第五章 大海原は思ったよりぬるっとしている
外の世界は、うるさかった。
うるさい、というのは、音がうるさいんじゃなくて、目がうるさい。見るものぜんぶが違う。波の色が違う、鳥の形が違う、雲の流れ方が違う。ジャングルの中にいるとき、世界はある程度決まっていた。あそこに木があって、あそこに滝があって、あそこにナハラおばさんがいる。でも海の上には、決まったものが何もない。
あたしはゲコッタの頭の上に立って、ずっと遠くを見ていた。
「リオナ、頭の上に乗るなゲコ」
「見晴らしがいいから」
「ゲコにとっては迷惑ゲコ」
「ごめん。でも、もう少しだけ」
「……しょうがないゲコ」
風が前から来た。潮の匂いと、知らない匂いが混ざっている。どこかの島の匂いかもしれない。あたしの知らない木や花の匂い。
胸のむずむずが、ずっと続いていた。
「何がそんなに楽しいのですか?」
後ろからフロリアの声がした。
振り返ると、フロリアがゲコッタの背中の真ん中に座って、あたしを見上げていた。少し困ったような顔をしている。
「全部」
あたしは答えた。
「全部?」
「波の色とか、あの鳥とか、雲の形とか。ジャングルと全部違う」
「そうですね」
フロリアは海を見た。
「でも、怖くないのですか」
「何が?」
「知らない場所へ行くことが」
あたしは少し考えた。
「怖いとか思う前に、面白い方が勝つ」
「……なるほど」
「フロリアは怖い?」
フロリアが少し黙った。
「怖いです。でも、行かなければならない」
小さな声で言った。
その言い方が、少し引っかかった。行きたいじゃなくて、行かなければならない。フロリアにとって、この旅はどういうものなんだろう。
聞こうとしたら、ポポルが「うぇ」と言った。
「ポポル、大丈夫?」
「大丈夫じゃないポポ。船酔いポポ」
「ゲコッタの背中、揺れる?」
「揺れるポポ。非常に揺れるポボ」
「ポボ?」
「言い間違えたポポ。それどころじゃないポポ」
フロリアがポポルの隣に移動して、背中をそっと撫でた。ポポルが少し楽そうな顔になった。
「植物じゃないのに、効くの?」
あたしは聞いた。
「生き物ですから。気持ちは伝わります」
「フロリアって、植物以外の生き物の気持ちも分かるの?」
「動物の気持ちは、植物ほど明確ではありません。でも、なんとなくは」
「あたしの気持ちは?」
フロリアがちらっとあたしを見た。
「今は、遠くを見たい気持ち」
「当たってる」
「顔に出ています」
昼になった。
ゲコッタが「お昼ゲコ」と言ったので、口から鞄を出してくれた。鞄の中にナハラおばさんが詰めてくれた食べ物が入っていた。葉っぱで包んだご飯と、乾かした果物と、木の実。
三人で並んで食べた。
フロリアが葉っぱの包みを開けて、中を覗いた。
「なぜ、食事が葉っぱに包まれているのですか」
「保存のため。葉っぱで包むと傷みにくい」
「なるほど……」
フロリアはそっと葉っぱをめくった。
「衛生的には?」
「食べられる葉っぱだから大丈夫」
「食べられる葉っぱかどうか、どうやって判断するのですか」
「匂いと色」
「……経験則ですか」
「ジャングルでは大事なこと」
フロリアは少し間を置いてから、葉っぱごとご飯を口に運んだ。
「……おいしいです」
「でしょ」
「ただ、葉っぱの苦みが――」
「慣れるよ」
「あなたはいつも慣れると言います」
「慣れることが多いから」
「……そうですね」
ポポルが木の実を抱えて食べていた。船酔いは少し落ち着いたらしい。
「フロリア、聞いていいか」
ポポルが言った。
「はい」
「種のことだポポ。七つ集めて、世界樹に戻す、それだけか」
フロリアの手が、少し止まった。
「……そうです」
「それだけか」
「……それだけです」
ポポルがじっとフロリアを見た。ポポルは目が小さいけど、こういうとき、ものすごく鋭い目をする。
「ポポはあまり信じてないポポ」
「ポポルさん――」
「ポポだ。フロリアという人、何か隠してるポボ」
「ポボ?」
あたしが突っ込んだ。
「ポポだ。船酔いがまだ残ってるポポ」
フロリアは葉っぱの包みを膝の上に置いて、海を見た。波が光を弾いていた。
「……隠しているわけでは、ありません。まだ、確かではないことがあるのです。確かでないことを話しても、混乱させるだけだと思って」
「確かでないことを教えろポポ」
「今は、言えません。言葉にしたら、本当になってしまいそうで」
フロリアはそれ以上は、何も言わなかった。
あたしも何も言わなかった。フロリアが話すかどうか、フロリアが決めることだと思った。
ポポルもそれ以上は問わなかった。
午後になると、風が変わった。
ゲコッタが「少し急ぐゲコ」と言って、足を速めた。水しぶきが増えた。
「何かある?」
あたしは聞いた。
「後ろゲコ」
振り返った。
遠くに、船が見えた。
商会の船だ。旗に見覚えのない紋章がついていて、でも昨日のバンゴたちが乗っていた感じと同じ雰囲気がした。
「見つかってる」
あたしは言った。
「早いですね」
フロリアが言った。
「ゲコッタ、逃げられる?」
「逃げるゲコ! 得意ゲコ! 郵便屋は逃げ足が命ゲコ!」
「そうなの?」
「追い立てられることが多いゲコ。しっとりした手紙のせいゲコ」
ゲコッタが跳んだ。
水面を蹴って、波の上を飛び石みたいに進んでいく。一回蹴るたびに、ものすごく前に進む。さすが巨大カエルだ。
でも商会の船も速かった。風を使っていて、真っ直ぐ追ってくる。
「距離が縮まってる」
あたしは言った。
「ゲコッタには、秘策があるゲコ」
「何?」
「口の中の郵便物を確認するゲコ」
ゲコッタが口を開けた。
中から、手紙が飛び出した。
一枚じゃなかった。大量に出てきた。ゲコッタが蓄えていたらしい、届けるはずの手紙が、海風に乗って舞い上がった。
「ゲコッタ、何枚あったの!」
「数えてないゲコ! 郵便は量より心ゲコ!」
手紙が商会の船の方へ飛んでいった。
船の上で、何人かが「うわ」とか「何だこれ」とか叫んでいるのが遠くから聞こえた。帆に手紙が張り付いて、風を受けられなくなったらしい。船の速度が落ちた。
「効いた!」
あたしは叫んだ。
「でも、手紙が」
フロリアが困った顔で言った。
「届けられなかった分は、あとで届けるゲコ。少々しっとりしているかもしれないゲコ」
「海水で濡れたのに、しっとりで済ますの?」
「しっとりゲコ」
「……受け取る人がかわいそうだポポ」
商会の船がどんどん遠くなった。
ゲコッタはそのまま速度を落とさずに進んだ。
夕方になると、水平線に島が見えてきた。
ジャングルとは全然違う風景だった。茶色くて、乾いていて、緑が少ない。でも、空の色が濃くて、夕日が当たるとものすごく赤く光っていた。
「あれが、砂漠のオアシス島?」
あたしは聞いた。
「そうゲコ。明日の朝には着くゲコ」
フロリアが島を見ていた。
「二つ目の種の気配がします。あの島の中心あたりに」
「分かるの?」
「種が一つ集まると、少し感覚が鋭くなります。まだぼんやりとしていますが」
「じゃあ、七つ集まると?」
「……はっきり分かるようになると思います」
「便利だね」
「でも、早く集めなければ意味がありません」
フロリアは島から目を離さなかった。
「世界樹の声が、少しずつ小さくなっています。種を集めるたびに戻りますが、まだ六つある」
あたしはフロリアの横顔を見た。
昼に、フロリアが言いかけてやめたことが、まだ頭にあった。
確かではないこと。
言葉にしたら、本当になってしまいそうなこと。
それが何なのか、あたしには分からなかった。でも、フロリアがずっと考えていることだけは分かった。
何か言おうとして、やめた。
うまい言葉が出てこなかった。あたしは言葉より先に動くタイプで、こういうとき、何を言えばいいか分からない。
代わりに、フロリアの隣に座った。
フロリアが少し、あたしの方を向いた。
「何ですか」
「何もない。隣にいるだけ」
「……そうですか」
フロリアはまた島の方を向いた。
でも、さっきより少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
気がしただけかもしれないけど。
夜になった。
ゲコッタが「夜は泳ぎながら進むゲコ」と言ったので、三人は背中の上で横になることにした。
揺れは昼よりあったけど、不思議と眠れた。
あたしが目を閉じる前に、ポポルがそっと耳元で言った。
「リオナ」
「うん」
「フロリアという人の話、聞いたポポ」
「うん」
「ポポは思うポポ。あの人、旅を続けたいポボ」
「ポボ?」
「ポポだ。続けたいと思ってるポポ。でも、続けていいか、自分に許可が出せてないポポ」
あたしは暗い空を見た。星が出ていた。ジャングルでは木が邪魔して見えない星が、海の上ではぜんぶ見えた。
「どうすれば許可が出るの」
「リオナがいっしょにいることじゃないかポポ」
「あたしが?」
「フロリアという人は、一人で決めようとするポポ。リオナは一人で動こうとするポポ。どっちも一人すぎるポポ」
あたしはポポルを見た。暗くて、ほとんど顔が見えなかった。
「ポポ、いいこと言うじゃん」
「いつも言ってるポポ。聞いてないのはリオナだポポ」
「ごめん」
「謝らなくていいポポ。直せポポ」
ゲコッタがゆっくり泳いでいた。波が穏やかだった。
少し離れたところで、フロリアが横になっていた。目を閉じているけど、眠れているかどうかは分からなかった。
あたしは、明日また話そう、と思った。何を話すかはまだ決まっていなかったけど、隣にいること、それだけは続けようと思った。
星を見ながら、目を閉じた。
波の音が、ゆっくり遠くなった。
夜が明けるころ、島が近くなっていた。
ゲコッタが「もうすぐゲコ」と言った。
島の輪郭が、朝日に照らされてはっきりしてきた。乾いた崖と、砂浜と、内側に緑が少しだけある。
その緑のあたりに、何か立っていた。
高くて細いもの。棘がある。腕みたいなものを広げている。
「あれは」
フロリアが言った。
「サボテンだポポ。でかいポポ」
「サボテンが、こっちを見ていませんか」
「見てるポポ。目がないのに、見てるポポ」
あたしは目を細めた。
サボテンは確かにこちらを向いていた。腕を広げたまま、ぴくりとも動かなかった。でも、何か言いたそうな雰囲気があった。
「どう対応すれば」
「……丁寧に、かつ、刺さらないように」
「ポポは刺さられたくないポポ」
ゲコッタが砂浜に近づいていった。
サボテンが、ぴくん、と動いた。
遠くから声が届いた。
「待っていたぞ! 我を抜きに来た者よ!」
最初の一言で、だいぶ面倒だと分かった。
「抜きに来てないよ!」
あたしは叫んだ。
「嘘をつくな!!」
「嘘じゃない!」
ポポルがため息をついた。
「面倒なポポ」
「でも、二つ目の種はあの辺にあります」
フロリアが言った。
「だよね」
「だよね、ではありません。向かいます」
「覚悟は?」
「刺さらなければ、あります」
あたしは笑った。
ゲコッタが砂浜に着いた。




