第七章 鳥人少女と空の走り方
空飛ぶ群島は、名前のとおり、浮いていた。
近づくにつれて、だんだん全体が見えてきた。島が、一個じゃない。大小合わせて十個くらいの岩の塊が、それぞれ雲の高さに浮かんでいる。島と島の間に蔓が張ってあって、橋みたいになっている。一番大きい島の下からは、滝が落ちていて、その水が下の海に届く前に霧になっていた。
「浮いてる」
「浮いています」
「なんで浮いてるの?」
「世界樹の力が大地に宿っている場所が、稀にこういう形になるそうです。地面の下から、上へ向かう力が強い」
「じゃあ世界樹が弱ったら、落ちる?」
フロリアが少し黙った。
「……可能性はあります」
「早く種を集めないといけないね」
「そうです」
ポポルが肩の上で耳をぴんとさせた。
「あそこから何か来るポポ」
上から、影が降りてきた。
速かった。鳥かと思ったら、人だった。人なんだけど、背中に大きな翼がある。羽根の生えた翼で、広げると両腕より長い。茶色の羽根が朝日に照らされて、金色に光っていた。
影はゲコッタの目の前で止まった。
女の子だった。
あたしと同じくらいの年で、日に焼けた肌に、短く切りそろえた黒髪。目が大きくて、口の端が上がっていた。翼をたたんで、腰に手を当てて、あたしたちを見下ろしている。
「花姫と、その連れ?」
「そう。あんたは?」
「ルミナ。この群島の案内役をやってる」
「鳥人族?」
「そう。翼があれば誰でも鳥人ってわけじゃないけど、まあそう呼んでくれていい」
ルミナが翼をひと広げした。風が来た。
「上がってきて。島まで案内する」
「どうやって上がるの?」
フロリアが聞いた。
「蔓がある。登れる?」
「登れます!」
「あなたは、の話です」
フロリアがあたしに言った。
「わたしは、蔓を登るのは――」
「引っ張る」
「引っ張る?」
「あたしが上から引っ張る。大丈夫」
「あなたの“大丈夫”は――」
「今回は本当に大丈夫」
「毎回そう言います」
ルミナがくすっと笑った。
「面白い二人組だね」
「二人組と一匹だポポ」
「失礼。三人組」
蔓を登るのは、思ったよりきつかった。
でも楽しかった。ジャングルのツタ渡りとは違う楽しさがある。下を見ると、ゲコッタが豆粒みたいに小さくなっていた。海が光っていた。高くなるにつれて、風が強くなって、体ごと持っていかれそうになる。
途中で、フロリアが「リオナ」と叫んだ。
「大丈夫?」
「大丈夫ですが」
フロリアは下を見ないようにしながら言った。
「高い場所が、少し」
「見なきゃいい」
「見ていません。でも、感じます」
「上だけ見て。あたしがいるから」
フロリアが顔を上げた。あたしと目が合った。
「……はい」
一番大きい島に着いた。
地面は草で覆われていて、木が何本も生えていた。地面の下が空中だとは思えないくらい、しっかりした大地だった。村みたいなものもあって、鳥人族の人たちが何人かいた。みんな翼を持っていた。
ルミナが着地して、翼をたたんだ。
「ここが群島の中心。三つ目のいのちの種は、もう少し上の小島にある」
「もう少し上?」
あたしは聞いた。
「あの辺」
ルミナが上を指さした。
さらに小さい島が、もっと高いところに浮かんでいた。
「あそこに、雲の羊がいる」
ルミナが伝えた。
「雲の羊?」
「雲でできた羊。白くてふわふわで、臆病な生き物。種を持ってる」
「雲でできてるのに、種を持てるの?」
「持ってる。見れば分かる」
フロリアが上を見た。
「気配はあります。あの辺りに、確かに」
「じゃあ行こう」
「どうやって?」
「蔓が――」
「さっきより、もっと高いですね」
「大丈夫」
「また言った」
ルミナがあたしを見た。
「あんた、体動かすの好き?」
「好き」
「空、走ったことある?」
「ない。空は走れないでしょ」
「走れる」
ルミナが片方の翼をぱっと広げた。
「やり方がある。教えようか」
あたしはルミナを見た。ルミナはまっすぐこっちを見ていた。目が、あたしと似た感じだった。面白いと思ったら飛び込む、そういう目。
「教えて」と、あたしは頼んだ。
やり方は、こうだった。
群島と群島をつなぐ蔓の上を走る。蔓が揺れた瞬間に跳ぶ。そこに風が来るから、体が上に持っていかれる。その勢いで次の蔓に着地する。
「それだけ?」
あたしは不思議に思った。
「それだけ。でも、タイミングがある。風を読まないといけない」
「やってみる」
「見てな」
ルミナが蔓の上を走った。軽かった。足音がするかしないかくらいで、蔓の揺れに合わせて体が沈んで、ぱっと跳んだ。翼を少し広げて、風に乗って、次の蔓の上にすとんと着いた。
「かっこいい!」
あたしは思わず叫んだ。
「でしょ」
ルミナが戻ってきた。
「やってみて」
あたしは蔓の上に乗った。足の裏で揺れを感じた。風の向きを確認した。走り出した。
最初は失敗した。跳ぶタイミングが早くて、風が来る前に跳んでしまった。隣の蔓に手でつかまって、ぶら下がった。
「惜しい。もう少し待って」
「分かった」
もう一回。今度は風を待った。蔓が大きく揺れた瞬間に跳んだ。体が浮いた。さっきより高い。次の蔓に着地した。
「できた!」
「できてる!」
ルミナが笑った。
「筋がいい!」
「もう一回!」
「どうぞ!」
あたしとルミナは蔓から蔓へ跳び続けた。ルミナは翼を使うから速いけど、あたしも負けたくなくて全力で走った。風を読んで、揺れに合わせて、体を投げ出す感覚が気持ちよかった。
ジャングルのツタ渡りと似ているけど、違う。ここには下に地面がない。落ちたら海だ。でもそれが怖くなくて、むしろ解放された感じがした。
「リオナ、速い!」
「ルミナも速い!」
「もう一回、競争する?」
「する!」
声をかけてきたのは、後ろからだった。
「……リオナ」
フロリアだった。
フロリアは最初の島の端に立って、こちらを見ていた。
あたしは蔓の上で止まった。
「フロリア! 来る?」
「来ません。高すぎます」
「じゃあ、そこで待ってて! すぐ戻る!」
「……そうですか」
フロリアの声が、少し平坦だった。でもあたしはもうルミナと走り出していた。
一通り走り回ってから、あたしは最初の島に戻った。
フロリアはずっと端に立っていた。ポポルが隣にいた。
「楽しかった!」
「そうですね」
「ルミナ、すごい。空の走り方、本当にあるんだ」
「そうですね」
「フロリアも」
「わたしは結構です」
あたしはフロリアの顔を見た。怒っているわけじゃなかった。でも、何か違う。さっきより表情が薄い。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
フロリアはそう言った。
でも、その「大丈夫」は、あたしがいつも言う「大丈夫」と少し似ていた。
本当は大丈夫じゃないときに、とりあえず口から出る言葉。
あたしは、さっきの自分の声を思い出した。
じゃあ、そこで待ってて。
すぐ戻る。
軽く言った。ほんとうに、軽く。
でもフロリアは、ここで待っていた。高い場所が怖いまま、知らない空の上で、あたしが戻ってくるのを待っていた。
「……ごめん」
「何がですか」
「置いていった」
「置いていかれたとは、思っていません」
「でも、待たせた」
フロリアは少しだけ黙った。
「……少しだけ、心細かったです」
「うん」
あたしは頷いた。
「次は、先に聞く。待ってるのが平気かどうか」
「それは、助かります」
「でも、走りたいときは走る」
「そこは変わらないのですね」
「そこは変わらない」
フロリアが、少しだけ笑った。
「では、手を離さないでください」
「うん。離さない。暑い?」
「いいえ」
「高いのが怖い?」
「慣れました、少しだけ」
「じゃあ――」
「種を集めに行きましょう」
フロリアが上を見た。
「雲の羊がいる小島へ、早く行かなければ」
あたしは何か言いかけて、やめた。
「……ルミナと走ってたの、嫌だった?」
聞いてから、変な聞き方をしたと思った。
フロリアは少しだけ目を伏せた。
「嫌、というわけではありません」
「じゃあ、何?」
「リオナは、誰とでもすぐ楽しそうにします」
「楽しいときは、楽しいから」
「それは、そうです」
フロリアは風に揺れる蔓を見ていた。
「ただ、少しだけ、置いていかれた気がしました」
あたしは言葉に詰まった。
ルミナとは走れた。でも、フロリアは高い場所が怖くて、そこで待っていた。
いっしょに来るか聞いたから、それでいいと思っていた。
でも、聞けばいいというものでもないのかもしれない。
「次は、フロリアも行ける道を探す」
「無理に合わせなくていいです」
「無理じゃない。三人で旅してるんだから」
フロリアが、少しだけこちらを見た。
「……はい」
その返事は小さかったけど、さっきの「そうですね」よりは、ちゃんとあたしに向いていた。
ルミナが降りてきた。
「準備いい?」
「いい」と、あたしは言った。
「花姫さまは?」
ルミナがフロリアを見た。
「上まで、いっしょに連れていく?」
「よろしくお願いします」
「じゃあ、おぶる」
「おぶる?」
「翼があれば飛べる。一人でもどうにかなる。背負ったままでも飛べる」
「……お手数をおかけします」
「全然。花姫さまは軽そうだし」
ルミナはにっこり笑った。
「リオナは自分で行ける?」
「行ける。蔓で上まで行く」
「じゃあ競争しようか。どっちが先に上に着くか」
「乗った」
フロリアが小さな声で言った。
「リオナは、誰とでもすぐ仲良くなるのですね」
あたしは振り返った。フロリアはルミナの背中に乗るために近づいていて、あたしの方を向いていなかった。
「そう?」
「……そうだと思います」
フロリアは少し間を置いた。
「誰とでも、すぐ笑って、すぐ走り出す」
「だめ?」
フロリアが少しだけ止まった。
「……だめでは、ありません」
それだけ言って、ルミナの背中に手を置いた。
上の小島は、霧の中にあった。
近づくと、白いものがいた。
雲の羊だった。
本当に雲でできていた。体の輪郭がふわふわしていて、踏み出すたびにわずかに形が変わる。目は薄い青で、角が霧みたいに透けていた。十匹くらいいて、小島の草を食べていた。草を食べると口の周りが少しだけ固まって、また溶ける。
「かわいい!」
「かわいいですね」
「触れる?」
「やめた方がいい。臆病だから、驚くと散る」
ルミナが言った。
「散る?」
「霧になって、ばらばらになる。しばらくすれば戻るけど、種はそれどころじゃなくなる」
「散らさないように、近づかないといけないね」
「それが難しい。今まで誰も近づけなかった」
ルミナが羊を見た。
「怖がらせずに近づく方法が分からなくて」
フロリアが草の上にしゃがんだ。羊から遠いところで、じっとしていた。
「フロリア?」
「少し、聞いてみます」
「羊に?」
「この島の植物に。植物は、羊の近くにいつもいますから。羊が何を怖がっているか、知っているかもしれません」
フロリアが地面に手を当てた。目を閉じた。
しばらくして、フロリアの顔が変わった。
「……分かりました」
「何が?」
「羊たちは、この島が怖いのです」
フロリアが立ち上がった。
「島の一部が、枯れ始めています。島を支えている蔓の一部が弱って、島が傾きかけている。羊たちはそれを感じ取っていて、不安で臆病になっています」
「島が傾いてる?」
ルミナが言った。声が変わった。
「それは――」
「世界樹の影響です。ここも、影響が出始めています」
フロリアは足元の草に触れた。
草はまだ青かった。でも、先の方だけ、ほんの少し色が抜けていた。
「急に全部が枯れるわけではありません。最初は、こういう小さなところからです」
その言葉で、風の音まで少し頼りなく聞こえた。
フロリアがルミナを見た。
「どこの蔓が弱っているか、分かりますか?」
「分かる。最近、端の蔓が揺れすぎてると思ってた」
「そこを補強できれば、島は安定します。羊たちも落ち着くはずです」
ルミナが素早く上を見た。島の端の方、蔓が何本か垂れ下がっていた。
「あそこか。蔓を新しいのでつなぎ直せばいい。でも、あの場所は風が強くて――」
「あたしが行く」
「え?」
「蔓をつなぎ直せばいいんでしょ。場所を教えて。ルミナ、いっしょに来て」
「待ってください。あそこは風が強いと言いましたね。一人では――」
「ルミナがいる」
「ルミナさんは翼があるから安全ですが、リオナは――」
「大丈夫」
「また、また、そう言う」
「フロリアが場所を教えてくれた。あたしとルミナで蔓をつなぐ。三人でやればできる」
フロリアが少し黙った。
「……その蔓の位置は、ここからではわたしには示せません。でも、あなたに行ってほしい場所を伝えることはできます」
「伝えて」
「島の東側。この草がある方向から見て、右手に大きな岩があります。その岩の下に、蔓が四本垂れています。二本が弱っています。ルミナさんに正確な場所を確認してもらって」
「分かった」
「気をつけてください」
「うん」
あたしはルミナと走り出した。後ろでフロリアが羊に向かって、低い声で何か話しかけていた。
蔓の場所は、ルミナが案内してくれた。
島の端は、本当に風が強かった。立っていると体が持っていかれそうだった。下を見ると、霧と海が交互に見えた。
「あれ」
ルミナが岩の下を指さした。
「二本、色が変わってる」
確かに、四本の蔓のうち二本が、茶色く乾いていた。他の蔓より細くて、触るとぱりっとした感触がした。
「これをつなぎ直せばいい?」
「新しい蔓を持ってくれば。あそこの木から採れる」
ルミナが別の場所を指した。そこに太い蔓が垂れ下がっていた。あたしは走っていって、蔓を引っ張った。引いても切れない。
「腰に巻いて体重をかけて!」
ルミナが叫んだ。
あたしは蔓を腰に巻いて、思い切り体を傾けた。しばらくして、ブツンと切れた。必要な分を二本、用意した。
「ルミナ、風が来たら教えて。つなぐタイミングがある」
「分かった」
ルミナが翼を広げた。
「今は風が――来る!」
あたしは岩の縁に身を乗り出して、弱った蔓に新しい蔓を巻きつけた。手が滑る。風が来た。体が揺れた。
「リオナ!」
「大丈夫!」
二周、三周と巻いて、端を結んだ。一本終わり。もう一本。
風がまた来た。今度はさらに強かった。あたしの体が岩の縁から浮きかけた。
翼の音がした。ルミナがすぐ横に来て、あたしの腕をつかんだ。
「つかまれ!」
ルミナが翼で風を受けて、あたしを押さえた。あたしはもう一本の蔓を巻いた。結んだ。
終わった。
「できた!」
「できた!」
ルミナも笑った。
「あんた、本当に筋がいい!」
「ルミナも! 翼使いながら支えてくれた!」
「当たり前。放したらリオナが落ちる」
「落ちても下は海だから――」
「海には落ちさせない」
あたしはルミナを見た。ルミナは笑っていた。あたしも笑った。
島が、わずかに揺れた。蔓が張り直された感触が、地面を通して来た気がした。
小島に戻ると、フロリアがいた。
羊の近くに、しゃがんでいた。
羊が、一匹、フロリアの隣にいた。
触れていなかった。でも、隣にいた。フロリアは動かなかった。羊も動かなかった。そこだけ、静かな時間が流れていた。
あたしは、さっきまで空を走ることばかり考えていた。
速く走れば、遠くまで行ける。高く跳べば、届かない場所にも届く。
でも、この羊たちは、速く近づいたら逃げてしまう。
この種は、追いかけて取るものじゃない。
待って、怖がらせないで、向こうから近づいてきてもらうものなんだと思った。
あたしたちが近づくと、羊がこちらを向いた。それからフロリアを見た。
「大丈夫です」
フロリアが羊に向かって言った。
「この子たちは、あなたたちを驚かせません」
羊が、ゆっくり近づいてきた。あたしの手元をくんくん嗅いだ。ふわっとした感触が手に触れた。冷たくて、霧みたいだった。
「種を持っている羊は、一番奥にいます。群れが落ち着いたら、渡してくれると思います」
しばらくして、奥にいた一匹がこちらへ来た。一番大きい羊で、角が他の羊より長かった。その角の先に、小さな光が宿っていた。
光が、角からすっと離れた。
フロリアの手のひらに落ちた。
三つ目のいのちの種だった。
「ありがとうございます」
フロリアが羊に言った。
羊は何も言わなかった。でも角を一度上下させた。それからゆっくり群れに戻った。
群島を降りるとき、ルミナが見送りに来た。
「また来てよ。空の走り方、もっと教えてあげる」
「来る。絶対来る」
「リオナは、誰とでもすぐ仲良くなるね。いいことだよ。ほんとに」
あたしは笑った。
蔓を降りて、ゲコッタの背中に乗った。
出発するとき、フロリアがあたしの隣に座った。
少し間を置いてから、フロリアが言った。
「リオナは、誰とでもすぐ仲良くなるのですね」
「さっきも言ってたね」
「……もう一度、言いたかったのです」
「だめ?」
フロリアが少し黙った。
「……だめでは、ありません」
それ以上は言わなかった。
ポポルが小声であたしの耳元で言った。
「フロリアという人、少しむっとしてたポポ」
「知ってる」
あたしは小声で言った。
「リオナはそれに気づいてたポポ?」
「気づいてた」
「なんで何も言わなかったポポ」
「言い方が分からなかった」
ポポルが少し間を置いた。
「……そうか。まあ、ゆっくり考えろポポ」
「うん」
フロリアが海の方を向いていた。風が髪を揺らしていた。
あたしは前を向いた。
次の目的地はまだ遠い。でも今は、隣に誰がいるかの方が、少し気になった。




