第十五章 リオナ、はじめて立ち止まる
朝になっても、あたしはフロリアに声をかけられなかった。
おかしな話だった。あたしは普段、考えるより先に体が動くタイプだ。困っている人がいれば手を出す。危ない場所があれば飛び込む。声をかけるのが遅れたことなんて、今まであまりなかった。
でも、今朝は違った。
フロリアがゲコッタの背中で起き上がって、種を確認して、海を見ていた。あたしはその少し後ろで、何も言えなかった。
「リオナ」
ポポルが呼んだ。
「うん」
「フロリアに声をかけないのかポポ」
「かけようとしてる」
「かけてないポポ」
「……かけ方が分からない」
ポポルが少し間を置いた。
「珍しいポポ」
「うん」
「リオナが、どうすればいいか分からないのは、珍しいポポ」
「うるさい」
「事実だポポ」
フロリアが振り返った。
目が合った。
フロリアが少し、表情を変えた。あたしのことを、まっすぐ見ていた。
「リオナ」
「うん」
「昨夜は、ありがとうございました」
「……うん」
「まだ、全部は受け入れられていません。でも、言ってもらえてよかったです」
「そう」
「そう、だけですか」
「……そう、だけじゃない。でも、言葉がまだ出てこない」
フロリアが少し目を細めた。笑っているのか、考えているのか、よく分からない表情だった。
「リオナが言葉に詰まるのは、珍しいですね」
「ポポルと同じことを言う」
「同じことを思いました」
「ポポとフロリアは、ものの見方が似てるポポ」
「そうかもしれません」
「そうかもしれないポポ」
あたしだけ仲間外れみたいで、少し悔しかった。
午前中は、ゲコッタがひたすら泳いだ。
世界樹の根元にある古代都市は、これまでの場所より遠かった。ポポルの頭の中の地図によると、まだ丸一日以上かかるらしい。
海が広かった。
あたしは船べりに座って、水面を見ていた。
昨夜のことを、順番に思い出していた。フロリアが隠していたこと、あたしが言ったこと、フロリアが泣いていたこと、手を取ったこと。
思い出していたら、また胸が重くなった。
でも昨夜とは少し違う重さだった。
昨夜の重さは、フロリアが一人で決めようとしていることへの怒りに近いものだった。でも今朝の重さは、もっと違うものだった。
フロリアを失いたくない。
その気持ちが、昨夜言葉にしてから、もっとはっきりしてきた。
名前のない何かが、胸の中でずっとあったかい。でも、同じくらいの重さで、怖かった。
怖い、という感覚が、あたしにはあまりなかった。でも、これは確かに怖いものだった。
「リオナ」
フロリアが来た。
あたしの隣に、少し距離を置いて座った。
「何を見ていますか」
「水面」
「水面に、何がありますか」
「光が揺れてる」
「きれいですね」
「うん」
少し間があった。
「リオナ」
「うん」
「昨夜から、ずっと考えていました」
「何を?」
「一人で決めない、という約束のことです」フロリアが手のひらを膝の上に置いた。「約束しました。でも、どうすれば一人で決めないでいられるか、まだ分かりません」
「一人で考えてる時点で――」
「分かっています」
フロリアが少し笑った。
「一人で考えながら、一人で決めない方法を探していました。矛盾しています」
「そうだね」
「だから、聞きます」
フロリアがあたしを見た。
「リオナは、どうすれば一人で決めないでいられると思いますか?」
あたしは少し考えた。
「声に出す、じゃないかな」
「声に出す?」
「考える前に、声に出す。考えてから言うんじゃなくて、考えながら言う。そしたら、一人じゃなくなる」
「考えながら言うのは、まとまっていないことを話すということですか」
「まとまってなくていい」
「まとまっていない話を聞かされる方は、困りませんか」
「困らない」
「わたしがまとまっていないことを話しても?」
「話して」
フロリアが少し間を置いた。
「……では、今、まとまっていないことを話します」
「うん」
「わたしは、怖いです。世界樹に還るかもしれないことが怖い。でも、それより怖いことがあります」
「何が?」
「種を集めることをやめたら、世界中の命の声が消えていく。ポポルさんの声が、バロンの声が、チクードの声が、火山の声が。それが怖い。だから止まれない」
「うん」
「でも、止まれないのと同時に、止まりたいとも思っています。旅を、もっと続けたいと思っています。リオナと、ポポルさんと、もっといろんなものを見たいと思っています。その二つが、ずっと同時にあります」
「どっちも本当のことじゃん」
「同時に願っていいのですか」
「いいよ。どっちかを諦めなくていい」
「でも、最後に選ばなければならないかもしれない」
「最後に選ぶときは、一人で選ばない。三人で選ぶ」
フロリアが少し止まった。
「三人で、選べるのですか」
「選べる。選ぶために、三人でいる」
フロリアが海を見た。あたしも海を見た。
「リオナ」
「うん」
「昨夜、言ってくれましたね。フロリアが消えていいわけない、と」
「言った」
「あれは、世界樹のためではなくて」
「フロリアのために言った」
「……わたし、個人への言葉ですか」
「そう。花姫じゃなくて、フロリアに言った」
フロリアが黙った。長い間、黙っていた。
波が何度か来て、返った。
「わたしも、まとまっていないまま、話します」
「うん」
「リオナがいなくなることを、考えたことがあります」
「え?」
「旅の途中で、何かがあって、リオナがいなくなったら、と考えたことがあります。火山のとき、洞窟の中で、水が流れてきたとき。リオナが出てこなかったら、と思って――」
「出てきたじゃん」
「出てきました。でも、一瞬、怖かった。その怖さが、何なのか、まだ名前が分かりません」
あたしは少し驚いた。
フロリアがそういうことを怖がっていたのを、知らなかった。
「名前は、今すぐ分からなくていい」
「分からなくていいのですか」
「分からないまま、持っていていい」
「……そうですか」
「あたしにも、名前の分からないものがある。でも、それでいい気がしてる」
フロリアが少し笑った。
「リオナは、名前の分からないものを怖がらないのですね」
「怖くないわけじゃないけど、怖いより面白い方が勝つ」
「それが、リオナです」
「そうかも」
「わたしには、そうはいきません。でも」
フロリアが少し間を置いた。
「リオナが隣にいれば、少しだけそうなれる気がします」
昼過ぎに、ポポルが言った。
「古代都市のことを、話しておくポポ」
三人が集まった。
「古代都市は、世界樹の根元にあるポポ。地上からは、岩の迷宮みたいな場所の奥にあるポポ。ポポ族の記憶に地図があるポポ。ただし」
「ただし?」
あたしは疑問に思った。
「乾きの商会がすでに向かっているポポ。ポポの感覚では、ポポたちより早く着いているかもしれないポポ」
「先に着かれてる?」
「可能性があるポポ。カラマは賢いポボ」
「ポボ?」
「ポポだ。賢いポポ。六つの種が集まったことも、知っているかもしれないポポ。残り一つを先に手に入れれば、世界樹の力を自分たちのものにできると思ってるポポ」
「だから急ぐ」
「そうだポポ。ただ――」
「ただ?」
「七つ目の種を手に入れた後のことを、三人で話さないといけないポポ。フロリアが言ったことがあるから」
フロリアが少し固まった。
「……七つ集まったとき、の話ですか」
「そうだポポ。昨夜の話を、ポポは聞いてたポポ」
「全部聞いていたのですか」
「全部だポポ。ポポは寝ていなかったポポ」
「……起きていたのですか」
「起きてたポポ。途中から、邪魔しない方がいいと思って黙ってたポポ」
あたしはポポルを見た。ポポルは真面目な顔をしていた。
「ポポから言うポポ。七つ集めたあと、フロリアが世界樹に還る必要があるかどうか、まだ分からないポポ。でも、分からないまま突っ込むのは違うポポ。古代都市に着いたら、記録を全部読むポポ。ポポ族の記憶と合わせれば、別の方法があるかもしれないポポ」
「別の方法?」
フロリアが聞いた。
「花姫一人が還らなくても、世界樹に種を戻せる方法が、もしかしたらあるポポ。古い記録に、そういうものがあった気がするポポ。気がするだけだから、断言はできないポポ。でも、調べる価値はあるポポ」
「……あるかもしれない、ということですか」
「そうだポポ。だから、フロリアという人には、今すぐ決めないでいてほしいポポ。古代都市で、ちゃんと調べてからにしてほしいポポ」
フロリアが、ポポルを見た。
「ポポルさん」
「ポポだ」
「……ありがとうございます」
「礼はいいポポ。ポポは三人で旅したいだけだポポ」
あたしは笑った。
「ポポが正直に言うの、珍しいね」
「昨夜、一人で抱えるなと言ったポポ。自分でも言うポポ」
「えらい」
「えらくないポポ。当たり前だポポ」
夕方になった。
空が赤くて、海が橙色だった。遠くに、岩の多い島影が見えてきた。
「あれが、古代都市のある島か」
あたしは眺めながら言った。
「近くまで来たポポ。でも、今夜は手前で停泊した方がいいポポ。夜に岩場を進むのは危ないポポ」
「明日の朝に入る?」
「そうだポポ。その方が、乾きの商会の動きも確認できるポポ」
「商会の船、見える?」
あたしはゲコッタに聞いた。
「見えないゲコ。でも、先に着いている可能性はあるゲコ。ゲコッタが偵察するゲコ」
「できるの?」
「夜は暗いゲコ。ゲコッタは夜目が利くゲコ。海から岩場を回れば、気づかれないゲコ」
「お願いしていい?」
「任せるゲコ」
ゲコッタが島の手前の浅瀬に停泊した。夜の海が静かだった。
三人で砂浜に降りた。
フロリアが島の方を見ていた。
「感じる?」
あたしは聞いた。
「はい。七つ目の種の気配が、あの岩の向こうから来ます。今まで感じた中で、一番強い」
「一番強い?」
「種の数が増えるほど、感覚が鋭くなります。六つ集まった今は、ほとんど場所が分かります」
「どの辺に?」
「岩の迷宮の奥、地下の深いところです。ポポルさんの地図と一致しているはずです」
「一致してるポポ」
あたしは島を見た。
明日、あの中に入る。七つ目の種を取る。そして、三人で――フロリアを世界樹に還さない方法を、いっしょに考える。
「怖い?」
フロリアが聞いた。
あたしはフロリアを見た。
「なんで聞くの?」
「リオナが怖がることは少ない。でも昨夜、怖いことが分かった、と言っていましたね」
「言ったっけ」
「言いました。名前は分からないけれど怖いものがある、と」
「……うん。言った」
「あれは、何ですか」
あたしは少し間を置いた。
「フロリアが消えることを考えたとき、来る感じ」
フロリアが黙った。
「それと、フロリアが笑うと、胸の奥があったかくなる。そのあったかさも、名前が分からない。でも、なくしたくない」
波が来た。
フロリアがあたしを見た。目が、夕日の色をしていた。
「わたしも、名前は分かりません。でも、同じかもしれない」
「同じ?」
「リオナがいなくなることを怖がっています。リオナが笑うと――」
フロリアが少し止まった。
「少し、焦ります」
「焦る?」
「心拍が、上がります」
「それは怖いの?」
「怖くはありません。でも、困ります」
「困る?」
「……なぜそうなるのか、分からないから」
あたしは少し笑った。
「分からないまま、持っていていい」
「さっき、そう言いましたね」
「そう言った。だから、持っていて」
フロリアが少し目を伏せた。それから、ゆっくり顔を上げた。
「……はい。持っています」
夜、ゲコッタが偵察から戻った。
「商会の船がいるゲコ。島の反対側に停泊しているゲコ。カラマらしい人影が、岩場の入口付近にいたゲコ」
「先に着いてたか」
「着いてたポポ。でも、迷宮の中は入り組んでるポポ。地図がなければ、なかなか奥まで進めないポポ」
「商会は地図を持ってる?」
「持ってる可能性があるポポ。でも、古代の地図は解読が難しいポポ。カラマが読めるかどうか――」
「読める。カラマは、古代語も読めます。群島での様子を見て、分かりました」
「じゃあ、急がないといけない」
「そうです。でも、焦りすぎないように」
「フロリアがそれを言う?」
「わたしが一番、焦りやすいので、自分への言い聞かせです」
「なるほど」
「明日、早く出ましょう。夜明けと同時に」
「夜明けと同時に。分かった」
「夜明けまでに、ちゃんと眠るポポ」
「眠れる?」
あたしはフロリアに聞いた。
「眠れるかどうか、分かりません。でも、横になります」
「あたしも横になる」
砂浜に並んで横になった。
星が見えた。さっきより増えていた。
フロリアが小さな声で言った。
「リオナ、世界を救いたいです」
「うん」
「でも」
「でも?」
「あなたと帰りたいです」
あたしは星を見たまま、少し笑った。
「どっちもなる」
「なりますか」
「なる。三人で、なる」
フロリアが少し間を置いた。
「……信じます」
「うん」
「信じるのは、怖いですが」
「うん」
「でも、信じます」
波が穏やかに続いていた。
本当は、どうすればどっちもなるのか、分かっていなかった。
でも、分からないから黙るのは違う気がした。
フロリアが怖いと言ったなら、あたしは怖くない方を指さしたかった。
明日、最後の種を取りに行く。
その先に何があるか、まだ分からなかった。
でも今夜は、フロリアの「信じます」という声が、砂浜に残っていた。




