第十八章 世界まるごと大合唱
古代都市に戻ったとき、フロリアは立っていた。
部屋の真ん中で、七つの種を両手に持って、目を閉じていた。体がわずかに光っていた。花びらみたいな光が、肩から腕から、ゆっくり散っていた。
ポポルがその隣にいた。フロリアを見上げて、耳をぴんとさせていた。
「大丈夫?」
あたしはポポルに小声で聞いた。
「今はだポポ。声が届くたびに、フロリアの顔色が少しよくなるポポ。でも、声がまだ少ないポポ。もっと必要だポポ」
「ゲコッタは?」
「出発したポポ。でも、全部の場所に届くまで時間がかかるポポ」
「時間はある?」
「今夜中には届けたいポポ。世界樹の力が、今夜の明け方に一番弱くなるポポ。古代の記録に書いてあったポポ。それまでに、十分な声が集まれば」
「集まらなかったら?」
「明け方を過ぎれば、世界樹はさらに弱るポポ。そうなると、もっと多くの声が必要になるポポ。今夜が、一番チャンスがあるポポ」
「分かった」
「何かできることはありますか」
ミミラが聞いた。
「あるよ。カラマに話してほしい」
「カラマ様に?」
「カラマは植物学者だって言ってた。植物のことを一番知ってる人が、世界樹に声を届けてくれたら、それは大きいと思う」
ミミラが少し間を置いた。
「……カラマ様が、声を届けるとは思えません。管理する方が大事だと思っている人だから」
「昨日、揺れてた。フロリアに言われてから、揺れてた。揺れてる人は、動く可能性がある」
「動かなかったら?」
「それでも話しかけた意味はある。ミミラが、カラマに声をかけること自体が、大事だと思う」
ミミラが少し考えた。
「……行きます。手紙も渡します。先に書いておいたので」
「ありがとう」
「礼は、帰ってきてから言ってください」
「帰ってきたら言う」
「必ず帰ってくるという意味ですか」
「そういう意味」
あたしがそう言ったら、ミミラが少し笑って、走り出した。
部屋に、あたしとポポルとフロリアが残った。
フロリアはまだ目を閉じていた。声を繋ぐ作業が続いていた。
あたしはその場に立って、外の音を聞いた。
遠くから、声が来ていた。群島の歌が続いていた。少しずつ大きくなっていた。ルミナが住民を集めて、歌い続けているんだろう。火山の音も続いていた。さっきより力強かった。キノコ谷の胞子の音が、地面の下から伝わってきた。
でも、まだ足りない気がした。
「ポポル」
「うん」
「あたしに何かできることはある?」
「声を出せポポ」
「声?」
「リオナが声を出せポポ。ジャングルの声でも、何でもいいポポ。世界樹への声は、言葉じゃなくていいポポ。命が発する声なら何でも届くポポ。リオナの声は、ジャングルで育った声だポポ。ちゃんと届くポポ」
「歌ったらいいの?」
「歌でも叫びでも、何でもいいポポ」
あたしは少し考えた。
ナハラおばさんが歌う漁師の歌を思い出した。朝、バナナを追いかけながら歌っていた歌を思い出した。フロリアが花たちの前で歌った古い歌を思い出した。
あたしには古い言葉は分からなかった。でも、自分の声はあった。
あたしは歌った。
うまくなかった。音程が少し外れていた。でも、大きかった。ジャングルで育った、木の上を走りながら覚えた、ナハラおばさんの漁師の歌を、古代都市の石の部屋で歌った。
フロリアの顔が、少しだけ変わった。
目は閉じたままだったけど、口の端が少し上がった。
「届いてるポポ。フロリアの手の光が、少し強くなったポボ」
「ポボ?」
「ポポだポポ。強くなったポポ」
あたしは歌い続けた。
夜が深くなった。
ゲコッタから連絡が来た。連絡の方法は、ゲコッタが手紙をくわえたまま古代都市の近くを泳いで、ポポルが海岸へ聞きに行く、という方法だった。
「バロンの森に届いたゲコ。バロンが森の動物たちを集めて、声を出し始めたゲコ。力が戻ってきたとバロンが言っているゲコ」
「よかった」
「チクードにも届いたゲコ。砂漠で声を張り上げているゲコ。しっとりした手紙を受け取って、最初は怒っていたゲコ。でも内容を読んでから、声を出し始めたゲコ」
「チクードが怒ってたのは、しっとりのせい?」
「そうゲコ。砂漠に水分は貴重ゲコ。でも、届いたゲコ。郵便屋の誇りゲコ」
「キノコ谷は?」
「キノコ谷はすでに歌っているゲコ。ポルチーニ王が、全員で歌えと命令したゲコ。一番早かったゲコ」
「コラルは?」
「海底都市から、声が上がってきているゲコ。海面が少し光っているゲコ。サンゴの光だゲコ」
「ナマケモノのモーロは?」
「モーロからも届いているゲコ。何か言っていたゲコ。でも、遅すぎて全部は聞けなかったゲコ」
「また間に合わなかった?」
「た……ぶ……ん……だ……い……じょ……う……ぶ……とゲコ。前半だけ聞こえたゲコ」
「たぶん大丈夫、ってこと?」
「そうゲコ。モーロの予言は外れないゲコ。前後半どちらを聞いても、大丈夫という意味ゲコ」
「信じる」
ポポルが戻ってきた。
「だいぶ集まってきたポポ。フロリアの光が、さっきより安定してきたポポ。でも、もう少し必要だポポ」
「もう少し、って、あとどのくらい?」
「感覚だポポ。明け方まで、あと四刻だポポ。それまでに声が続けば、届くポポ」
「カラマは?」
「ミミラから連絡はないポポ」
「……そうか」
夜中過ぎに、空が少し変わった。
星がはっきりしてきた。昨夜より明るい気がした。
フロリアが、目を閉じたまま小さく声を出した。
「増えています。声が、増えています。各地から、流れが来ています。まだ細いけれど、確かに来ています」
「声を繋げてる?」
あたしは聞いた。
「繋いでいます。でも、わたし一人では、全部の声を整えられません。流れが乱れている部分があります」
「どうすればいいの?」
「もっと声が必要です。種類は問いません。数が増えれば、流れが安定します」
「あたし、また歌う」
「お願いします」
あたしはまた歌い始めた。ナハラおばさんの歌の後は、子どもたちとよく歌っていた歌を歌った。それが終わったら、ヤシの木が文句を言いながらたまに歌う歌を歌った。音程はいろいろだったけど、声は出し続けた。
「ポポも声を出すポポ」
ポポルもそう言って、何かを歌い始めた。聞いたことがない歌だった。古い言葉の歌だった。ポポ族の歌かもしれなかった。ポポルが歌うのを初めて聞いた気がした。
「ポポル、歌えたんだ」
「歌えるポポ。やったことがなかっただけだポポ」
「いい声じゃん」
「うるさいポポ。照れるポポ」
「照れてるの、初めて見た」
「うるさいポポ」
あたしとポポルが歌っていると、部屋の外から音がした。
誰かが来た。
カラマだった。
白い服は砂で汚れていた。日よけ帽は少し曲がっていた。眼鏡の奥の目が、部屋の中を見た。フロリアを見た。光を見た。あたしを見た。
「ミミラから、手紙が来ました」
カラマが伝えた。
「読んだ?」
あたしは聞いた。
「読みました」
カラマが部屋に入ってきた。
「管理することと、信じることの違いについて、もう一度話したい――と書いてありました」
「話す?」
あたしは疑問に思った。
「今夜は、話している時間がないと思います」
カラマが部屋の壁を見た。
「声を届ければいいのですね」
「そうです」
フロリアが目を閉じたまま言った。
「カラマさんの声が届けば、嬉しいです」
「わたしの声が、役に立つかどうか」
「役に立ちます」
「なぜですか」
「あなたは、植物のことを誰より多く知っています。知識は声になります。愛は声になります。怖さも声になります。あなたが今まで植物と向き合ってきたすべてが、声です」
カラマが黙った。
しばらくして、カラマが壁に手を当てた。
「……植物に、声をかけたことは、あります。一人のときは。調査中に、話しかけることは、ありました」
「それが声です」
「返事は、聞こえませんでしたが」
「聞こえなくても、届いていました」
カラマが目を閉じた。壁に手を当てたまま、何か言っていた。小さな声で、あたしには聞こえなかった。でも口が動いていた。
フロリアの手の光が、少しだけ強くなった。
明け方の一刻前。
声が、本当に集まってきた。
あたしには聞こえないものが多かったけど、フロリアが「届いています」と言い続けていた。ポポルが「流れが安定してきたポポ」と言った。
空の色が、少しずつ変わってきた。
薄かった色が、戻ってきていた。青が、少しずつ深くなっていた。
遠くから、バロンの声が来た。かすれていたのが、だいぶ戻っていた。言葉が聞き取れた。「花姫! 森の声が戻ってきた!」という声が、風に乗ってきた。
チクードの声が来た。「我の声が戻った! これが伝説の剣士の声だ!」という声だった。棘が揺れる音が続いていた。
火山の方向から、どごんという音がした。泣いていない音だった。力強い、地面から来る音だった。
「フロリア、大丈夫?」
あたしは聞いた。
「大丈夫です。まだ続けられます」
「無理しない」
「無理していません。声が届くたびに、力が戻ってきます。みんなの声が、世界樹に届いて、世界樹の力があたしにも還ってきます」
「声を受け取って、繋いで、また受け取ってるの?」
「そうです。循環しています」
「循環」
「世界樹は一方的に与えるのではなく、命から声を受け取って、それを力に変えて、また命に与える。そういう仕組みだったのです。今まで、その循環が止まっていた」
「今は動いてる?」
「動いています。まだ小さいけれど、動いています」
フロリアが少し笑った。目を閉じたまま。
カラマがまだ壁に手を当てていた。声をかけ続けていた。何を言っているか、あたしには分からなかった。でも続けていた。
そのとき、外から音がした。
大きな音だった。
金属の音と、爆発みたいな音が混ざった音が、島の外から来た。
「装置だポポ!」
ポポルが大声で叫んだ。
全員が走った。
外に出ると、海岸の方で光が上がっていた。橙色の光だった。商会の装置が起動した光だった。
ゲコッタが海から声を上げた。
「装置が起動したゲコ! バンゴが一人で動いたゲコ!」
「バンゴが? 起動しないって言ったじゃないの」
あたしは突っ込む。
「一人で考えて、やっぱり任務だと思ったゲコ。ミミラも止めようとしたゲコ。でも、バンゴが先に起動したゲコ」
フロリアが止まった。
「……声の流れが、乱れています。装置が、種の力を引っ張ろうとしています。繋ぎ役のわたしに、負荷がかかります」
「大丈夫?」
「今は、持てます。でも、長くは――」
「止めに行く」
「リオナ」
「行ってくる」
「一人では――」
「ポポル、いっしょに来て」
「行くポポ。カラマ、フロリアを頼むポポ」
「分かりました」
海岸へ走った。
バンゴが装置の前にいた。装置は大きな光を出していた。種の力を引き抜こうとする光が、フロリアの方向へ伸びていた。
ミミラがバンゴの前に立っていた。
「隊長! 止めてください!」
「任務だ! カラマ様がいなくても、任務は――」
「任務を果たす必要はありません! もう、商会のやり方は――」
「お前はもう商会の人間ではないかもしれないが、私は――」
「バンゴ!」
あたしが叫んだら、バンゴが振り返った。
「野生児娘!」
「さっき、声が消えた世界が嫌だって言ったじゃん!」
「言ったが、任務は――」
「任務より大事なものが、今ここにある!」
「任務は、カラマ様の指示で――」
「カラマは今、声を届けてる! 植物に声をかけてる! カラマ自身が、変わろうとしてる!」
バンゴが止まった。
「カラマ様が?」
「古代都市の壁に手を当てて、ずっと植物に話しかけてた。管理じゃなくて、声を届けるために。それがカラマの今夜の選択だ」
バンゴが装置を見た。
装置が光を出し続けていた。
「……止め方が分からん」
バンゴが言った。
「ミミラ!」
あたしは叫んだ。
「こっちです!」
ミミラが装置の側面を示した。
「解除するレバーが――隊長、引いてください。わたしより力がある」
「どこだ」
「ここです!」
バンゴがレバーを引いた。
装置の光が、消えた。
静かになった。
波の音だけが続いた。
装置が止まったとき、空が変わった。
東の方から、光が来た。夜明けの光だった。でも今朝とは違った。昨日より、ずっと明るかった。色がはっきりしていた。青が、ちゃんと青だった。
遠くから、鳥の声がした。
本当に久しぶりに聞く、ちゃんとした鳥の声だった。
「声が戻ってる!」
「戻っているゲコ」
ゲコッタが海から伝えた。
「海の色が、変わっているゲコ。サンゴの光が、見えるゲコ」
「フロリアが繋いだ」
「そうゲコ。花姫が繋いで、世界中の声が届いたゲコ」
「走るポポ」
あたしはポポルといっしょに古代都市へ走った。
部屋に入ると、フロリアが――
倒れていた。
あたしは走り寄った。
カラマがフロリアの隣にしゃがんでいた。
「意識があります。倒れた瞬間から、声をかけ続けています。種は、手の中にあります」
フロリアが目を閉じていた。息をしていた。
「フロリア」
あたしが呼んだけど、返事がなかった。
「フロリア!」
もう一回呼んだ。
「……リオナ」
小さな声だった。でも聞こえた。
「大丈夫?」
「……大丈夫です。声が、届きました」
「届いた?」
「届きました。世界樹に、声が届きました。まだ十分ではないけれど、循環が始まりました。世界樹が、自分で声を受け取り始めました」
「フロリアは消えてない?」
「消えていません。ここにいます」
「本当に?」
「本当に。あなたと帰ると言いました」
あたしは少し笑った。
「言ってた」
「約束は、守ります」
「うん」
「でも、少し疲れました」
「休んでいい。いっぱい休んでいい」
「……はい」
フロリアの手の中で、七つの種が光っていた。穏やかな光だった。さっきまでの激しい光じゃなくて、落ち着いた、温かい光だった。
「花姫が繋いだ声は、本物でした。わたしには届かなかった声が、ちゃんとあった」
「認めるの?」
あたしはカラマに問いかけた。
「認めます。今夜、わたしは植物に話しかけました。初めて、返事が来た気がしました。聞こえたわけではない。でも、温かいものが手に伝わってきました」
「それが声だよ」
「……そうかもしれません」
「カラマという人、変わったポポ」
「変わっていません。ただ、分かったことが増えました」
「同じだポポ」
「そうですか」
「変わることは、分かることだポポ。ポポはそう思うポポ」
カラマが少し黙った。
「……あなたは、賢いのですね」
「木の実を食べながら言うと、さらっとなるポポ」
「今は木の実がありませんが」
「さらっとしてるから、本気だポポ」
夜明けが来た。
空が明るくなった。鳥の声が増えた。
遠くから、バロンの声が聞こえて来た。
「花姫! 森が戻ってきた!」という声が、風に乗ってきた。
チクードの「我の棘が光っている! これが伝説の剣士の輝きだ!」という声も来た。
キノコ谷の歌が、地面の下から来た。にぎやかな歌だった。
火山の音が来た。泣いていない音だった。
あたしはフロリアの隣にしゃがんでいた。
フロリアが目を開けた。
「外が、明るくなりました」
「うん」
「声が、聞こえます。バロンの声、チクードの声、キノコ谷の歌、火山の音。みんなの声が、聞こえます」
「よかった」
「世界樹に届いています。まだ、細い流れです。世界樹は完全に回復したわけではありません。でも――」
「でも?」
「芽が出ました。世界樹の新しい芽が、地面から出ようとしています。今までの世界樹とは違う。世界中の命の声に支えられた、新しい芽です」
「消えなかった」
「消えませんでした。あなたが言った通りでした。世界も救えて、あなたと帰ることも、できそうです」
「できる。絶対できる」
フロリアが少し笑った。
「リオナは、簡単に言いますね」
「簡単じゃないけど、言う」
「それが、リオナです」
外から光が差し込んできた。
部屋の中が、明るくなった。
七つの種が、光の中で温かく輝いていた。
でも、まだ終わっていなかった。
種を世界樹に戻す場所が、古代都市の奥にあるとポポルが言った。装置の暴走が、まだ種の力を乱していた。フロリアを世界樹に引き込もうとする力が、まだ残っていた。
最後の仕事が、あと一つあった。




