第四章 乾きの商会、バナナの皮で転ぶ
乾きの商会について、詳しいことはフロリアの方が知っていた。
足を止めないまま、フロリアが教えてくれた。
「世界樹のいのちの種を狙っている組織があります」
「組織?」
「商人の集団です。世界中の珍しいものを集めて売っていますが、その中にいのちの種も含まれている。彼らが種を手に入れれば、世界樹へ戻すことができなくなります」
「なんで種を売ろうとするの」
「種には力があります。いのちの力が詰まっているものを、ほしがる人は多い」
フロリアは少しだけ眉を寄せた。
「それだけではありません。商会の中には、自然の声を危ういものだと考える人がいます。動物や植物がそれぞれ勝手に声を持つから、世界は乱れる。だから人間が整理し、記録し、管理するべきだと」
「声があるのが、だめなの?」
「だめだと考える人もいる、ということです。声がなくなれば、森は静かになります。でも、それは平和ではありません。ただ、誰も助けを呼べなくなるだけです」
その言い方が淡々としていたから、あたしは少しだけ黙った。
「わたしには、その考えが怖い。それに、彼らのボスは――種の力そのものを、別の何かに変えようとしているようです。詳しくは、まだわかりません」
「王の森にいたのも、そいつらかな」
「おそらく」
ポポルがあたしの肩でひげを動かした。
「ポポは匂いを覚えたポポ。人間の匂いがした。知らない匂いだった」
「鼻がいいね」
「リスザルの部分がそうだポポ」
あたしは種のことを考えた。一つ目は手に入れた。でも六つ残っている。そして追いかけてくるやつらがいる。
「急いだ方がいいかな」
「急いだ方がいいです。ただし無計画に急ぐのは――」
「大丈夫」
「あなたの“大丈夫”は、あまり信用していません」
「ひどい」
「事実です」
「ポポも同意するポポ」
村に戻ると、にぎやかだった。
いつもにぎやかではあるけど、今日は違う種類のにぎやかさだ。子どもたちが広場を走り回っていて、犬が吠えていて、何人かの大人が口を押さえて笑っていた。
何かと思ったら、広場の真ん中で、知らない男が転んでいた。
大柄で、緑色の作業着を着ていて、泥の中に顔から突っ込んでいた。
その横で、小柄な女の子が「隊長!」と叫んでいた。
女の子はあたしたちと同じくらいの年で、茶色い髪をひとつにまとめて、商会の紋章らしいものがついたベストを着ていた。
「隊長、大丈夫ですか!」
「大丈夫だ!」
泥から顔を上げた男が言った。
「これは作戦のうちだ!」
「転んだだけでは……」
「違う! これは民衆に溶け込む作戦だ! 転ぶことで警戒を――」
「バナナの皮で滑っただけです」
「そういう作戦だ!」
「作戦名は?」
女の子が聞いた。
男は泥だらけの顔で、少しだけ黙った。
「……転倒潜入作戦だ」
「今、考えましたよね」
「作戦とは、現場で育つものだ!」
ポポルが肩の上でつぶやいた。
「あれが、乾きの商会か」
「きっとそうだよね」
「……思ったより、頼りないポポ」
フロリアが少し眉をひそめた。
「強さは見た目によりません。油断しないでください」
男が立ち上がって、あたしたちを見た。
目が合った。
男の目が、ぱっと光った。
「いたぞ! 花姫だ! それに野生児娘と、シマシマの小動物!」
「ポポに名前がないのか!」
ポポルが叫んだ。
「捕まえろ! そして種を! あと、花姫も!」
男に命令され、女の子が「は、はい!」と答えて走り出した。
あたしはフロリアの手を取った。
「走る」
「分かりました――って、走るのですか!」
「走る!」
「少し考えてから――」
「走ってから考える!」
「それはただの逃げるです!」
でも走った。
村の中を走るのは得意だ。
あたしは子どものころからここで走り回ってきたから、どこに何があるか全部知っている。ナハラおばさんの家の裏の細い道、洗濯物が干してある場所、ヤシの木が密集していて大人が入れない隙間。
フロリアの手を引きながら、一番ぐねぐねした道を選んだ。
「な、なぜこんな道を」
「追いかけにくいから」
「わたしも追いかけにくいです!」
「でも逃げられてる」
「それは、あなたが引っ張っているからです!」
後ろから足音がした。男の方だ。大きいくせに、足は速かった。
「逃げるな! 正直に捕まれ!」
「捕まる理由がない!」
「仕事だから!」
「そっちの都合じゃん!」
角を曲がった。そこに洗濯物のロープが張ってあって、男が盛大に引っかかる音がした。
「ぐあっ!」
「隊長!」と、女の子の声がした。
あたしは走りながら、後ろを一瞬見た。
女の子の方は、追ってきていなかった。
代わりに、ポポルが木の上から見ていた。
「女の子の方は来てないポポ」
「なんで?」
「ポポルがいるポシェットに気を取られてるポポ」
振り返ると、女の子がポポルを必死に目で追いかけていた。追いかけながら木にぶつかって、「いたっ」と言った。
「あの子、動物が好きそうだポポ」
「捕まえようとしてるんじゃないの?」
「してるけど、目が違うポポ。愛でてる目だポポ」
フロリアが走りながら言った。
「とはいえ、敵です。気を抜かないでください」
「分かってる」
村の外れが見えてきた。港へ続く道だ。
そこで、前から誰かが来た。
子どもが三人、バケツを持って走ってきた。あたしを見て、ぱっと笑顔になった。
「リオナ!」
「あとで遊ぶ! 今は走ってる!」
「知ってる! 後ろにおじさんがいる!」
「知ってる!」
子どもたちが脇に避けた。その足元に、バナナの皮が落ちていた。
後ろで、どすっという音がした。
「また転んだ!」
ポポルが叫んだ。
「なんでジャングルにバナナの皮があるんだ!」
男が叫んだ。
「ジャングルだからあるんです!」
女の子も叫んだ。
「バナナの皮に理由を求める方が悪い!」
あたしも叫び返した。
港に出た。
海が見えた。青くて広くて、風が潮の匂いを運んでくる。あたしにとっては見慣れた海だけど、今日は違う見え方がした。あの向こうへ行くんだ、という気持ちが先にあるから。
「リオナ、またね!」
「お土産も忘れないで!」
子どもたちの声が聞こえてきた。
「今度はすぐに戻るの、ちょっと無理かも!」
あたしが手を振ると、ポポルが叫んだ。
「ちょっとじゃないポポ! 完全に無理だポポ!」
桟橋の先に、でかいものがいた。
岩かと思った。
でも岩は、ゲコと鳴かない。
カエルだった。
このあたりには、しゃべるカエルがたくさんいる。水路で昼寝していたカエルだって、けっこう大きかった。
でも、そこにいたカエルは、その比じゃなかった。
小屋くらいある。
緑色の体に、丸い目。口元には、革の鞄をくわえている。
「お届け物ゲコ。ゲコッタ、参上ゲコ」
「ゲコッタ! ナハラおばさんが呼んだの?」
「そうゲコ。ナハラどのから依頼が来たゲコ。花姫とその仲間を、次の島まで送るようにとゲコ」
「ナハラおばさん、準備してたんだ」
「そうゲコ」
フロリアがゲコッタを見上げた。
「あの……その鞄は、口の中に?」
「はいゲコ。手紙や荷物は口の中が一番安全ゲコ」
「……しっとりしていませんか」
「少々しっとりしているゲコ。でも濡れてはいないゲコ」
「……乗ります」
ゲコッタの背中は、思ったより広かった。蓮の葉みたいな感触の皮膚で、少しぬるっとしていたけど、滑らない。あたしとフロリアが乗ると、ポポルも飛び乗ってきた。
「出発するポポ」
「後ろ!」
男が桟橋を走ってきた。女の子も後ろからついてくる。
「待てー! 花姫をどこへ連れていく!」
「旅に出る!」
「仕事の邪魔をするな!」
「邪魔してない、逃げてるだけ!」
「同じだ!」
ゲコッタが後ろ足で桟橋を蹴った。体がふわっと浮いて、水面に着いた。波が広がった。
男が桟橋の端で止まった。女の子がその隣で、息を切らしながら立っていた。
男が叫んだ。
「今日のところは見逃してやる! だが花姫は必ず捕まえる! 俺の名はバンゴ、この名前を覚えておけ!」
「覚えた! バンゴ!」
「覚えるな! 脅しだ!」
「じゃあ覚えない!」
「逆に悔しい!」
ゲコッタがゆっくり水を蹴って、沖へ向かった。村が遠くなっていく。
あたしは桟橋を見ていた。バンゴっていう男はまだ何か叫んでいたけど、声が届かなくなってきた。女の子の方は、黙ってこっちを見ていた。
手が、ぎゅっとなった。
フロリアだった。
フロリアがあたしの手を握っていた。自分から。
あたしは少し驚いて、フロリアを見た。フロリアは海の方を向いていた。
「リオナ」
「うん」
「手を離さないでください」
あたしは少し笑った。
「うん。離さない」
村がもっと小さくなった。ヤシの木が、海風に揺れていた。
ゲコッタが進む方向の先に、空がある。海がある。どこまでも続いている。
ポポルがあたしの足の上に座って、耳をぺたんと倒した。
「ポポは船が苦手だったポポ」
「言ってなかったじゃん」
「これから分かることが多いポポ」
「船酔い?」
「たぶんポポ」
ゲコッタが「しっかりつかまるゲコ」と言いながら、大きな波を越えた。
あたしはフロリアの手を、離さなかった。
バンゴは桟橋の端に立ったまま、遠くなるゲコッタの背中を見ていた。
「……逃げられた」
「はい」と、女の子が小さく答えた。
「作戦が甘かった」
「バナナの皮で二回転びました」
「作戦のうちだ」
「……はい」
バンゴが腕を組んだ。
「ミミラ、報告書を書け。花姫を確認、種を一つ取得済み、現在海上へ逃走中――」
「はい」
「それと」
バンゴは振り返らずに言った。
「お前、途中で追うのをやめていたな」
ミミラが少し固まった。
「……ポポル、というマスコット動物に気を取られました。捕獲対象の確認のため、観察していたのです」
「そうか」
「はい」
「それ以外の理由はないか」
ミミラは黙った。
さっき、村を走っていたとき、子どもたちがリオナに笑いかけていた。リオナが手を振り返していた。動物が寄ってきていた。フロリアが、泥道を必死に走っていた。
なんか、変なの、とミミラは思った。
捕まえなければならない相手が、こんなにやかましいのは、変だ。
商会の仕事で見たものは、もっと静かだった。
根ごと掘り出された花。水のない箱に入れられた種。美しいまま動かなくなった葉。どれも商品としては傷ひとつなく、報告書には「状態良好」と書かれた。
けれどミミラは、その花が箱に入れられる前、小さな声で何かを言っていたのを覚えている。
聞き取れなかった。
聞き取らなかったことにした。
「ミミラ」
「はい」
「余計なことを考えるな」
「……はい」
バンゴが歩き出した。ミミラはその後ろについた。
桟橋の端に、バナナの皮がまだ落ちていた。
ミミラはそれを、そっと海に捨てた。




