21話 紅い宝石と、復讐の王子
「……はぁ、はぁ……。くそ、どいつもこいつも私を馬鹿にしおって……!」
エリュシオン聖王国の最果て、雨に煙るスラム街。
かつて黄金の王冠を戴いていたアストルは、今や泥にまみれたボロ布を纏い、下水混じりの路地裏を這いずっていた。
隣にいたはずのマリアは、レオの放った闇に呑まれ、生死すら不明。兵も、富も、尊厳も、すべてはあの「悪女」リゼットと、その飼い犬の魔人に奪い尽くされた。
「……力が欲しいか。……すべてを奪い返したいか」
背後から、ひび割れた瓶をこするような不気味な声がした。
振り向くと、そこには顔を包帯で幾重にも巻いた男が立っていた。男が差し出したのは、一振りの古びた短剣。その鍔には、脈打つ心臓のように不気味に明滅する、巨大な紅い宝石が埋め込まれていた。
「……これは、何だ?」
「……かつて世界を焼き尽くそうとした『深淵の王』の欠片だ。……これさえあれば、あの魔人の喉笛を食い破り、女王の首を撥ねることも容易かろう」
アストルは、吸い寄せられるように短剣を掴んだ。
その瞬間、彼の血管が黒く浮き上がり、眼球がどす黒く濁っていく。
「……リゼット。……レオ。……許さん。……絶対に、許さんぞ……!」
没落した王子の咆哮が、雨の音に掻き消された。
一方、ルナ・グラナードの王宮――。
昨夜の「初夜」の余韻もそこそこに、私は執務室で奇妙な来客と対峙していた。
「……女王陛下。……その男を、決して王配にしてはなりません。……彼は、世界を食らい尽くす『深淵』そのものですぞ」
目の前に跪いているのは、背中の曲がった一人の老婆だった。
彼女は、かつて魔人の村が存在したと言われる北方の地からやってきたという。その老婆が、私の隣で不機嫌そうに影を揺らめかせているレオを指差し、震える声で告げた。
「……お婆様。……レオは私の騎士ですわ。……彼が世界を食らうなど、冗談が過ぎますわよ」
私は紅茶を啜りながら、努めて冷静に返した。
だが、老婆の濁った瞳は、レオを突き刺すように見据えたまま動かない。
「……陛下はご存知ないのだ。……数百年前、魔人たちは一つの『実験』を行った。……最強の個体を作るために、千人の魔人の血を煮詰め、一つの赤子に注ぎ込んだ。……その赤子が泣くたびに、周囲の生命は枯れ果て、影がすべてを飲み込んだという……」
私は、ティーカップを置く手が微かに震えるのを感じた。
老婆の話は、レオが時折見せる、あの「圧倒的すぎて理解不能な闇」の正体を言い当てているような気がしたからだ。
「……その子は『深淵の楔』と呼ばれ、成長すれば世界の魔力をすべて吸い尽くし、虚無へ帰す宿命にある。……陛下、貴女が彼を愛でれば愛でるほど、彼の内なる『深淵』は肥大化し、やがて貴女自身も飲み込まれるでしょう」
「……黙れ、老婆」
レオの声が、冷たく響いた。
彼が指を弾くと、老婆の周りに展開されていた魔力シールドが砕け散り、彼女は風圧で後ろへ倒れ込んだ。
「……お嬢様を惑わすようなデタラメを。……私は、あなたを守るためにここにいる。……それ以外の理由など、あってはならない」
レオが私の前に膝をつき、私の手を強く握りしめた。
その手はいつもより熱く、そして、縋るような必死さが混じっているように見えた。
「……レオ。……貴方は、自分の出自を覚えているの?」
「……いいえ。……暗い地下室で、影と戯れていた記憶しかありません。……そこに、お嬢様が現れて私を救ってくれた。……私の世界は、あの日から始まったのです」
レオが、私の指先に縋り付くように口づけを落とす。
その瞳は紅く、美しく、けれどどこか「空虚な穴」が開いているようにも見えた。
(……深淵の王、の欠片。……もし老婆の話が本当なら、レオは、いつか私を壊してしまうのかしら?)
私はレオの頭を優しく撫でた。
たとえ彼がどんな怪物であっても、私を追放から救い、私を女王にまで押し上げたのは彼だ。
「……大丈夫よ、レオ。……貴方が深淵なら、私がその深淵の『主』になればいいだけのこと。……貴方を誰にも渡さないし、壊させもしないわ」
「……お嬢様……。……ああ、やはり、貴女だけが、私のすべてだ……」
レオが私の腰を抱きしめ、恍惚の表情を浮かべる。
だが、その時、王宮の警報魔法がけたたましく鳴り響いた。
「――報告します! 北の街道にて、正体不明の影が接近中! 周囲の植物が枯れ、動物たちが一瞬で白骨化しているとのこと!」
執務室の窓から北を望むと、そこには。
かつてのアストル王子の面影を微塵も留めない、巨大な「黒い霧」を纏った怪物が、こちらに向かって疾走してくるのが見えた。
その中心で、紅い宝石が不気味に鼓動している。




