第八章 花姫さまが、はじめて怒る
群島を出て、一日が経った。
海の上は静かだった。昨日みたいに追手の船は来なかった。ゲコッタがゆっくり泳いで、波が穏やかで、風が気持ちよかった。
あたしはゲコッタの背中で寝転んで、空を見ていた。
雲が流れていた。形が変わりながら、どこかへ行く。ここからは見えない場所へ。
群島のことを考えていた。ルミナのことじゃなくて、フロリアのことを。
「だめでは、ありません」と言ったときの声。あれは怒っているのとは違った。でも、普通でもなかった。
何だったんだろう、とあたしは思った。
「リオナ」
ポポルが呼んだ。
「うん」
「考え事してるポポ」
「してる」
「フロリアのことポポ」
「なんで分かるの」
「顔に出てるポポ」
あたしは起き上がった。フロリアはゲコッタの背中の前の方で、膝を抱えて座っていた。海を見ているのか、目を閉じているのかよく分からない。
「ポポ」
あたしは小声で言った。
「昨日のフロリア、何がむっとしてたの」
「リオナとルミナが楽しそうにしてたからだポポ」
「楽しかったのは楽しかったじゃん」
「そうだポポ。でも、フロリアは一人だったポポ」
「いっしょに行こうって言ったよ」
「高いのが苦手だって言ったポボ」
「ポボ?」
「ポポだ。だから行けなかったポポ。行けなかったのに、リオナはルミナと走り回ってたポポ」
「……うーん」
「うーんじゃないポポ」
「うーん」
「うーんって言うなポポ」
あたしはフロリアの方をもう一度見た。フロリアは相変わらず海の方を向いていた。
どう声をかければいいか、考えていたら。
ゲコッタが「見えるゲコ」と言った。
島が見えた。
群島とは全然違う。空には浮いていなくて、海から普通に出ていた。でも、何かおかしかった。
近づくにつれて、分かってきた。
島の上に、別の船がいた。
商会の船だ。昨日とは違う船で、大きかった。帆に紋章がついている。甲板に人が何人かいて、長い棒みたいなものを島の方に伸ばしていた。
「何してるの?」
あたしは聞いた。
「植物を採っているゲコ。よく来る船ゲコ。この辺の珍しい植物を持っていくゲコ」
「乾きの商会?」
「そうゲコ」
フロリアが立ち上がった。
「近づいてください」
「危ないゲコ」
「見たいのです」
ゲコッタはゆっくり島に近づいた。
甲板から、長い棒――採取用の道具らしかった――で、島の斜面に生えた植物を引っこ抜いていた。根ごとだった。引っこ抜かれた植物は、金属の箱に入れられていた。
フロリアの顔が変わった。
怒っているのとも違う。でも、普段のフロリアではなかった。目が細くなって、口が真一文字になって、体が少しだけ前に傾いていた。
「根ごと、抜いています」
「うん」
「根ごと抜かれたら、植物は死にます。場所から切り離されて、土から切り離されて」
「商品にするから、きれいな状態で持っていきたいんじゃないかな」
「きれいな状態」
フロリアがその言葉を繰り返した。
「きれいな状態で、死んでいるのですね」
あたしは何も言えなかった。
商会の人たちは、植物を乱暴には扱っていなかった。
むしろ、驚くくらい丁寧だった。
葉に傷がつかないよう布で包み、根についた土を払って、白い箱の中へ並べていく。花びらの向きまで揃えている。
だからこそ、余計に変だった。
植物たちは、きれいにされるほど、元いた場所から遠くなっていくように見えた。
船の甲板に、一人、違う人がいた。
他の人たちは作業着だったけど、その人だけ白い服を着ていた。日よけの帽子をかぶって、眼鏡をかけていた。手に、植物標本を入れるケースを持っていた。
その人が、こちらを向いた。
目が合った。
白い服の人が、船べりに来た。
二十代の後半か三十代の初めくらいの女の人だった。眼鏡の奥の目が、穏やかだった。怒っているわけでも、慌てているわけでもなかった。ただ、見ていた。
「花姫」と、その人が言った。
声も穏やかだった。
「カラマ、と申します。乾きの商会で、研究の責任者をしています」
フロリアが返事をしなかった。
カラマが続けた。
「ここの植物を調査しています。珍しい種が多い。世界の各地で、管理されずに失われていく自然が多い。採取して保存することで、後世に伝えられる」
「保存」
フロリアが言った。
「はい。美しい状態で。標本にして、記録して、管理する」
「美しい状態で、死んでいる」
カラマが少しだけ目を細めた。
「死ではありません。記録です。生きていれば、いつか失われます。管理された形で残す方が、長く続く」
「植物は、管理されるために生きているのではありません」
フロリアの声が変わった。
あたしは思わずフロリアを見た。声の温度が、普段と違った。低くて、揺れていなかった。
「植物には、場所があります。土があります。隣に誰がいるか、水がどこから来るか、風がどちらから吹くか。それが全部あって、その植物です。根ごと抜いて、箱に入れて、管理するのは――」
「保護です。放っておけば、世界は乱れます。命に任せるから、植物は失われる。人間が関わることで、守られるものがある」
「それは、管理したいだけです」
「管理の何が悪いのですか」
カラマが少し前に出た。
「あなたは花姫だ。世界樹の力で、しゃべる動植物の声を守ろうとしている。でもその方法も、一種の管理ではないですか。種を集めて、世界樹に戻して、世界を整える。それは、自然に任せることではない」
フロリアが黙った。
カラマの言葉が、空気の中に残った。
「一度、話しましょう。花姫。あなたの考えを聞きたい。わたしの研究も、見てほしい」
「見る必要はありません」
「なぜ?」
「あなたの言葉の中に、植物の声がありません」
フロリアはカラマをまっすぐ見た。
「美しい、管理する、保存する。でも、痛い、苦しい、怖い、という言葉がない。植物を見ているようで、植物の話を聞いていない」
カラマが少し止まった。
初めて、表情が動いた気がした。
「……花姫には、声が聞こえるのですか」
「聞こえます」
「羨ましい。わたしには聞こえない。だから、記録するしかない。残すしかない」
フロリアが何か言おうとした。
そこで、甲板の奥から声がした。
「カラマ様! 採取が終わりました! それと、例のものを――」
「あとにしなさい」
カラマが振り返らずに言った。
「でも――」
「あとに、と言いました」
甲板がしーんとなった。
カラマがフロリアを見た。
「花姫。あなたが最後に何を選ばなければならないか、知っているのでしょう?」
フロリアの体が、わずかに固まった。
「……何のことですか」
「世界樹の花から生まれた命は、最後に世界樹へ還る。古い記録に、あります。あなたも知っているはずだ」
あたしは、フロリアを見た。
フロリアは、カラマを見たまま動かなかった。
「種を集め終わったとき、あなたは一人で背負うことになる。それでも、信じることができますか。命に任せることを」
「……できます」
フロリアの声は、揺れなかった。
「できます。なぜなら、わたしは一人ではないから」
カラマが少しだけ、フロリアの後ろを見た。あたしのことを見たのかもしれない。
「そうですか。では、また会いましょう。花姫」
カラマが船の内側に戻っていった。
しばらくして、商会の船が動き出した。島から離れて、別の方向へ進んでいった。
船が見えなくなってから、あたしはフロリアに近づいた。
「フロリア」
「……はい」
「さっきの、カラマって人。何を言いたかったの」
「わたしへの、牽制です」
フロリアは海を見ていた。
「種を集めるのをやめさせようとしているのか、それとも――試しているのか、どちらかです」
「最後に一人で背負う、って言ってた」
フロリアが少し黙った。
「……確かではありません」
「でも、知ってたんだ」
「古い記憶の中に、それに近いものがあります。でも、わたし自身も、まだ本当の意味を分かっていません」
「世界樹へ還るって、フロリアがいなくなるってこと?」
フロリアはすぐには答えなかった。
波の音だけがした。
「……そうなる可能性が、あります」
フロリアが、あたしの名前を呼んだ。
「リオナ」
「うん」
「今は、考えないことにします」
あたしの方を向かずに、でもはっきりした声で言った。
「確かでないことを今から心配しても、種は集まらない。あなたなら、そう言うと思ったので」
「言う」
「でしょうね」
フロリアが少しだけ笑った。でも、その笑い方は、いつもより小さかった。
「でも」
フロリアが少し間を置いた。
「少し、怖いです。カラマに言われると、現実みたいになる」
あたしは何か言おうとした。
うまい言葉が、今回も出てこなかった。
だから、フロリアの隣に立った。肩が触れるくらい近くに。
フロリアが少しだけあたしの方を向いた。
「何ですか」
「何もない」
「また、隣にいるだけ、ですか」
「そう」
フロリアは前を向いた。
今度は、肩が離れなかった。
ポポルが降りてきて、二人の前に立った。
「ポポからも言っていいか」
「どうぞ」
「カラマという人、悪い人じゃないポポ」
「分かります。植物を愛している。それは本物です。でも、愛し方が――」
「声を聞かずに、見てるだけだポポ」
「そうです」
「でも、フロリアも、少し気をつけた方がいいポポ」
「わたしが?」
「カラマが言ったこと。一人で背負う、というやつだポポ。フロリアという人は、そういうことを本気でしようとするポポ」
フロリアが黙った。
「ポポは見てたポポ。フロリアという人が、種を集めるたびに、少し遠くを見る目をするポポ。どこか、もう決めてしまっているような目だポポ」
「……ポポルさんは、よく見ていますね」
「ポポだ。それだけが取り柄だポポ」
フロリアが少しだけ目を伏せた。
「まだ、決めていません。決められないでいます」
「それでいいポポ。決めなくていいポポ。でも、一人で決めるなポポ」
夕方になった。
島が遠くなっていた。商会の船が採取していた斜面に、根の切られた跡がいくつか残っていた。あそこだけ、土が剥き出しになっていた。
フロリアがその場所を最後まで見ていた。
「フロリア」
あたしは呼んだ。
「はい」
「さっき、カラマに言ったこと」
「何を?」
「一人じゃないから、できる、って」
フロリアが少し止まった。
「……言いました」
「本当にそう思ってる?」
フロリアがあたしを見た。しばらく、あたしの顔を見ていた。
「……思いたいです。まだ、信じ切れていない部分がある。でも」
「でも?」
「リオナがそこにいると、少し信じられる気がします」
あたしは笑った。
「じゃあ、いつもそこにいる」
フロリアが少し目を細めた。笑っているのか、困っているのか、よく分からない表情だった。
「……大げさです」
「大げさじゃない」
「あなたは、いつも言葉が足りないか、多すぎるかのどちらかです」
「今回はどっち?」
「……今回は、ちょうどいいです」
波の音がした。ゲコッタが「今日はここで停泊ゲコ」と言った。
空が赤くなっていた。
あたしは今日のことを順番に思い出した。ルミナと走ったこと、フロリアが一人で端に立っていたこと、カラマの穏やかな目、フロリアが退かなかったこと。
フロリアは、思ったより強い。
怖がりで、泥が苦手で、虫に驚く。でも、退かなかった。カラマに何を言われても、揺れなかった。
守られるだけじゃない、とあたしは思った。
最初に遺跡で見たとき、きれいだと思った。次に、面倒だと思った。それから、真面目だと思った。今は――
何だろう、とあたしは思った。
うまい言葉が出てこなかった。でも、悪い感じじゃなかった。
ポポルがあたしの肩に乗ってきた。
「何考えてるポポ」
「いろいろ」
「フロリアのことポポ」
「うるさい」
「当たりだポポ」
「うるさい」
フロリアが少し離れたところで、種を確認していた。三つ、手のひらの上で光っていた。
あと四つ。
世界は広くて、まだ遠い。でも今日より昨日より、少しだけ前に進んでいる。
そういう感じが、悪くなかった。




