第二章 花姫さまは泥が苦手
フロリア、という名前だと分かったのは、村に着いてからだった。
それまでの道のりで、あたしが「あんた名前は?」と聞いたら、「フロリアです」と答えてくれた。ちゃんと名乗ってくれたのに、あたしはその直後に足元の果物を踏んで滑ったので、名前を聞いた瞬間のことを少し忘れていた。
「フロリア」
あたしは確認した。
「そうです」
フロリアは答えた。
「それと、あなたたちは?」
「リオナ。こっちはポポル」
「ポポだ。ポポルじゃなくてポポ」
「なぜですか?」
「ポポルは長い」
「一文字しか変わりません」
「長い」
フロリアは少し考えてから、
「分かりました、ポポルさん」と言った。
ポポルが「ポポ!」と叫んだ。
「ポポルさんではなく、ポポだポポ」
「では、ポポさん」
「近づいたけど違うポポ!」
フロリアは真剣な顔でうなずいた。
「難しい名前ですね」
「難しくしているのはあなたの方だポポ」
この二人、たぶん仲良くなれないな、とあたしは思った。たぶん仲良くなるだろうけど。
村まであと少しというところで、問題が起きた。
道が、ぬかるんでいた。
夜明けの雨のせいだ。細い土の道が、さっきまで水が流れていたみたいになっている。あたしとポポルには慣れたものだったけど、フロリアは立ち止まった。
「これは」
「泥」
「知っています。知っていますが」
「歩けば済む」
「……歩けますが」
フロリアは白い靴の先で、おそるおそる泥を押してみた。ずぶ、という音がした。フロリアの顔が、ものすごく複雑な表情になった。
「……歩きたくない、という気持ちはありますか」
「ある。でも歩く」
「あなたは強いのですね」
「これくらいで強いって言われたの、初めてだ」
あたしはフロリアの手を取って、歩き出した。フロリアが「わっ」と声を上げた。引っ張りすぎたかと思ったけど、そうじゃなくて、泥に足を取られて沈みかけていた。
「大丈夫?」
「大丈夫では……」
フロリアは靴の底を見て、目を細めた。
「大丈夫です」
「嘘つかなくていいよ」
「嘘ではありません。気持ちが大丈夫ではないだけで、体は大丈夫です」
「繊細だポポ」
「じゃあ、気持ちはどうすれば大丈夫になる?」
「泥がなくなれば」
「それはジャングルの方を変える話だポポ」
「できませんか」
「できると思って聞くなポポ」
ポポルがあたしの肩の上でつぶやいた。
村についたとき、ちょうどナハラおばさんが広場で作業をしていた。
フロリアを連れて戻ってきたあたしを見て、おばさんは最初、目を細めた。怒っているのかと思ったら、違った。
おばさんの顔が、あたしが見たことのない表情になった。
驚いているのとも違う。怖いのとも違う。何か、遠いものを見るような目だった。
「ナハラおばさん、この子を――」
「花姫さま」
言い切る前に、おばさんが言った。
あたしは口を閉じた。
フロリアがわずかに目を見開いた。それから、ゆっくりと頭を下げた。
「ご存じでしたか」
「話には聞いていた。こんな日が来るとは思っていなかったが」
おばさんは大きく息を吸った。
「中に入れ。話を聞こう」
村の集会場は、ヤシの葉で屋根を作った広い建物だ。いつもは子どもたちが走り回っているけど、ナハラおばさんが集まれと声をかけると、村の大人たちが次々に入ってきた。
フロリアは部屋の真ん中に立って、背筋をまっすぐ伸ばした。
濡れた服も、泥のついた靴も、崩れた髪も、関係ないみたいに。
そういうの、かっこいいな、とあたしは思った。
「世界樹が、弱っています」
フロリアがそう言ったら、部屋が静かになった。
「世界樹は、この世界に生きるすべての命の声を根でつなぎ、その声によって世界の均衡を保っています。しゃべる動物も、話す植物も、命の声を持つ生き物たちは、世界樹の枝の一部として存在しています」
大人たちが顔を見合わせた。あたしは一生懸命聞いていた。
「しかし世界樹は、七つのいのちの種を世界に散らしてしまいました。本来であれば世界中の命の声を集め、種を世界樹へ戻す役目を持つのが、花姫であるわたしです。七つの種が揃わなければ、世界樹はやがて枯れ、しゃべる動物たちの声は消え、植物たちの意思も失われます。その影響は、ここ――ここだけに留まりません。世界中に――」
「ちょっと待って」
あたしが言ったら、部屋じゅうの視線があたしに向いた。
「何ですか」
「順番が多い。もう一回、最初から」
「今、最初から話しました」
「うん。聞いてたけど、途中から難しくなった。ポポ、まとめて」
ポポルがあたしの肩の上で盛大にため息をついた。それから前に出て、咳払いをした。
「つまりこういうことだポポ。世界樹が弱ってる。弱った理由は、大事な種が七つ散らばってるから。それを集めて戻す役目が花姫で、花姫がこのフロリアという人。集めないとしゃべる動物と植物の声が消える。終わり」
大人たちが「おおおおお!」とうなずいた。
フロリアが、少し傷ついた顔をした。
「……概ね、そうです」
「あたし、難しい話、苦手なんだ。ごめんね」
「謝らなくていいです。次から短くします」
ナハラおばさんが腕を組んだ。
「七つの種は、どこにある?」
「それぞれ、世界の各地に。わたしは花姫として種の気配を感じ取ることができます。ただし、正確な場所まで分かるわけではありません。旅をして、探さなければ」
「一人で?」
「……いいえ」
フロリアの視線が、少し動いた。
あたしの方を向いた。
あたしは気づいていたけど、知らないふりをした。
「ジャングルを、わたしは一人では歩けません」
さっきの泥のことを思い出しているのか、フロリアの声が少しだけ小さくなった。
「案内が、必要です」
おばさんがあたしを見た。
あたしはバナナをかじった。
「リオナ」
「うん」
「聞いてたか」
「聞いてた。種を七つ集めないと世界のしゃべる声が消える。集めるには旅がいる。旅には案内がいる」
「そうだ」
「あたしに行けってこと?」
おばさんは何も言わなかった。でも目が言っていた。
あたしは天井を見上げた。ヤシの葉の隙間から、青い空が見えた。
森の外へ出てはいけない、という掟がある。でも、世界のしゃべる声が消えたら、ヤシの木もあの食虫花も黙ってしまう。それは、なんか、嫌だ。
「行く!」と、あたしは言った。
話が終わると、村の人たちはそれぞれの仕事に戻った。フロリアは村外れの小屋に案内されて、着替えと食事をすることになった。
あたしはそこまで送っていって、外で待っていた。
しばらくして、フロリアが出てきた。着替えは村の人に借りたもので、白い布を腰に巻いた、ジャングルっぽい格好になっていた。本人は少しだけ落ち着かない顔をしていた。
「慣れない感じがするよね」
「……慣れない、というより、動きやすいのですが」
「それでいいと思う」
「でも、裾が短い」
「ジャングルで長い裾は引っかかる」
「……そうですね」
そこで会話が途切れた。
あたしとフロリアで、しばらく空を見ていた。
夕方に近い光が、ジャングルを橙色に染めていた。鳥が鳴いて、遠くで水の音がした。
「リオナさん」
「リオナでいいよ」
「リオナ」
フロリアは少し考えてから言った。
「今日、助けてくれてありがとうございました」
「うん」
「お礼が遅くなりました。さきほどから言おうと思っていたのですが」
「別に」
「別にでは、ありません」
フロリアの声が、少しだけ強くなった。
「わたしは、ちゃんとお礼を言いたかったのです。あなたが来てくれなければ、あのまま遺跡の中で埋まっていたかもしれない」
あたしは少し笑った。
「困ってたから助けた。それだけ」
「……あなたは、不思議な人ですね」
「よく言われる」
「ほめていません」
「分かってる」
ポポルが木の枝から降りてきて、二人の間に着地した。
「ポポから言っていいか」
「何?」
「旅の準備は明日から始める。今日はもう遅い。それとフロリアという人、あなたはジャングルを歩いたことがないポポ?」
「ありません」
「今日の泥を見る限り、相当苦労するポポ」
「……そうかもしれません」
「覚悟はあるか」
フロリアは黙って、ポポルを見た。それから、ゆっくりうなずいた。
「あります」
ポポルは少し間を置いてから、「まあいいポポ」と言った。ポポルがそういうふうに言うとき、それはたいていほめているのと同じ意味だ。
次の朝から、フロリアのジャングル歩き訓練が始まった。
と言ってもあたしが特別に教えたわけじゃなくて、いっしょに村の周りを歩いただけだ。
最初の関門は、大きな根っこを乗り越えることだった。
ジャングルの木は根が盛大に地面から出ていて、大きいものはあたしの腰くらいある。あたしには慣れた障害物だけど、フロリアは立ち止まった。
「これを……越えるのですか」
「うん。足を高く上げて」
「わかりました」
フロリアは慎重に足を上げた。上げた。上げた――上げすぎて、バランスを崩した。
「あっ」
あたしが手を出すより速く、フロリアは根っこを跨ぎながら傾いて、脇の茂みにつっこんだ。がさがさ、という音がした。
「フロリア?」
あたしが呼ぶと茂みから、おっとりとした声が返ってきた。
「……大丈夫です」
「ほんとに?」
「はい。ただ、茂みの中に何か動いているものがいます」
「ああ、虫だ」
茂みが、どかんと揺れた。フロリアが転がり出てきた。顔が真っ青だった。
「虫!」
「ここはジャングルだから、いっぱいいるよ」
「いっぱい!」
「慣れるよ」
「慣れたくありません!」
ポポルが木の枝から眺めていた。
「花のお嬢、ジャングルとはそういう場所だポポ」
「花のお嬢と呼ばないでください、ポポルさん」
「ポポだ」
「ポポルさん」
「……まあいいポポ」
フロリアが立ち上がって、服の泥を払った。深呼吸して、根っこをもう一度見た。
「もう一度、やります」
「大丈夫?」
「虫がいても、やります」
あたしは手を差し出した。フロリアはそれを見て、少し躊躇してから、取った。
今度は、ゆっくり足を上げて、ゆっくり越えた。着地のときに少しよろけたけど、あたしが手を引いていたから転ばなかった。
「できた」
「できましたね」
フロリアの顔に、ほんのわずかだけ、うれしそうな表情が浮かんだ。
それから、大きな花のそばを通ったとき、問題が起きた。
赤い花びらをした食虫花が、通路の横に半分口を開けていた。フロリアは気づかず、その脇に立ち止まって、地図みたいな葉っぱを眺めていた。
「フロリア」
「はい、なんですか」
「そこ、危ない」
「何がですか?」
花が動いた。
ぱかん、という音といっしょに口が大きく開いて、フロリアの服の端をくわえた。フロリアが「っ!」と声を上げる。
「失礼! その子は旅の仲間だから、食べないで」
あたしが注意したら、食虫花は言った。
「あら残念。新鮮そうな匂いがしたのに」
「今度おいしい虫を持ってくる」
「楽しみにしてるよ」
食虫花が口を閉じた。フロリアが服の端を引っ張り取って、あたしを見た。目がまん丸だった。
「今、その花が」
「しゃべった。ここらへんの子はしゃべるよ」
「……ずいぶん、はっきりしゃべるのですね」
「そう?」
「植物に意思があることは知っています。でも、こんなに普通に会話をする花は初めてです」
「ここはジャングルだから」
「それは、理由になっていません!」
「なってる」
フロリアは少し黙って、それから花の方を向いた。
「……先ほどは失礼しました」
花がびっくりしたように揺れた。
「なんだい、礼儀正しいね」
「そちらが先に失礼しましたが」
「まあ、そうだね」
「今後は食べようとしないでください。わたしたちはここを通ることが多いと思いますので」
「考えておくよ」
「考えるのではなく、してください」
食虫花は少し黙ってから、「分かった」と言った。あたしはこの花がこんなにあっさり了解したのを見たことがなかった。
「すごい」と、あたしは言った。
「植物と話すのは、得意ですから」
フロリアは少しだけ胸を張った。
「しゃべる植物でも、しゃべらない植物でも。気持ちが分かります」
「それ、すごい力だね」
「花姫ですから」
「花姫って便利だね」
「便利かどうかは、まだ分かりません」
フロリアはそう言って、また歩き出した。さっきより少しだけ、足取りが確かだった。
夕方になった。
ナハラおばさんが広場で待っていた。フロリアとあたしを見て、おばさんは深く息を吸った。
「リオナ」
「うん」
「明日、出発するか」
あたしはフロリアを見た。フロリアは少し驚いた顔をして、それからうなずいた。
おばさんは、空を見上げた。
「十五になったおまえを、いつまでも村の中だけに閉じ込めておけるとは思っていなかった」
それから、あたしを見た。
「行ってこい、リオナ。だが、森に戻る道を忘れるな。外に出るなと言ってきたのは、外の世界が嫌いだからじゃない」
おばさんは、少しだけ目を細めた。
「おまえは、面白いものを見ると止まれない。だから心配だった」
「……それは、当たってる」
「でも、止まれないからこそ、届く場所もある」
おばさんは、それ以上何も言わなかった。でも、その声が思ったより低くて、思ったより重くて、あたしはちょっとだけ喉の奥が詰まる感じがした。
いつも外に出るなと言っていたおばさんが、今日は出ていいと言っている。
その意味を全部分かったわけじゃないけど、軽くないことだ、とは分かった。
「分かった」
あたしが返事したら、ポポルが肩の上でため息をついた。今日、何度目か分からなかった。
「ポポはまだ反対だポポ」
「分かってる」
「でも止められないことも分かってるポポ」
「分かってる」
「リオナの“大丈夫”は、三回に一回しか大丈夫じゃないポポ」
「今回は大丈夫な方だよ」
「何を根拠に」
フロリアが、小さく笑った。
あたしは初めてそれを見た。ほんの少し、口の端が上がっただけだったけど、確かに笑った。
「ポポルさんは、心配性なのですね」
「ポポだ。そして心配性じゃない。リオナが心配なだけだポポ」
「同じでは?」
「……うるさいポポ」
橙色だった空が、少しずつ暗くなっていた。
明日、ここを出る。
外の世界がどんなところか、あたしはまだ何も知らない。でも、種は七つあって、世界は広くて、隣にはきれいで面倒なお姫さまがいる。
胸の奥のむずむずが、じりじりと大きくなっていた。




