第三章 ゴリラ王の握手は危険
出発の朝、ポポルが最初に言ったことは「朝ごはんはちゃんと食べるポポ」だった。
二番目に言ったことは「荷物は軽くしろポポ」だった。
三番目に言ったことは「リオナ、それは荷物じゃなくてただの大きな果物だポポ」だった。
「非常食」
「非常食は腐る前に食べろポポ」
「腐る前に食べる」
「ジャングルの中で持ち歩く非常食に、スイカは向いていないポポ」
「スイカは栄養がある」
「スイカは重い」
「重くても栄養がある」
ポポルと言い合いしてたら、
「置いていきましょう」
フロリアに横からそう言われたので、あたしはしぶしぶスイカを村に残した。
「一つ目の種は、森の奥の方にあるようです。けれど、正確な道までは分かりません」
フロリアが、ジャングルの奥を見ながら言った。
「どの森へ向かえばいいのですか?」
「王の森。ここから往復で半日弱のところにある、ゴリラの王が治める森だポポ。そこに一つ目の種がある」
王の森は、森の外ではない。
でも、村の子どもが遊びに行っていい場所でもなかった。
「ゴリラの王」
フロリアは少し考えた。
「しゃべりますか?」
「しゃべる。それ以外にも問題があるポポ」
「何ですか?」
「会ったら分かるポポ」
フロリアがあたしを見た。
「まあ大丈夫だよ」
「その“大丈夫”は信用するなポポ」
最初の種探しは、まだこの島の中だ。だから出発というほど、大げさなものではなかった。
村の子どもたちが「いってらっしゃい」と手を振って、あたしは「明日の昼までには戻る」と手を振り返した。大人たちはいつもの仕事をしながら、ちらちらこっちを見ていた。
ナハラおばさんは広場には来なかった。でも、どこかで見ている気はした。
王の森は、ジャングルの中でも木が一番大きい区域だ。幹の太さが家くらいある木がいくつも並んで、上の方で枝が絡み合って、空がほとんど見えない。昼でも薄暗くて、地面は苔と落ち葉でやわらかい。
あたしは小さいころ、何度かこの近くまで来たことがある。
王の森そのものに入ったのは、三年くらい前に一度だけだ。そのとき、ポポルに「行くな」と止められながら進んで、バロン王に会った。
「静かですね」
「森の奥はだいたいこんな感じ」
「ここまで大きな木は、ジャングルの他の場所にはありませんでした」
「王の森だから、木も特別なんだって村の人は言ってた」
「植物の気配が……少し違います」
フロリアは幹に手を当てた。目を閉じて、しばらくそのままでいた。
「古い。とても古い木です。何百年も、ここに立っています」
「話しかけられる?」
「話しかけることはできます。ただ、古い木は言葉が少ないです。感情の方が多い。安心、とか、静けさ、とか。そういうものが伝わってきます」
「いいね」
「いいかどうかは、まだ分かりません」
そのとき、前の方から声がした。
低くて、深くて、びりびりするような声だった。
「客人が来た」
バロン王は、あたしが覚えているより大きくなっていた。
もともと大きかったのに、三年でさらに大きくなっている。立ち上がると木の低い枝に頭がつくくらいで、腕の太さはあたしの胴体くらいある。黒い毛並みはつやつやして、顔は穏やかだった。
バロン王のまわりに、小さいゴリラたちが三匹いた。全員が背筋を伸ばして、品良く座っている。
「よく来た、リオナ」
バロン王は、深くうなずいた。
「三年ぶりか」
「そのくらい。大きくなりましたね」
「おまえも大きくなった」
バロン王の目が、フロリアに向いた。
「こちらは」
「フロリアです」
フロリアはそう答えて、一歩前に出て、きちんと頭を下げた。
「世界樹の花から生まれた、花姫と申します。いのちの種を探しています」
バロン王の目が、少し柔らかくなった。
「花姫の話は、長老から聞いていた。まさか本当に目の前に現れるとは」
「ご存じでしたか」
「知っていた。しかし信じてはいなかった」
バロン王は立ち上がった。体が大きくなったのに動きは軽やかで、地面がほとんど揺れなかった。
「まずは歓迎しよう。花姫どの、まずは握手を」
あたしは、あ、と思った。
「待って!」
「喜んで」
フロリアがそう言って、手を差し出した。
バロン王がその手をとった。
ぶん、という音がした。
次の瞬間、あたしは三メートル横の木の幹に背中をぶつけて止まっていた。
……あれ、あたしが握手したわけじゃないのに。
地面に落ちながら、事態を把握した。バロン王がフロリアと握手した衝撃で、フロリアがあたしにぶつかって、二人まとめて吹っ飛んだらしい。
「ぐ」
「い゛」
あたしとフロリアが、木の根元でだんごになっていた。
ポポルが上から降りてきた。表情は変わっていないが、目が少しだけ遠くを見ている。
「だから言ったポポ」
「言ってない」
「言ったポポ。会ったら分かると言ったポポ」
バロン王が近づいてきた。申し訳なさそうな顔をしていた。でも申し訳なさそうな顔をしているゴリラというのは、なかなかの迫力がある。
「すまない。力を入れたつもりはないのだが」
「たぶん本当に入れてないんだよね」
あたしは立ち上がって、背中を叩いた。
「大丈夫大丈夫」
「リオナ」
フロリアが地面から上品に起き上がりながら言った。
「大丈夫ではありません」
「痛い?」
「痛いです。あなたは痛くないのですか」
「痛いけど、木にぶつかるのは初めてじゃないから慣れてる」
「それは、慣れていいことではありません」
バロン王がもう一度「すまない」と頭を下げた。
小さいゴリラたちの一匹が、すっと手を上げる。
「王様、また力加減を間違えました」
「分かっている」
バロン王は、少しだけ目をそらした。
もう一匹が、追い打ちをかけるように続けた。
「昨日も木を二本折りました」
「それは別の話だ」
気を取り直して、話し合いを始めた。
バロン王は丸太の上に座って、あたしたちを見た。
「一つ目のいのちの種は、確かにこの森にある。だが、ただで渡すわけにはいかない」
「何かすればいい?」
あたしは聞いた。
「この森の守り手として、試練を課す。それを乗り越えれば、種を渡そう」
「どんな試練?」
バロン王は少し考えた。横にいる小さいゴリラが「王様、三つ用意しました」と言って、木の葉に書いたものを差し出した。バロン王はそれを受け取って、ゆっくり読んだ。
「一つ、森の大果物を割ること。二つ、歌う花をなだめること。三つ、私の握手を避けること」
あたしは最後のを聞いてから「それ試練なの?」と思ったけど、声には出さなかった。
「順番は任せる」
バロン王は立ち上がった。
「存分にかかってくるがいい」
「じゃあ最初から全部いっぺんに」
「リオナ、なぜ最初から全部いっぺんにするのですか?」
「早く終わるから」
「段取りというものがあります」
「段取りより速さ」
「速さより確実さです」
「フロリアに一票だポポ」
一つ目の試練は、大果物を割ることだった。
案内されたのは、森の開けた場所で、そこに球体の何かが鎮座していた。緑色で、でこぼこしていて、直径がたぶんあたしの身長の二倍くらいある。
「これ、果物?」
「この森の大ドリアンだ。熟すと自然に割れるが、まだ時間がかかる。力で割れるなら、割ってみよ」
バロン王に言われ、あたしは大ドリアンを一周した。叩いてみた。硬い。匂いを嗅いだ。すごかった。
「リオナ、顔を上げてください。青くなっています」
「ドリアンの匂い、本当に苦手で」
「でも割るのですね」
「割る」
あたしは木の上に登った。大きな枝から大ドリアンを見下ろす。重心はたぶんここらへん。一番外皮が薄い場所を目で探す。でこぼこの中に、少しだけ色が薄い筋が走っているのが見えた。あそこだ。
「いくよ」
「転ばないでください」
「転ばない」
あたしは枝を蹴って飛んだ。落下しながら両足を揃えて、薄い筋めがけて体重を全部乗せた。
どかん、という音がした。
大ドリアンが、真っ二つに割れた。
中から、金色のどろどろが溢れ出てきた。果肉だ。匂いが三倍になった。あたしは着地して、素早く風上に移動した。
「見事だ。一つ目、クリアだ」
バロン王が微笑み顔で言う。
フロリアがそっと近づいて、割れた果物を覗き込んだ。それから顔を引いた。
「この匂いは」
「ドリアンだよ」
「分かっています。食べるのですか」
「食べないよ! 割るだけ!」
「食べないものを、わざわざ割るのですか」
「試練だから」
「試練の意味が分かりません」
バロン王が「試練に意味はない。試練とは試練だ」と言った。だれも答えなかった。
二つ目の試練は、歌う花をなだめることだった。
森のはずれに、背丈より大きい花が群れていた。ハイビスカスに似ているけど、花びらがもっと多くて、色がばらばらだ。赤、橙、桃色、白、紫。全員が揃って、大声で何かを歌っていた。
歌というか、音が大きかった。それぞれが別の歌を歌っているせいで、全部混ざって、頭が痛くなりそうだった。
「これは」
「毎日歌っている。朝から晩まで。声を合わせてほしいのだが、全員が自分の歌が正しいと思っているので、まとまらない。なだめて、声を揃えてくれ」
バロン王に命令され、あたしは花に近づいた。
「ちょっとちょっと」
花たちは歌いながら、あたしをちらっと見た。
「声が合ってないよ。うるさい」
花たちが一斉に「失礼な!」「うるさいとは何だ!」「この歌はわたしが正しい!」「いやわたしが!」と叫んだ。
「リオナ、悪化したポポ」
「分かってる」
フロリアが前に出た。
あたしは少し驚いた。フロリアが自分から動いたのが、意外だったから。
フロリアは花たちの前で立ち止まって、目を閉じた。しばらく、そのままでいた。
花たちが、少しずつ声を小さくした。
フロリアが目を開けた。
「皆さん、それぞれ自分の歌が好きなのですね」
花が「好きだ!」と言った。
「好きな歌は、大切にしてください。でも、全部の歌が同時に聞こえると、どれも聞き取れません。せっかく好きな歌を歌っても、だれにも届かない」
花たちが黙った。
「一つの歌を、みんなで歌ったら、どうでしょうか。好きな歌は順番に歌えばいい。今日はこの歌、明日はあの歌。そうすれば、全部の歌がちゃんと届きます」
しばらく間があった。
それから、花たちが「……そうかもしれない」「たしかに」「わたしの歌が聞こえていなかったとは」「では今日はだれの歌からにするか」と話し始めた。
「それはまた相談してください。わたしたちの前で相談しなくていいです」
「了解した!」
花たちが静かになった。
あたしはフロリアを見た。
「すごい」
「花と話すのは得意ですから」
「でも怒らせたりしなかった。あたしが言ったら五倍になった」
「言い方の問題です」
フロリアは少しだけ、口の端を上げた。
「同じ意味なのに」
「同じ意味でも、投げ方があります」
「言葉って果物みたいだね」
「たぶん違います」
「雑に投げると当たるポポ」
「リオナは、正しいことを言いました。ただ、花には花の言い方があります」
「花の言い方」
「生き物には、それぞれ話しやすい言葉があります。花は、自分を大切にされていると感じると、話を聞いてくれます」
「覚えておけポポ」
「なにを」
「花には花の言い方があるということだポポ。人間にもあるポポ」
あたしはよく分からなかったけど、「うん」と答えた。
三つ目の試練は、バロン王の握手を避けることだった。
広場に戻ったら、バロン王がにこにこして待っていた。
「さあ、最後だ。私の握手を避けることができれば、種を渡す」
「どれくらいの時間?」
あたしは聞いた。
「十数えるあいだ」
「余裕」
バロン王が手を伸ばした。
あたしは後ろに跳んだ。バロン王の手が空を切った。
また伸びてきた。横に避けた。
また来た。上に跳んだ。近くの枝をつかんで、体を引き上げた。バロン王の指先がサンダルをかすめた。
「速いな」
「遅いと枝から落ちるから」
「三年前より速くなった」
「練習した」
十まで数えて、あたしは地面に降りた。バロン王が「見事だ」と言った。後ろでフロリアが「よかった」と息を吐いた。
ポポルが胸を張った。
「ポポは最初から余裕だと思っていたポポ」
「じゃあ、なんで目を閉じてたの?」
あたしが聞くと、ポポルは胸を張ったまま固まった。
「……風を感じていたポポ」
「震えていました」
フロリアが穏やかな声で言った。
「風だポポ」
バロン王が種を持ってきた。
小さかった。大人の親指の爪より少し大きいくらいで、透明に近い緑色をしていた。中に光の粒みたいなものが入っていて、見る角度によってきらきらした。
フロリアが両手で受け取った。目を閉じた。少しだけ、顔が柔らかくなった。
「生きています」
「当然だ。私が守ってきた」
バロン王は自慢げに言う。
「長い間、ありがとうございました」
フロリアは深く頭を下げた。
「必ず、世界樹へ戻します」
フロリアの手の中で、種が小さく光った。
あたしには、ただきれいな石みたいに見えた。でもフロリアは、誰かの声を聞いているみたいな顔をしていた。
「……この種にも、待っていた時間があります」
フロリアはそう言って、両手を少し強く重ねた。
バロン王はしばらくフロリアを見て、それからあたしを見た。
「リオナ」
「うん」
「花姫どのを、頼む」
あたしは少し照れた。照れたから、代わりに「任せといて」と大きな声で言った。
「任せる。それともう一つ」
「なに?」
「帰るとき、また握手を――」
「しない!」
「しません」
「しないポポ」
あたしとフロリアとポポルが同時に言った。
バロン王が「なぜ皆、握手のあとに気絶するのだろうか」とつぶやいた。だれも答えなかった。
その日は、王の森で休ませてもらうことになった。
もう日が傾いていたし、村まで戻るには少し遅い。バロン王が「森の夜道は、慣れた者でも迷う」と言ったので、あたしも珍しく反対しなかった。
案内されたのは、大きな木の根元にある、苔のふかふかした場所だった。小さいゴリラたちが大きな葉っぱを運んできて、寝床を作ってくれた。
「王の森の寝床、思ったよりふかふかだね」
「思ったより、という言い方は失礼ではありませんか」
「褒めてる」
「褒め方の問題です」
フロリアはそう言いながらも、葉っぱの寝床にそっと腰を下ろした。王の森の夜は、村の夜より静かだった。虫の声も、遠くの水音も、どこか低く聞こえる。
あたしは、フロリアが両手で包むように持っている種を見た。
透明に近い緑色の光が、夜の中で小さくまたたいていた。
「一つ目だね」
「はい」
「あと六つ」
「はい」
フロリアは種を見つめたまま、少しだけ笑った。
「長い旅になりますね」
「うん」
長い旅。
その言葉を聞いて、あたしは初めて、ほんとうに村の外へ行くのだと思った。
王の森は、まだ森の中だ。戻ろうと思えば、明日には村へ戻れる。
でも次は、たぶんそうじゃない。
ポポルがあたしの膝の上で丸くなりながら、ぼそっと言った。
「リオナ、明日は早く出るポポ。昼までには村に戻るポポ」
「分かってる」
「分かってると言うときほど、分かってないポポ」
「今回は分かってる」
「信用は半分だポポ」
フロリアが小さく笑った。
王の森の木々が、夜の上で静かに揺れていた。
翌朝、まだ空が白くなりきらないうちに、あたしたちは王の森を出た。
バロン王は見送りに来てくれた。
「花姫どのを、頼む」
「任せといて」
「帰りにも握手を――」
「しない」
「そうか」
バロン王は少し残念そうだった。
帰り道に入ったところで、ポポルがあたしの肩の上でぴくりと動いた。
「リオナ」
「うん」
「後ろ」
あたしは振り返らなかった。代わりに、目の端で木の影を見た。
何かいる。一人か二人。でも追ってくる気配はない。ただ、見ている。
「気のせい?」
「気のせいじゃないポポ」
フロリアが気づいていないふりをしながら、小さな声で言った。
「わたしも感じました。植物たちが少し、緊張しています」
「植物が緊張するの?」
「見知らぬ人間が近くにいると、そういう気配になります」
あたしたちは足を止めずに、歩き続けた。
影は、追ってこなかった。でも、そこにいた。
ポポルがあたしの耳元で「乾きの商会かもしれないポポ」と言った。
「何それ」
「外の連中だポポ。自然の力を商売にする、面倒なやつらだポポ」
あたしは種を持つフロリアの横顔を、ちらりと見た。
フロリアは前を向いていた。表情は穏やかだったけど、手が、小さく種を握り締めていた。
「大丈夫」
あたしがそう言ったら、フロリアが少しあたしを見た。
「根拠は?」
「あたしがいるから」
フロリアは何も言わなかった。でも、手の力が、少しだけゆるんだ気がした。
ジャングルの木々が、朝の光に染まっていた。
一つ目の種は、手の中にある。残りは六つだ。
最初の種は、試練を越えてもらった種だった。
大きな果物を割って、歌う花をなだめて、ゴリラ王の握手から逃げて。
なんだかよく分からない試練もあったけど、バロン王は最後に、ちゃんとあたしたちを認めてくれた。
たぶん、種にはそれぞれ、受け取り方がある。
ただ見つけるだけじゃ、だめなのかもしれない。




