ」と言った。
三人で背中に乗った。
島が後ろに小さくなっていった。名前のない島だったけど、なんか、悪くなかった。
その夜、火山島へ向かう海の上で、あたしはなかなか眠れなかった。
ゲコッタの背中はゆっくり揺れていた。ポポルは丸くなって寝ている。空には、見たことのない星がいくつも出ていた。
「リオナ」
隣から、フロリアの声がした。
「夜になりました」
「……覚えてたんだ」
「聞くと言いましたから」
あたしは膝を抱えた。
波の音が、暗いところから何度も聞こえてくる。
「フロリアが倒れたとき、ちょっと怖かった」
「……はい」
「世界樹とか、種とか、声が消えるとか、そういうのも大変なんだと思う。でも、その前に、フロリアがいなくなったら嫌だと思った」
言ってから、胸のあたりが変に熱くなった。
変なことを言った気がした。
でも、嘘ではなかった。
「変かな」
「いいえ」
フロリアの声は、波の音より静かだった。
「わたしは、それを聞けてよかったです」
「よかったの?」
「はい。リオナが何を怖がっているのか、少し分かりました」
フロリアは海の方を見た。
夜の海は黒くて、どこまで続いているのか分からなかった。
「わたしも、怖いです」
「フロリアも?」
「はい。世界樹が枯れることも、声が消えることも。でも、今は……あなたに何も言えなくなることも、怖いです」
あたしは、うまく返事ができなかった。
ただ、フロリアの横に座っていた。
それでいい気がした。
「じゃあ、言えることは言おう」
「はい」
「夜じゃなくても」
「……努力します」
「約束」
「リオナは、約束が好きですね」
「破らないで済むから」
「では、約束です」
フロリアが、小さく笑った。
夜の海の上で、その笑い方だけ、少し明るく見えた。
ポポルが肩の上で言った。
「見えてきたポポ」
「火山島?」
「そうだポポ。あれが、泣き虫火山だポポ」
「火山が泣くの?」
「それは、行ったら分かるポポ」
「じゃあ行けば分かる」
「リオナの“行けば分かる”は信用してないポポ。でも今回は正しいポポ」
海が広がっていた。
遠くに、煙が上がっているのが見えた。
火山島は、まだ少し遠かった。




