第十六章 乾きの商会、本気を出す
夜明けと同時に動いた。
砂浜が白みかけたころ、三人はゲコッタの背中から島へ移った。ゲコッタが「気をつけるゲコ」と言った。いつもは「しっとりしたゲコ」とか「口の中が広いゲコ」とか言うゲコッタが、今朝はそれだけだった。なんか、しっかりした感じがした。
「ゲコッタ、ありがとう」
あたしは言った。
「どういたしましてゲコ。全員で戻ってくるゲコ」
「戻る」
島の岩場は、夜明けの光の中で灰色に見えた。岩と岩の間に隙間があって、その隙間が迷宮の入口になっていた。ポポルが頭の中の地図を確認した。
「入口は三つあるポポ。左、真ん中、右。商会がどこから入ったかによって、今どこにいるか変わるポポ」
「フロリア、種の気配はどこから強い?」
「真ん中の入口の方向から来ます。でも、別の気配もあります」
「別の?」
「人の気配です。すでに中にいます」
「商会か」
「おそらく」
「どっちから入る?」
あたしはポポルに聞いた。
「右から入るポポ。右からの方が、回り道になるポポ。でも、商会と鉢合わせしにくいポポ。奥で合流する形になるポポ」
「回り道でも、先に着けそう?」
「ポポの地図が正しければ、着けるポポ。商会がどのくらい進んでいるかによるポポ」
「行こう」
「行きます」
迷宮の中は、暗かった。
でも光がなかったわけじゃない。壁に古いランプが埋め込まれていて、かすかな光を出していた。何百年も前のランプが、まだ光っているのが不思議だった。世界樹の力、とポポルが言った。
道が入り組んでいた。右に曲がって、左に曲がって、上に登って、下に降りる。どこへ向かっているのか、あたしには全然分からなかった。でもポポルが迷わなかった。肩の上で耳をぴんと立てて、「こっちだポポ」「次は左だポポ」と言い続けた。
「ポポルの地図、すごいね」
「記憶だから、すごくはないポポ。生まれた時から入ってるだけだポポ」
「それがすごい」
「フロリアの種の気配も、似たようなものだポポ。生まれながらに持ってるものを使ってるだけだポポ」
「わたしは、それがすごいと思っていませんでした。当たり前だと思っていたので」
「当たり前のことを当たり前にできるのが、一番強いポポ」
「ポポルさんは、また大事なことをさらっと言いますね」
「木の実でも食べながら言えばよかったポポ。さらっと感が増すポポ」
あたしは笑いながら、前を見た。
壁の模様が増えてきた。植物の模様、太陽の模様、それから――世界樹の模様だと分かる、大きな枝を広げた木の形。
「ここは、世界樹に近い場所の建物だったんだね」
「そうだポポ。古代の人たちは、世界樹のそばに都市を作ったポポ。世界樹の力を直接受けながら、栄えた都市だったポポ」
「今は誰もいない?」
「誰もいないポポ。世界樹が弱り始めたころから、都市も衰えたポポ。最終的に、誰もいなくなったポポ」
「キノコ谷みたいに」
「似てるポポ。ただ、キノコ谷は今もいるポポ。ここは、誰もいなくなったポポ」
壁の模様を見ながら歩いた。
フロリアが手を伸ばして、模様の一部を触れた。
「覚えています」
「何を?」
「この場所を。世界樹の記憶の中に、この都市のことがあります。賑やかだったころの記憶が。人の声が、植物の声が、水の音が、全部混ざっていた」
「今は静かだね」
「はい」
フロリアが手を離した。
「でも、記憶は残っています。建物が、覚えています」
「建物が、記憶する?」
「植物が関わっていれば。この壁に這った根が、昔の声を覚えています。ぼんやりと、でも確かに」
あたしは壁を見た。確かに、壁の隙間に細い根が入り込んでいた。長い間かけて育った根が、石の隙間を埋めていた。
この根が、昔の声を覚えている。
なんか、いい話だと思った。
奥へ進むにつれて、音が変わった。
自分たちの足音と、ポポルの声と、かすかなランプの音だけだったのに、別の音が混じってきた。
人の声だった。
「商会だポポ」
ポポルが小声で言った。
「どこ?」
あたしも小声で聞いた。
「壁の向こうだポポ。別の通路を歩いてるポポ。近いポポ」
声の内容が聞こえてきた。
「カラマ様、こちらです! 地図通りなら、次を左に――」
「右です」と、別の声がした。カラマの声だった。「古代の地図の方向は、現在地から見て右です」
「では右に――あっ」
「どうしました」
「バナナの皮が――」
「ここは古代都市です。なぜバナナの皮があるのですか」
「持ち込んだ記憶が――」
「捨ててきなさい。作戦前の食事は控えなさいと言いました」
「申し訳ありません隊長!」
バンゴの声だった。相変わらずだった。
「カラマ様、バンゴ隊長が――」
「転びましたか」
「転びました」
「そうですか」
カラマの声に、疲れが少し混ざっていた。
「立たせてあげなさい。それから急ぎます。花姫たちが近づいています」
あたしたちは足を止めた。
「気づかれてる」
あたしはそう感じた。
「カラマは感が鋭いポポ。でも、場所は分かってないポポ。急ぐポポ」
「どっちが先に着く?」
「五分五分だポポ。走るポポ」
「走れるかな、この道」
「走れるポポ。ただし、ポポの指示に従うポポ」
「分かった。フロリア、走れる?」
「走ります。転ばないようにします」
「転んでも引っ張る」
「転ばないようにします」
「でも転んだら引っ張る」
「……ありがとうございます」
走った。
ポポルが「右!」「左!」「上!」と叫んで、あたしたちが従った。フロリアは転ばなかった。あたしも転ばなかった。壁の模様が流れて、ランプの光が飛んで、足音が響いた。
突き当たりに、大きな扉があった。
石でできた扉で、真ん中に世界樹の模様が彫ってあった。半分開いていた。
「開いてる」
あたしは伝えた。
「商会が先に来てたポポ。でも、中に入ったかどうかは分からないポポ」
「入るよ」
「待てポポ。罠があるかもしれないポポ」
「ポポル、罠の気配はある?」
ポポルが鼻を動かした。耳をぴんとした。
「……ないポポ。でも、人がいるポポ。扉の中に」
「商会?」
「一人だポポ。小さい気配だポポ」
フロリアが前に出た。
「わたしが先に確認します」
「危ない」
「危なければ、すぐ戻ります。でも、植物の声を聞ける方が先の方がいいと思います。中に何があるか、早く分かります」
あたしは一秒だけ考えた。
「いっしょに入る」
「リオナ――」
「いっしょに、って言った」
フロリアが少し止まった。それから、うなずいた。
「……いっしょに」
扉の中は、広かった。
天井が高くて、壁に世界樹の模様が大きく彫ってあった。部屋の真ん中に、台座があった。台座の上に、何かが乗っていた。
その前に、人がいた。
ミミラだった。
商会のベストを着て、台座の前に立っていた。こちらに気づいて、振り返った。目が大きくなった。
「リオナ、フロリアさん――」
「ミミラ、一人?」
あたしは聞いた。
「一人です。先に来ました。カラマ様は別の道から来ています」
「種、触った?」
ミミラが台座を見た。台座の上に、光が見えた。七つ目のいのちの種だった。
「……触っていません」
「なんで?」
ミミラが少し間を置いた。
「触る前に、確認しようと思って。これが本当に、カラマ様の言うように、人間が管理すべきものなのかどうか。触る前に、もう少し、考えようと思って」
「触らなかったんだね」
「触りませんでした」
フロリアがミミラに近づいた。
「ミミラさん、種は、わたしが受け取ります」
「……はい」
ミミラが台座から離れた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「礼を言われることでは――」
「礼を言います」
フロリアが台座の前に立った。種に手を伸ばした。
そのとき、扉が大きく開いた。
カラマが入ってきた。
白い服に、日よけ帽。眼鏡の奥の目が、部屋を見渡した。フロリアを見た。台座を見た。ミミラを見た。
「ミミラ」
カラマの声の温度が低かった。
「カラマ様」
「種は」
「花姫が、今、受け取ろうとしています」
カラマがフロリアを見た。
「花姫」
フロリアは振り返らずに言った。
「カラマさん、種は渡せません」
「受け取ります」
「渡せない、と言いました。七つ揃えば、世界樹の力を動かせる。その力を、正しく管理するのは――」
「植物が決めることです」
カラマが少し止まった。
「植物に決める力はありません。声はあるかもしれない。でも、決断は――」
「あります」
フロリアが台座の前で振り返って、カラマを見た。
「声があるなら、決断もあります。声と決断は、同じものです。あなたが聞こえないだけです」
「花姫には聞こえる」
「はい」
「だから、花姫が決めるのですか。それもまた、管理ではないですか」
「違います」
フロリアがまっすぐカラマを見た。
「わたしは声を聞く。聞いて、伝える。決めるのは、命たち自身です」
カラマが眼鏡を少し直した。
「理想論です」
「理想でも、目指す価値があります」
「理想では、世界は守れません。現実的な管理が――」
「管理で守れたものがありますか?」
フロリアが聞くと、カラマが黙った。
「カラマさんが集めた標本の植物は、生きていますか」
「……記録として」
「生きていますか」
「……生きてはいない」
「そうです」
フロリアが少し声を落とした。怒っているのとは違う、でも揺れない声だった。
「管理は、記録になります。でも命は、記録では続かない。続かせるためには、命に任せることが必要です。怖くても」
「怖いから、管理するのです」
カラマのその声が、少し変わった。
あたしは気づいた。カラマが怖がっているんだと思った。管理したくて管理しているんじゃなくて、怖いから管理しようとしている。
「カラマさん、何が怖いのですか?」
カラマが少し止まった。
「……自然は、気まぐれです。管理しなければ、失われます。大事なものが、突然消えます。わたしは――」
カラマが少し間を置いた。
「わたしは、それを見てきました。大事な森が、突然枯れるのを。手が届かなかった」
「だから、手が届く形にしようとした」
「そうです。管理できれば、失われない。そう思っていました」
「それは、正しかったですか?」
フロリアの問いに、カラマは答えなかった。
バンゴが扉のところで頭を出した。
「カラマ様! 例の装置を――」
「あとに、と言いました」
「でも、ここが古代都市の中心なら、装置を起動すれば、六つの種の反応が――」
「あとに」
「でも――」
「あとに!」
バンゴが引っ込んだ。
カラマがフロリアを見た。
長い間、見ていた。
「装置を使えば、六つの種の力を利用して、七つ目の場所を特定できます。そうなれば、先に取れる」
「使いますか」
フロリアが聞いた。
「……」
「使いますか」
「……」
「使えば、種の力が乱れます。六つの種は、今、安定しています。わたしが持っているから。でも、装置で力を引き出せば、種が反応します。不安定になります。それが何を起こすか――」
「分かっています。分かっていて、考えていました」
「どう考えましたか」
カラマが、また黙った。
あたしは黙って見ていた。カラマの目が、少し揺れていた。初めて見る揺れ方だった。いつも穏やかで、冷静で、揺れなかった目が。
「……まだ、決めていません」
「では、わたしが決めます」
フロリアが台座に向き直った。手を伸ばした。七つ目の種に触れた。
光が広がった。
部屋中が、一瞬、明るくなった。
それからフロリアの体から、花びらのような光が散った。今まで見たより、ずっと多かった。光が広がって、天井まで届いて、ゆっくり消えた。
フロリアが、少しよろめいた。
「フロリア!」
あたしがフロリアを支えた。フロリアの手の中に、七つ目の種があった。
七つ、揃った。
でも、フロリアの顔色が悪かった。白かった。六個目の比じゃなかった。
「大丈夫?」
あたしは聞いた。
「……大丈夫です。立てます」
「無理しないで」
「立てます」
フロリアが、あたしの腕を借りて立った。
カラマが見ていた。
ミミラが見ていた。
ポポルが走ってきて、フロリアの足元に来た。
「七つ、集まったポポ」
「集まりました」
「ポポが言った通りだポポ。古代の記録を読むポポ。この都市の記録を、今夜全部読むポボ」
「ポボ?」
「緊張してるポポ。でも、読むポポ。別の方法が、きっとあるポポ」
カラマが一歩前に出た。
「花姫」
「はい」
「装置は、使いません」
ミミラが「カラマ様」と言った。
「使いません。わたしは――」
カラマが少し間を置いた。
「自然を信じることが、怖かった。でも、管理で守れるものには限界があると、今日分かりました」
「分かりましたか」
フロリアが聞いた。
「分かりました。完全には、まだ。でも」
「今日だけで十分です。全部が分かる必要はありません。今日分かったことが、明日に続きます」
カラマが少し目を細めた。
「花姫は、人に優しいのですね」
「そうは思っていません。ただ、正しいことを言っているだけです」
「同じでしょう」
フロリアが少し考えて、「そうかもしれません」と言った。
カラマが扉の方へ歩いた。
途中で、ミミラを見た。
「ミミラ」
「はい」
「戻りますか」
ミミラが少し止まった。
「……少し、ここに残ってもいいですか」
「何のために」
「花姫たちの、手伝いをしたいです。古代の記録を読むと言っていたので。わたしは古代語を少し読めます」
カラマが少し黙った。
「そうですか」
「カラマ様、わたしは――」
「報告はあとでいいです」
カラマが扉に向かって歩き出した。
「バンゴを連れて、先に戻ります」
「はい」
「ミミラ」
カラマが扉のところで止まって、振り返らずに言った。
「怖くなくなったら、また話しましょう」
ミミラが「はい」と答えたら、カラマが出ていった。
扉の外で、バナナの皮を踏む音がした。バンゴが転んだ音がした。カラマが「また転びましたか」と言った声がした。
それから、遠くなった。
部屋に三人と一匹が残った。
フロリアが七つの種を手のひらに並べた。
七つの光が、部屋を照らした。
あたしはその光を見ていた。長い旅だった、とあたしは思った。空飛ぶバナナを追いかけた朝から、ここまで来た。
そのとき、フロリアの指先が震えた。
七つの光が、ふっと細くなった。
「フロリア?」
呼んだのに、返事がなかった。
フロリアは七つの種を見つめたまま、目を開いている。けれど、そこにいるのに、遠くを見ているみたいだった。
「……聞こえます」
「何が?」
「世界樹の声です」
フロリアの声は、いつもより小さかった。
「七つの種が揃ったから、繋がったのだと思います。でも……声が、細い」
「細い?」
「助けを呼んでいます。たくさんの声が必要だと。世界中の命の声がなければ、届かないと」
フロリアが、胸元を押さえた。
白い顔をしていた。
あたしは、いつものように「大丈夫」と言おうとした。
でも、言えなかった。
フロリアが大丈夫じゃないことくらい、見れば分かったからだ。
「わたし一人では、足りません。このまま無理につなげば、わたしは世界樹に還ることになるかもしれません」
「還るって」
聞いたのに、答えは分かっていた。
フロリアが、ここからいなくなる、という意味だ。
部屋が、急に静かになった。
さっきまで七つの種はきれいだった。旅の終わりみたいに光っていた。
でも今は、その光が少し怖かった。
「だめ。それは、だめ」
「リオナ」
「世界を助けるために、フロリアがいなくなるのは、だめ」
「でも、わたしは花姫です」
「花姫でも、だめ」
あたしはフロリアの手を取った。
冷たかった。
「一人で決めないで。いっしょに選ぶって、約束した」
フロリアの目が、少し揺れた。
ポポルが、七つの種を見た。
「……方法はあるポポ」
「あるの?」
「世界中の命の声を集めるポポ。フロリア一人が声を出すんじゃなくて、みんなの声を束ねるポポ」
「どうやって?」
「旅で出会った仲間たちに声をかけるポポ」
「次は?」
あたしは聞いた。
「記録を読むポポ。この都市の壁に、古代の記録があるポポ。ポポとミミラで読むポポ」
「わたしも読めます」
「フロリアは休むポポ。七つ目を受け取って、顔色が悪いポポ。休むポポ」
「でも――」
「休むポポ。ポポとミミラがいるポポ。リオナが見ててやるポポ」
フロリアがあたしを見た。
「リオナが、見ていてくれますか」
「うん」
「……分かりました。休みます」
ポポルとミミラが部屋の壁の記録を読み始めた。二人が並んで、古代の文字を読んでいく光景は、少し不思議だった。さっきまで敵だった子と、ポポルが並んで。
フロリアが壁に寄りかかった。
「リオナ」
「うん」
「七つ、集まりました」
「うん」
「怖いですが」
「うん」
「でも、一人で決めないと約束しました」
「うん」
「だから、ポポルさんが記録を読んで、何か分かるまで、待ちます」
「うん」
「待っている間、隣にいてくれますか」
「いるよ」
あたしはフロリアの隣に、壁に寄りかかった。
ポポルとミミラの声が、小さく聞こえた。古代の言葉を読む声と、それに答える声。
七つの光が、手のひらの中で揺れていた。
ここからが、本当の話だ、とあたしは思った。




