第十七章 声が消える世界
記録を読むのに、一晩かかった。
ポポルとミミラが壁の文字を読み続けた。あたしはフロリアの隣で、二人が読むのを聞いていた。フロリアは最初、眠ろうとしていた。でも眠れないらしくて、目を閉じたまま、二人の声を聞いていた。
夜中過ぎに、ポポルが「ポポ、分かったポポ」と言った。
あたしは起き上がった。フロリアも目を開けた。
「何が分かったの?」
あたしは聞いた。
「世界樹が、最初に弱り始めた理由だポポ。種が散らばったのは、原因ではなくて、結果だったポポ」
「どういうこと?」
「世界樹は、世界中の命の声によって支えられていたポポ」
ポポルが壁を示した。
「根から根へ、地脈を通って、声が届く。その声が世界樹の栄養だったポポ。でも、人間たちが便利さを求めて、自然との関わりを減らしていったポポ。声を聞かなくなった。声を出さなくなった。世界樹への声が、少しずつ細くなったポポ」
「それで、弱ったの?」
「そうだポポ。種が散らばったのは、世界樹が弱った結果として起きたことだポポ。種を戻せば、一時的には回復するポポ。でも、根本的な解決にはならないポポ」
「根本的な解決は?」
フロリアが聞いた。
「声だポポ。世界中の命の声が、再び世界樹に届くようになれば、世界樹は自分で回復できるポポ。花姫が還らなくても」
フロリアが少し止まった。
「……花姫が還らなくても?」
「そうだポポ。古い記録に、はっきり書いてあったポポ」
ポポルがミミラを見た。
「ミミラ、確認してポポ」
「はい」
ミミラが壁を示した。
「ここに書いてあります。花姫は世界樹の声を伝える者であり、世界樹に還る必要があるのは、命の声が届かない場合のみ。命の声が十分に届けば、花姫は人の姿のまま存在できる、と」
部屋が静かになった。
フロリアが七つの種を手の中で握った。
「……では」
フロリアの声が少し震えていた。
「世界中の命の声を、世界樹に届けられれば」
「フロリアは消えなくていいポポ。旅を続けられるポポ」
「本当ですか」
「ポポが読んだポポ。ミミラも読んだポポ。本当だポポ」
フロリアが目を伏せた。
しばらく、何も言わなかった。
あたしはフロリアの隣にいた。何も言わなかった。言わなくていいと思った。
フロリアの肩が、少しだけ動いた。
泣いているのかもしれなかった。でもあたしは確かめなかった。
ただ、隣にいた。
朝になった。
ポポルが「急ぐポポ」と言った。
「世界中の命の声を集めるなんて、どうするの?」
あたしは聞いた。
「旅で出会った仲間たちに声をかけるポポ。バロン、チクード、ルミナ、コラル、火山、キノコ谷。みんなに、声を世界樹に向けてもらうポポ。それだけじゃ足りないかもしれないポポ。でも、始めることが大事だポポ」
「連絡はどうするの?」
「ゲコッタがいるポポ」
「手紙を届けてもらう?」
「そうだポポ。ゲコッタは速いポポ。口の中の手紙は、しっとりするポポ。でも届くポポ」
「フロリアも届けてほしい人はいる?」
「世界樹に直接、声を届けることができます。種を七つ持った今、世界樹と繋がっています。でも、一人では弱い。世界中の声が重なって初めて、十分な力になります」
「じゃあ、手紙を書こう」
「ポポも書くポポ」
「わたしも書きます。カラマ様に、話したいことがあります」
ミミラが言った。
みんなで、古代都市の部屋で手紙を書いた。
あたしは字が苦手だった。フロリアが隣で助けてくれた。バロンへの手紙、チクードへの手紙、ルミナへ、コラルへ、火山の島民たちへ、キノコ谷へ。全部に、同じことを書いた。
世界樹に声を届けてほしい。声の届け方は、それぞれが知っている方法でいい。ただ、届けてほしい。
手紙を書きながら、あたしは七つの種のことを思い出していた。
バロンの森。チクードの島。ルミナの空。コラルの声。火山の熱。キノコ谷の胞子。古代都市の眠り。
種は、ただの小さな光じゃなかった。
それぞれの場所に、それぞれの声があって、あたしたちはそれを少しずつ預かってきたのだ。
七つの種を集める旅だと思っていた。
でも本当は、世界中の声を集める旅だったのかもしれない。
「これで足りる?」
あたしはフロリアに聞いた。
「足りるかどうかは、やってみないと分かりません。でも、始めることが大事です」
「ポポが言ったのと同じだね」
「ポポルさんは正しいことを言います」
「ポポだ。正しいかどうかは、やってみてから言うポポ」
手紙を持ってゲコッタのところへ戻ろうとしたとき、外が騒がしくなった。
岩の迷宮の外から、何か聞こえた。
あたしは走った。迷宮を抜けて、島の外へ出た。
空が、変だった。
雲の色がおかしかった。灰色というより、色が薄かった。光が弱かった。朝なのに、夕方みたいな光だった。
それから、音がなくなっていた。
鳥が鳴いていない。波の音はあるけど、鳥の声が、虫の声が、植物の声が――ない。
「フロリア」
あたしは呼んだ。
「分かります」
フロリアが後ろから来ていた。顔が青白かった。
「世界樹の力が、大きく乱れています。七つの種が揃ったのに、まだ世界樹へ戻っていない。その状態が長く続きすぎました。限界が来ています」
「これが、声が消えるということ?」
「始まりです。このまま放っておけば、もっと広がります」
ポポルが耳をぴんとした。
「リオナ、聞こえるポポ?」
「何が?」
「遠くから、声が来るポポ。でも、おかしいポポ」
あたしも耳を澄ませた。
聞こえた。
遠くから、声が来た。でも、普段と違った。割れていて、かすれていて、途切れ途切れだった。
「バロンの声だポポ。森の方から来るポポ」
あたしは空を見た。
空飛ぶ群島の方向から、何かが降りてきた。鳥だった。鳥人族の鳥だった。羽根の形で分かった。でも、飛び方がおかしかった。ふらふらしていた。
鳥が砂浜に降りた。
ルミナだった。
顔が青くて、羽根が少し色を失っていた。
「リオナ!」
ルミナが叫んだ。声がかすれていた。
「大変だ。群島の植物たちの声が、急に弱くなった。住民の半分が、声を失い始めてる。何が――」
「声が消えている。世界樹の力が乱れています」
フロリアが伝えた。
「どうすれば」
「声を届けてほしいのです。世界樹に向けて」
「声を届ける? どうやって?」
「あなたが知っている方法で。歌でも、言葉でも、風を切る翼の音でも。命が発する声は、全部、世界樹に届きます。でも今、声が薄くなっている。みんなの声が重なれば、届くはずです」
ルミナが少し考えた。
「……群島の住民を集める。歌うことなら、できる」
「お願いします」
「分かった」
ルミナが飛び立った。
その後、次々に知らせが来た。
ゲコッタが海から戻ってきた。
「海底都市から、伝言ゲコ。サンゴの色が、さらに白くなっているゲコ。コラルから、何があったか教えてほしいゲコ、と」
「ゲコッタ、手紙を届けてほしい。海底都市に、キノコ谷に、砂漠の島に、火山の島に、バロンの森に。全部に」
「任せるゲコ。ゲコッタの口の中、まだ空いてるゲコ」
「しっとりするけど、急いで」
「しっとりでも、届けるゲコ。郵便屋の誇りにかけてゲコ」
ゲコッタが出発した。
ミミラが手紙を持ってきた。
「カラマ様への手紙です。わたしが書きました。読んでから、届けてください」
あたしは受け取った。字がきれいだった。あたしには読めなかった。フロリアが読んだ。
「カラマさんへ、管理することと、信じることの違いについて、もう一度話したい。今夜、声が消え始めた世界を見て、わたしは怖かった。でも、怖いまま逃げたくない。いっしょに、考えてほしい――と書いてあります」
「ミミラが書いた?」
あたしは聞いた。
「わたしが書きました。伝わるかどうかは、分かりません。でも、言いたかった」
「伝わるよ」
「なぜ分かりますか」
「カラマは昨日、揺れてた。フロリアに言われたとき、目が揺れてた。揺れている人には、言葉が届く」
ミミラが少し間を置いた。
「……リオナは、人を見るのが得意ですね」
「フロリアにも言われた」
「フロリアさんも同じことを思っているのですね」
ミミラはそう言って、少し笑った。
「お似合いです」
「何が?」
「二人が」
あたしは何も言わなかった。
顔が少し熱い気がした。
午後になると、世界の声が続けてやってきた。
遠くから、バロンの声がした。大きな声で、でもかすれていた。
「花姫! 種を早く戻せ! 森の声が消えかけている!」という声が、風に乗って来た。
チクードの島の方向から、低い声がした。「我を抜け!」という声だったけど、途中で切れた。それでもチクードだと分かった。
火山の方向から、どごんという音がした。泣き声だった。でも言葉になっていなかった。言葉を失いかけているんだと分かった。
キノコ谷の胞子が、地脈を通って伝わってきた。フロリアが感じ取った。
「キノコ谷は、まだ声を持っています。でも、薄くなっています」
「急がないといけない」
「そうです」
「でも、世界中の声を集めるのに、どのくらいかかる?」
「分かりません。でも――」
「でも?」
フロリアが七つの種を握った。光が揺れた。
「始まっています。ルミナが声を集め始めている。群島の住民の歌が、かすかに届いています。キノコ谷の胞子も届いています。バロンが森に声をかけ始めている。まだ少ない。でも、届いています」
「声が集まれば、世界樹に届く?」
「届きます。でも、わたしが世界樹と繋ぎ役にならなければ、バラバラのままです。声を一本の流れにまとめる役が必要です」
「フロリアが、その役?」
「そうです」
「消耗するんじゃないの?」
「消耗します」
フロリアがまっすぐあたしを見た。
「でも、還る必要はありません。声の流れを繋ぐだけなら、ここにいたままできます」
「本当に?」
「本当です。ただし」
「ただし?」
「乾きの商会の装置が起動されれば、種の力が乱れます。声の流れが断ち切られます。そうなれば、もう一度やり直しが必要になります」
「カラマは装置を使わないって言ってた」
「カラマさんは使いません」
フロリアが少し目を細めた。
「でも、バンゴさんが一人で動く可能性があります」
「バンゴが?」
「任務への責任感は、本物だと思います。カラマさんがいなくても、自分で動くかもしれない」
「見張りが必要だポポ」
「あたしが行く」
「リオナが?」
「フロリアは声の繋ぎ役をしないといけない。ポポルは記録の読み解きが必要なときのために残る。あたしが装置を止めに行く」
「装置の場所は分かりますか」
ミミラが聞いた。
「分かる?」
あたしはミミラに聞いた。
「わたしが案内します。バンゴ隊長が装置を持っていた場所は、見ていました」
「いっしょに来てくれる?」
「はい」
ミミラが少し間を置いた。
「わたしはもう、商会の仕事はしません。でも、今日のことを止めることは、したいです」
「ありがとう」
「礼はいいです」
「礼を言います」
ミミラが少し笑った。
「フロリアさんと同じことを言いますね」
「そうかな」
「そうです。二人とも、礼を言います」
出発する前に、フロリアに言った。
「行ってくる」
「はい」
「声の繋ぎ役、消耗しすぎないで」
「気をつけます」
「倒れたら困る」
「倒れません」
「倒れそうになったら、ポポルに言って」
「言います」
「本当に?」
「本当に」
あたしはもう一つ言いたいことがあった。でも、うまく言葉にできなかった。
代わりに、フロリアの手を少し握った。
フロリアが少し目を細めた。
「行ってください、リオナ」
「うん」
「全員で戻りましょう」
「戻る。絶対に」
「リオナ」
「うん」
「簡単に言うポポ」
「え?」
「全員で戻る、って、さらっと言ったポポ。でも、ポポはそれが一番好きだポポ。リオナのそういうところが、一番好きだポポ」
あたしは少し驚いた。
「ポポ、珍しいね。そういうこと言うの」
「夜じゃないのに言ったポポ。それくらい本気だポポ」
「……うん。ありがとう」
「行けポポ」
ミミラといっしょに、商会の船が停泊している方へ向かった。
島の反対側だった。岩場を越えて、海岸に出ると、商会の船が見えた。
バンゴが甲板にいた。
大きな装置を運んでいた。金属でできていて、形は複雑だったけど、種の力を引き出す道具だとカラマが言っていた。バンゴが一人で運んでいた。
「隊長!」
ミミラが叫んだ。
バンゴが振り返った。
「ミミラ! どこにいた! 任務は――」
「装置を使わないでください」
「何?」
「カラマ様も、使わないと言いました。装置を起動すれば、種の力が乱れます。世界樹への声が途切れます。今、世界中の声が世界樹に向かっています。それを壊すことになります」
「任務は、種を手に入れることだ」
バンゴの声が、さっきより小さかった。
「種は、すでに花姫が持っています。取り戻せません」
「装置で――」
「装置で奪えません。花姫は、七つの種を世界樹に繋ごうとしています。声が届けば、世界樹は回復します。声が届かなければ、世界は今夜見た状態になります。バロンの声も、チクードの声も、消えていきます」
バンゴが黙った。
あたしはバンゴを見ていた。
バンゴは、ゴリラ王バロンに会ったことがあるんだろうか。チクードを知っているんだろうか。しゃべる動物や植物に、何かを感じたことがあるんだろうか。
「バンゴ」
あたしは呼んだ。
「野生児娘か。お前たちにずっと逃げ回られていた」
「逃げてた。でも今は逃げてない」
「何が言いたい」
「バンゴがいる島で、木が声を持ってた。花が歌ってた。カエルが手紙を運んでた。そういうの、変だと思った?」
「……変だとは思わなかった。ただ、そういうものだと思っていた」
「いつか、声が消えたら?」
「……」
「静かな島に、ただの木だけあって、何も言わない世界になったら?」
バンゴが装置を見た。
それから、ゆっくり、装置を船の甲板に置いた。
「……起動しない」
バンゴが言った。
「ありがとう」
「礼は要らん。ただ、任務に失敗した、というだけだ」
「失敗じゃないと思う」
「仕事だからな。失敗だ。ただ――」
バンゴが空を見た。空は、まだ色が薄かった。
「この空が元に戻るなら、それでいい。それだけだ」
フロリアのいる場所に戻る途中、空の色が少し変わった。
薄かった光が、少しだけ戻ってきた。
遠くから、歌が聞こえた。
群島からだった。ルミナが住民たちを集めて、歌い始めているんだと分かった。群島の声が、空を通って届いてくる。
地面の下から、キノコの胞子の音がした。
海の方から、サンゴの声がした。
火山の方から、どごんという音がした。今度は泣き声じゃなかった。力強い、響く音だった。
「フロリアが、繋いでる」
あたしは言った。
「そうです。あちこちの声が、一本の流れになっています」
「感じるの?」
「感じられません。でも、分かります。何かが変わっています」
「うん、変わってる」
走った。
フロリアのいる古代都市へ向けて、あたしは走った。
じゃあ、世界中に声を届ければいいんだね、とあたしは言った。
簡単に言わないでください、とフロリアは言った。
簡単じゃなくても、やる、とあたしは言った。
やっていた。
本当に、やっていた。




